25.お嬢さんの涙

 今から六年前、俊介の父親が死んだ。


 生前の父は真面目で誠実を絵に描いたような人間で、周囲の人々からも信頼されており、良き夫であり良き父だった……と、母は言う。俊介はもう、ほとんど覚えていない。

 しかし、そんな父の人の良さが裏目に出た。ひょんなことから知り合いに騙されて、裏切られて……気付けば取り返しがつかないぐらいに、借金が膨らんでいた。

 家族に迷惑をかけないよう、ひた隠しにしていた父の努力の甲斐があってか、しばらくのあいだ俊介は平和な日々を過ごしていた。しかし借金が膨らんでいくにつれて、平穏だった俊介の日常は、じわじわと侵食されていった。

 そしてある日を境に、父はどこかに連れて行かれ、ぱったりと家に帰らなくなった。おそらく、危険だが金を稼げる仕事に手を出したのだと思う。そこからが、地獄の始まりだった。

 自宅や学校の周りに、柄の悪そうな借金取りがウロつくようになった。部活中に黒スーツの男が土足で体育館に乗り込んできた翌日、俊介はバスケ部を辞めた。

 当時高校一年生だった俊介は、新聞配達等のアルバイトで、僅かながら家計を助けることにした。高校を辞めることも考えたが、それは母に止められた。友人は最初こそ同情の目を向けていたが、俊介の内面が荒んでいくことに気付くと、次第に離れていった。

 夜になると、借金取りが自宅の扉を叩いて怒鳴り散らした。泣きじゃくる妹を抱きしめながら、俊介は自分も泣きたいのを必死で堪えていた。

 運悪く玄関先で借金取りに出くわした際には、理不尽に殴られることもあった。みぞおちに蹴りを入れられた俊介は、大人から一方的に振るわれる暴力の恐ろしさを初めて知った。


(……金さえあれば。金さえあれば、俺も家族も、こんな目に遭わずに済むのに)

 

 当時の俊介は、毎日そんなことを考えていた。

 

 しかしそんな悪夢のような日々は、あっけなく終わりを迎えた。父の死体が発見されたのだ。死因は高所からの転落、ということだった。

 父は多額の生命保険をかけていた。状況が状況だけに自殺も疑われたが、調査の結果事故死だという判断が下り、生命保険金が支払われた。母は相続放棄をしたうえで死亡保険金を受け取り、俊介はかつての平穏を取り戻した。壊れかけていた人間関係も、あっというまに修復された。あんなにも辛かった日々が、金の力であっさりと解決してしまった。

 そのとき俊介は、父の死を悲しむよりも先に、はっきりと思ったのだ。

 ――ああ、父さんが死んでくれてよかった、と。

 実の父親が死んだというのに、そんなことを考えた自分にゾッとした。悲しみに暮れる母の前では、とても口にはできなかった。


 それからの俊介は、必要以上に金に意地汚くなった。大抵のことは金さえあればどうにかなると、気付いてしまったのだ。がめつい守銭奴だと罵られることも増えたが、反論の余地はなかったので、俊介は特に言い返さなかった。

 高校時代は、バイトもせずに毎日勉強に明け暮れた。長い目で見たときに、勉強して良い大学に入るのが将来的に一番金を稼げるだろうと判断したからだ。

 猛勉強ののち大学に入ったあともそれは変わらず、それなりの人間関係を築きながら、金のことばかりを考えていた。俊介が一番恐ろしいのは、あの辛く苦しかった日々が再び訪れることだった。

 父の死を悼むことは、ほとんどなかった。自分は肉親の死を悲しむことすらできない冷血な人間なのだと、そう思いながら生きてきたのだ。


「俺あのとき、本気で〝父さんが死んでよかった〟って思ったんです」

「……俊介……」

「……自分の父親にそんなこと言うな、って。雛乃さんの言葉は全面的に正しいです。俺にとって、家族よりも何よりも大事なものは、金なんですよ」

「……」


 黙って俊介の話を聞いていた雛乃は、俯いたまま面を上げようとしない。

 こんな話を聞かせて、不愉快な思いをさせてしまっただろうか。不安になった俊介は、彼女の顔を覗き込む。雛乃は何かを堪えるように、顔面に力を入れていた。


「うわっ。なんですかその顔」

「……ぅ……ふぅ……」


 ふるふると肩を震わせて、眉間に皺を寄せて、唇を噛み締め、黒い瞳が潤んでいる。泣くのを我慢しているのだと、ようやく気がついた。


「ちょっ、なんで雛乃さんが泣くんですか」

「な、泣いて、いません」

「でも」

「わ、私が……私のような、立場の人間が、何も知らないのに、う、薄っぺらい同情で、泣くのは、違うでしょう」


 絞り出すような声で、雛乃は言った。その必死さがなんだかおかしくて、状況も忘れて俊介は吹き出してしまう。

 

