26.お嬢さんの恋心
夏休み最後のデートは、二人で映画を観に行った。
雛乃が観たがったホラー映画は、思っていたよりもB級エログロだった。精神的にもかなりきつく、グロ耐性があると思っていた俊介でさえ、上映後にちょっと気分が悪くなってしまった。
「あー、キッツ……しばらく肉食えねえ……」
「大丈夫ですか? 少し座って休みましょうか」
ふらふらとよろめく俊介を、雛乃は甲斐甲斐しく支えている。映画館のロビーにあるソファに腰を下ろすと、隣に座って優しく背中を撫でてくれた。
「……雛乃さん、あれ見てよく平気な顔してられますね……」
「あくまでもフィクションですから。しかし、かなりリアルな映像でしたね。非常によくできた特殊効果だと思います」
頭ではCGだとわかっていても、実際大画面で目の当たりにすると、そこまで冷静にはなれないものだ。
俊介がはーっと深い息をつくと、雛乃が心配そうに顔を覗き込んできた。奇跡のように整った顔が、簡単にキスできるほど間近にある。うわ可愛い、と何度見ても新鮮な気持ちが湧いてくる。
「もう平気ですか? このあと、帝国ホテルのアフタヌーンティーに行くのですよね?」
「……うう、今食いもんのこと考えたくないです。すみません、もうちょっと待って」
甘えるように雛乃に寄りかかると、彼女は「できるだけ早く復活してください」と言いつつ、嬉しそうに寄り添ってくれた。
どうして彼女はこんなに良い匂いがするのだろうか。この世に存在する芳しい香りの花をすべて集めて、ぎゅっと凝縮したような匂いだ。
過去を曝け出して以降、雛乃との距離がほんの少し近付いた気がする。
あんなことを話したというのに、雛乃は幻滅した様子もなく、むしろ以前よりもずっと優しい瞳で俊介を見つめるようになった。出逢った頃の冷たいお嬢様は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
「あれ、俊介?」
不意に声をかけられて、俊介は顔を上げた。見ると、そこに立っていたのは香恋だった。肩が大きく開いたカットソーにデニムを履いて、ポップコーンとジュースを持っている。
俊介にぴったりくっついている雛乃を見て、香恋は「しまった」というような顔をした。デート中に元カノと遭遇するなんて、なかなか気まずいシチュエーションである。
香恋にしてみても、顔見知りが人目も憚らず彼女とイチャイチャしているところなど、あまり見たいものではないだろう。俊介がさりげなく雛乃の身体を引き剥がすと、雛乃はムッとした表情を浮かべた。
「わっ、デート中だったんだ。邪魔してごめん」
「いや、大丈夫」
「こんにちは、北山さん。お久しぶりです」
雛乃は可憐な笑みを浮かべて、俊介の腕に抱きついてきた。意外なほどに積極的だ。柔らかなものが二の腕にぶつかって、内心「ラッキー」と思う。しかし表には出さず、表向きは真顔を装った。
「香恋、こんなとこで何やってんの?」
「あたしもデートよ。彼氏と映画観に来たの」
そう言って、香恋はチケットの発券機を顎でしゃくった。眼鏡をかけたひょろりと背の高い男性が、こちらに向かって手を振ってくる。おそらくあれが、香恋の彼氏だろう。噂には聞いていたが、顔を見るのは初めてだ。
雛乃は俊介にぎゅうっと抱きつきながら、香恋の彼氏に視線を向ける。ニコニコと穏やかな笑みを浮かべている男は、人の良さが全身から滲み出ている。笑顔で手を振り返した香恋を見た雛乃は、ほっとしたように息を吐いた。
「じゃ、あたしもう行くから。楽しんできてねー」
香恋はそう言って、彼氏の元へと駆け寄っていった。仲睦まじそうに笑い合う二人を、雛乃はじっと眺めている。
「北山さん。お付き合いしている方がいらっしゃるんですね」
「そうですよ。彼氏、めちゃめちゃ人が良くて何やっても怒らないんで、周りから菩薩って呼ばれるらしいです」
「そうなんですか。それはよかったです」
雛乃が小さな声でつぶやく。何が「よかった」のかはわからないが、深くは追求しないでおいた。
香恋は笑って、彼氏の口の中にポップコーンを突っ込んでいた。別れる前は怒った顔ばかり見ていたものだが、あんな風に笑えるようになったのは喜ばしいことだ。気が強くはっきりものを言う香恋と菩薩は、きっと相性が良いのだろう。
香恋を見ている俊介に気付いたのか、雛乃は頬を膨らませて俊介の腕を引いた。拗ねたような目つきで、じとりと睨みつけられる。
「……隣に可愛い恋人がいるのですから、よそ見しないでください」
「余計な心配しなくても、俺は雛乃さんのことしか見てませんよ」
冗談のつもりで発した言葉は、自分でも驚くほど真面目な響きになってしまった。
夏休みが終わったが、四年生の後期ともなると、必修の授業はほぼ残っていない。卒業論文も授業やバイトの合間を塗ってほぼ完成させているし、あとは就職にあたって必要な資格をいくつか取るぐらいだ。
