04.お嬢さんの提案

 お嬢様の気まぐれで開催された合コンは、予定通りきっちり十八時半でお開きになった。

 土壇場で「やっぱり払え」と言われることも覚悟していたのだが、会計は雛乃が全額持ってくれた。真っ黒なクレジットカードで支払いを済ませた雛乃は、最後に店員に「ごちそうさま。美味しかったです」と言った。ただそれだけのことで、また少し彼女への好感度が上がった。


「ありがとう雛乃ちゃん、ごちそうさまー。今度はわたしが何か奢るね」


 美紅はあっけらかんと、雛乃にお礼を言っている。同世代の友人に奢られるのに抵抗のないタイプなのだろう。良くも悪くも金に頓着のないお嬢様らしい。


「なんか、オレらまでご馳走になっちゃって悪いなあ」

「いえ、気になさらないでください。私が無理を言って来ていただいたのですから」

「ごちそうさまです」


 龍樹は恐縮したが、俊介は「やっぱり払え」と言われる前に早々に礼を述べた。

 店を出ると路地を抜けて、大通りに面した場所にある。そこで雛乃は足を止めて、「直に迎えが来ますので」と言った。


「あ、そうか。御陵さんは車で帰るんだな。美紅ちゃんは地下鉄?」

「うん! たっちゃん、最寄り同じだったよね? 一緒に帰ろう」


 美紅の言葉に、龍樹は「送ってくよ!」とデレデレしている。まったくもってわかりやすい男だ。仕方ない、少しぐらいはアシストしてやるか。


「俺、お嬢さんの迎えが来るまで一緒に待ちますよ」

「あら、よろしいのですか?」

「ここで一人で待つのも物騒でしょ」


 まだ早い時間帯とはいえ、あまりガラの良くない連中もウロウロしている繁華街だ。こんなところに世間知らずのお嬢様を一人にするのは、さすがに気が引ける。


「雛乃ちゃん、わたしも待とうか?」

「いえ、じきに来ると思うので大丈夫です。椥辻さん、今日は本当にありがとうございました」

「ううん、わたしも楽しかったー! また大学でねー」

「じゃあ俊介、御陵さんのことよろしく」

「お二人とも、お気をつけてお帰りください」


 二人はぶんぶんと千切れそうなほど両手を振ってから、肩を並べて駅に向かって歩いていく。律儀に頭を下げて見送っていた雛乃は、ふたつの背中が見えなくなってからようやく面を上げる。


「山科さん、お気を遣わせて申し訳ありません」

「いや、龍樹に貸しを作っただけですよ。あいつ、椥辻サンのこと狙ってるみたいだから」

「……まあ、そうだったのですね。全然気が付きませんでした」


 雛乃がそう言って、片手を口元に当てた。あそこまで露骨な態度を見ても気が付かなかったとは、どうやらかなり鈍感なお嬢様らしい。

 それにしても、先ほどまでは座っていたためよくわからなかったが、こうして並んでみると雛乃は思いのほか小柄だ。踵の高い靴を履いているのに、俊介の肩のあたりに頭がある。堂々とした態度のためか、実際よりも背が高く見えるタイプなのだろう。

 吹き抜けた風が意外なほど心地良く感じて、自分の頬が熱を持っていることに気がついた。少し飲みすぎたのかもしれない。


「……あ、来ました。あの車です」


 俊介たちの目の前で、白のロールスロイスが停まった。素早く運転席から降りたロマンスグレーの運転手は、手慣れた仕草で後部座席の扉を開ける。


「じゃあ俺はこれで」


 俊介が立ち去ろうとしたところで、雛乃がすっと右手を差し出した。


「どうぞ」

「え?」

「乗ってください。よろしければ、ご自宅までお送りします」

「え、マジすか? ラッキー」


 雛乃の申し出に甘え、俊介は遠慮なくロールスロイスに乗り込んだ。身体が沈みそうなほどフカフカの座席だ。隣に座った雛乃がシートベルトを締めたので、俊介もそれに倣った。


「ご自宅はどちらですか?」


 雛乃の問いに、俊介はオンボロアパートの場所を簡単に伝える。運転手はすぐに把握したらしく、「承知いたしました」と言って車を発進させた。


「ありがとうございます。電車賃が浮いて助かりました」

「いえ、お気になさらず。私の方も、下心があってのことですから」

「下心?」


 目の前のお嬢様に似つかわしくない単語に、俊介は訊き返す。薄暗い車内で、雛乃はまっすぐに俊介のことを見据えていた。水面のように澄んだ瞳が街のネオンを反射して、不思議な色で光っている。

 その瞬間、タダより怖いものはない、という言葉が俊介の脳裏に浮かんだ。さんざんタダ飯を食らった見返りにとんでもないことを求められるのでは、と身構える。


「先ほどの話に戻るのですが」

「はい、なんでしょう」

「あなたの愛は、本当にお金で買えるのですか?」

「あー、そうですね。お安くしときますよ」


 半笑いのまま軽口で答えると、雛乃はニコリともせず「では、交渉に移りましょう」と切り返す。


「山科俊介さん、私の恋人になってください。もちろん報酬はお支払いします」

「………………はい?」


 たっぷり数秒の沈黙のあと、俊介の口から出たのは存外間抜けな声だった。目の前の女があまりにも真剣な顔つきをしているので、冗談ですよね、と笑い飛ばす空気にもならない。


「……リクエスト通り、札束で頰を殴った方がよかったでしょうか。ごめんなさい、今手持ちの現金があまりなくて……クレジットカードでもいいかしら」

「あ、いや、あれは比喩ですから。本気にしないでください」


 ブランドの長財布をゴソゴソ探り出した雛乃を、俊介は慌てて止める。クレジットカードの束で殴られるのは、物理的にちょっと痛そうだ。


(……御陵コンツェルンのお嬢さんが? 俺を恋人に? しかも、報酬ってどういうことだ?)