「ははっ、すげえ顔」

「わ、笑いごとでは、ありません……! 泣きたいのは、あ、あなたの方でしょう……」

「……別に。俺みたいなクズの方がよっぽど、泣く資格ないですよ」


 俊介は感情のこもらない、渇いた声で答える。俊介は父が死んだそのときに、涙ひとつ溢さなかった。雛乃は瞳に涙をいっぱい溜めて、瞬きもせずに俊介を見つめている。


「……じ、自分の視野の狭さに、う、うんざりします。私、やっぱり何もわかってなかった……」

「雛乃さん……」

「私っ……あなたの気持ちも知らず、ひ、ひどいことを……」

「別に、雛乃さんが気にすることじゃ」

「……わ、私には、あなたの気持ちは、わかりません。それでも、これだけは言えます。あなたが当時、何を思ったとしても……自分を責めて、気に病む必要は一切ありません」


(……勝手なこと言うなよ。あんたに、俺の気持ちなんて、わかるはずがない。ない、のに……)

 

 恵まれたお嬢様にはきっと、俊介の気持ちはわからない。わからないなりに、彼女は俊介の気持ちを想像して、代わりに悲しんでくれている。それを傲慢と捉える人間もいるのかもしれない。彼女の言葉は、彼女の言う通り〝薄っぺらい同情〟なのかもしれない。

 それでも俊介は、素直に嬉しかった。胸の奥に、じんわりと温かなものが広がっていく。


「……あなたが、いちばん、泣きたい、はずなのに……」


 そのとき俊介の心を動かしたのは、決して雛乃の財力ではなかった。札束で頬を殴られなくても、動く気持ちがあるのだと、俊介はようやく気付いたのだ。

 テーブルの上で握り締められた、雛乃の拳が小刻みに震えている。俊介は手を伸ばして、そっと彼女の手を包み込んだ。小さな手は、俊介のてのひらにすっぽりとおさまってしまう。

 

「……じゃあ。雛乃さんが、俺の代わりに泣いてください」


 俊介が囁くと、「うぅ」という嗚咽のあと、雛乃が瞬きをした。大粒の雫が、ぽたりとテーブルの上に落ちる。まるで大粒のダイヤモンドのように、美しい涙だった。本物のダイヤモンドを見たことはないけれど。

 それからしばらくのあいだ、雛乃は肩を震わせて泣きじゃくっていた。彼女が涙をこぼすたびに、ドロリと濁った醜い感情が、浄化されていくような気持ちになる。


 次第に、雛乃の呼吸が落ち着いてくる。ようやく顔を上げたとき、彼女の目はウサギのように真っ赤になっていた。ずび、と鼻を啜った彼女に、俊介はティッシュの箱を差し出す。


「はい、どうぞ」

「……ありがとう、ございます……」


 雛乃はそう言って、ティッシュで控えめに鼻をかんだ。鼻の頭が赤くなっているところも可愛い。

 俊介は手を伸ばして、濡れた頬を指で拭ってやる。柔らかな頬はひやりと冷たく、唇を押し当てたらきっと気持ち良いのだろうな、なんてことを考えてしまった。


「雛乃さん、化粧落ちてますよ」

「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません。顔を、洗ってきます」

「まだ時間もありますし、せっかくだから一緒に風呂でも入ります?」


 俊介が言うと、間髪入れずに「ばか」が飛んできた。恥ずかしそうに頬を赤らめたお嬢様があまりにも可愛くて、無性に抱きしめたいような、壁を殴りたいような衝動に襲われる。

 こみ上げてくる愛おしさを誤魔化すように、俊介は「冗談すよ」とおどけて笑ってみせた。

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