大学内の学食でうどんを食べながら、俊介はスマホに表示された給与明細をぼんやり眺めていた。今朝、雛乃からメールで送られてきたものだ。
プールに夏祭り、スカイツリーに映画。明細を見ているだけで、雛乃と過ごした夏休みの記憶が、ありありと蘇ってくる。
自分だけに水着姿を見せてくれたこと。浴衣を着た彼女が、嬉しそうに飴細工を眺めていたこと。俊介の過去を聞いて、俊介のために泣いてくれたこと。どれもこれも、鍵をかけて大切にしまっておきたいような思い出だ。
(……そんなの全部、ニセモノでしかないのに)
宝石のようにキラキラ輝く彼女との時間はすべて、イミテーションである。彼女にとっては気まぐれの暇つぶし、俊介にとっては時給三千円の美味しいバイト。いまさらのようにそれを思い知らされて、俊介は溜息をついた。
「よっ。なに辛気臭い顔してんの?」
バシンと勢いよく背中を叩かれて、俊介は慌ててスマホ画面をテーブルに伏せた。振り向くと、トレイを持った香恋が怪訝な表情でこちらを見下ろしている。
「なに? もしかしてエロ動画でも見てた?」
「こんなとこで見るわけねーだろ」
「アンタならわかんないわよ。学内ならWi-Fi使い放題だもんね」
「たしかに、言われてみればそうだな」
そんな軽口を叩きながら、香恋は断りもなく俊介の正面に座る。ここに座るのかよ、と思ったが、昼休みの学食は混雑しており、他に空いている席は見当たらない。見知らぬ学生と相席するよりマシだと判断したのだろう。
トレイの上には食堂の日替わり定食が乗せられていた。カラッと揚げられた鶏の唐揚げが美味そうだ。見ていると腹が減ってきた。
「唐揚げひとつくれよ」
「絶対嫌。自分で買いなさい」
「そういや、俺まだ三千円貰ってないぞ」
右手を突き出してひらひら振ると、香恋は眉を寄せて「何の話?」と尋ねてきた。
「俺とお嬢さん……雛乃さんが一ヶ月で別れるのに三千円賭けるって言ってただろ。順調に四ヶ月経過したぞ」
「げっ。なんでそんなくだらないこと覚えてんのよ」
香恋はげんなりとした表情を浮かべた。小皿の上に唐揚げをひとつ乗せて「これで勘弁しといて」と差し出してくる。こんなもので誤魔化されると思うなよ。あとで龍樹からも二千円徴収しなくては。
「そういや、こないだは偶然だったわね。想像以上に仲良さそうでビックリしたわ。俊介、人前でイチャつくタイプじゃなかったのにねー」
先日、デート中に遭遇したことを言っているのだろう。俊介は「ああ、うん」と曖昧に頷く。
たしかに香恋と付き合っているときは、デート中に手を繋いだ記憶すらない。というより、まともなデートさえほとんどしていなかったのだ。
香恋との交際を思い出すと、俊介を早々に見限って菩薩を捕まえた香恋は賢いな、とつくづく思う。客観的に見ても、自分はろくでもない彼氏だった。なんとなく気まずくて、無言でずるずるとうどんを啜る。
「愛されてるのね」
「え?」
「御陵さん、俊介のこと大好きでしょ」
想定の外から飛んできた香恋の言葉に、俊介は弾かれたように顔を上げた。
「……なんで、そう思った?」
そうだよ、と軽く答えてやればよかったのだろうが、できなかった。思わず訊き返した俊介に、香恋は「見たらわかるわよ」と呆れたように言う。
「これみよがしに抱きついたりして、あたしに対する敵意すごかったじゃない。俊介を見る目がもう、恋する乙女って感じで好き好きオーラダダ漏れだったし」
「……」
「あんなにわかりやすく嫉妬するタイプに見えなかったけど、意外だわー。御陵さん、とっても可愛いひとよね」
香恋はくすっと笑ったが、俊介は何も言えなかった。自身が薄々勘付いていたことを、他人の口から指摘されたからだ。都合の良い自惚れではないのだと、改めて思い知らされてしまったのだ。
たぶん、とっくに気付いていた。俊介を見つめる雛乃の瞳に、演技ではない熱がこもっていること。あなたみたいな人と結婚したい、と絞り出した切実な声。あなたのことをわかりたいと、彼女は俊介のために泣いてくれた。
――雛乃はおそらく、契約彼氏の枠を超えて、俊介に惹かれている。
それなら、俊介のすべきことはひとつだ。契約彼氏として必要最低限の仕事をすること。後腐れなく契約をまっとうするために、余計な期待を持たせることなどあってはならない。
(だってあのひとは、俺の知らない男と結婚しなきゃいけないんだ)
この契約が終わる最後のときに、雛乃が悲しむ顔は見たくない。できればお互いに笑って、半年間楽しかったと言い合って別れることができればいい。
「……雛乃さんが可愛いのなんて、とっくの昔に知ってるよ」
へらっと笑ってそう言ってのけると、香恋はげんなりしたように「惚気うざーい」と肩をすくめた。
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