 まったくもって意味がわからない。話についていけず唖然としている俊介に、雛乃は続ける。


「もちろん、本気の交際を求めているわけではありません。私は卒業後に親の決めた相手と結婚することが決まっていますから」

「……ああ、そうなんですね」

「要するに、私と期間限定の恋人契約を結びませんか、ということです」

「恋人契約ぅ?」


 突拍子もない提案に、俊介は素っ頓狂な声をあげた。

 報酬を貰って、恋人のふりをする。俊介に経験はないが、〝レンタル彼氏〟なるアルバイトが一部の界隈で流行していることは知っている。雛乃が求めているのも、そういった類のものだろうか。


「なんでまたそんな、酔狂なことを」

「ローマの休日という映画、ご存知ですか?」

「へ? ああ、名前だけ……観たことはないです」

「まあ、ぜひ一度ご覧になってください。素晴らしい作品ですよ」


 いきなり話題を転換されて、ちっとも頭がついていかない。なんなんだ、この女は。マイペースなお嬢様の振る舞いに、俊介はやや苛立ってきた。


「ローマにやって来た王女と新聞記者の、一日の恋を描いた映画です。オードリー・ヘプバーンの美しさもさることながら、モノクロなのにローマの景色が本当に鮮やかで。なにより、ラストシーンがとっても素敵なんですよ」


 よほど好きな映画なのだろう。話しているうちに雛乃の表情と口調がやや砕けたものになってきた。そういう顔をすると、彼女も自分と同世代の女の子なのだと改めて思い知らされる。

 うっとりと熱をこめて語っていた雛乃だったが、置いてけぼりの俊介に気付いたらしく、我に返ったようにコホンと咳払いをした。


「……とにかく。私は、あのような恋をしてみたいのです。自分の世界を百八十度変えてしまう、身を焦がすような一日限りの恋を」

「はあ」

「あなたの〝愛なんて主観にすぎない〟という言葉、感銘を受けました。嘘を本当だと信じ込んでしまえば、本物と何の変わりもありませんものね」


 雛乃の表情と口調は真剣そのもので、こちらを騙そうとするような意図は感じられない。ならばこちらも真面目に考えようと、俊介は腕組みをした。


「……細かい条件面を確認しないと、なんともお返事できませんね。契約の期間は?」

「半年間を予定しています」

「お、意外と長い。ちなみに、報酬は?」

「相場がわからないのですが、一般的にはどのぐらいが適切なのでしょうか」

「時給二千円から四千円ってとこじゃないですかね」

「そうですね……では、あいだをとって時給三千円でいかがでしょう」

「悪くないですね」


 悪くない。むしろ、俊介にデメリットが少なすぎる。もし彼女が世間知らずで我儘放題のお嬢様だったとしても、こんな美女とデートして三千円貰える仕事なんて、やりたがる男はごまんといるだろうに。


「……やっぱり、納得できませんね」

「あら、まだ何か?」

「お嬢さんぐらい美人なら、もっといい男いくらでも捕まえられるでしょ。わざわざ金払って俺みたいなのと付き合うメリット、ないですよ」


 雛乃が首を傾けると、艶やかな長い黒髪が揺れる。椥辻美紅の言う通り、どんな男でもフッと息を吹きかけるだけで虜にできそうな美貌だ。こんなにも恵まれた女が、俊介を見初める理由がない。

 雛乃はじっとこちらを見据えたまま、言った。


「先ほども申し上げた通り、私は卒業後に親の決めた相手と結婚することが決まっています。恋はしてみたいのですが、その方に本気になってもらっては困るんです」


 雛乃の口調は淡々としている。ずっと聞いていても苦にならない、心地良い声のトーンだ。


「私が求めているのはあくまでも、期間限定の〝ローマの休日〟なんです」

「……なるほど」

「だから、あなたのようにお金で動く人間がちょうどいいんですよ。形のない見返りを求められる方が、よほど怖い。あくまでもビジネスライクな関係で、雇用契約と割り切った方が気が楽です」


(このお嬢さんとは、案外気が合いそうだ)


 映画のような恋をしたい、という夢見がちなことを言うわりには、自分の立場を冷静な目で見据えている。恋愛に対するドライな割り切り方も、俊介にとって好ましいものだった。


「山科俊介さん。あなたの愛、私に買い取らせていただけませんか?」


 雛乃はそう言って、俊介に向かって右手を差し出す。自分と同じ人間とは思えないほど、小さな手だ。

 俊介は考える。面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだが、時給三千円のアルバイトは非常に魅力的だ。半年間という期間もちょうどいい。断る理由を探してみたが、特に見つからなかった。


「……かしこまりました。サービスしますよ、お嬢さん」


 そう答えて、雛乃の小さな手をうやうやしく取る。彼女は表情を少しも変えないまま、俊介の手をきゅっと握り返した。


「半年間、私を上手に騙してくださいね」

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