番外編:お嬢さんとの秘め事

 九月の半ば、待ちに待った一ヶ月に一度の楽しいデートの時間。

 俊介と雛乃は都内にある洒落たカフェで、二人掛けのソファに並んで腰を下ろしていた。いわゆるカップルシートである小さめのソファに座ると、二人の身体がぴったりと触れ合う距離感になる。店内の照明は落とされ、流れるクラシック音楽の甲斐もあってかムードのある雰囲気が漂っている。

 やけに鮮やかなコバルトブルーのドリンクに口をつけた雛乃は、俊介に寄りかかるようにしながら上目遣いに見つめてくる。


「とってもお洒落なカフェですね。気に入りました。俊介が探してくるお店はいつも素敵で、どこで見つけてくるのかと感心します」

「お褒めいただき光栄です。ぶっちゃけ、全部ネットの力ですよ。今回は〝カップル イチャイチャ カフェ〟で検索しました。思う存分雛乃さんとイチャイチャしようと思って」


 そう言いながら雛乃の肩を抱き寄せると、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 彼女は頬を染めると長い睫毛を伏せて、「ばか」と呟いた。やはり、可愛い恋人からの「ばか」は何度聞いてもいいものだ。


「この店、夜はバーになるらしいですよ」

「まあ、そうなのですか。そういえばアルコールの種類が豊富でしたね」


 きっと今夜こそはと気合いを入れた男たちが、恋人を酒と雰囲気で酔わせて、そのまま近隣にあるホテルに連れ込むのだろう。あいにく今は真っ昼間だし、雛乃が飲んでいるのはノンアルコールのカクテルドリンクだが。


「いつか、二人で夜に一緒に来ましょうか」

「ええ。私、俊介と二人でお酒を飲んでみたいのです。実は二十歳になってから、まだお酒を飲んだことがなくて」

「そうなんすか? 今後飲み会とかもあるでしょうし、自分の許容量知っとくのは大事すよ」

「だから、初めては絶対俊介がいいと思っていたのです。……あなた以外の方に、恥ずかしい姿を見せるのは嫌ですもの」


 熱っぽい眼差しでそう言われて、不覚にも動揺した俊介は盛大に咽せた。ゲホゲホと咳き込んでいる俊介に、雛乃はキョトンとして「大丈夫ですか?」と首を傾げている。


(……あー、死ぬほど可愛い。ちゅーしたろか)


 雛乃を目の前にすると、俊介のIQは3ぐらいに下がってしまう。誰も見ていない状況であれば、間違いなくそのツヤツヤとした桃色の唇を塞いでいただろう。が、今はそういうわけにもいかない。

 俊介がチラリと後方に目をやると、やや離れた席でクランベリージュースを飲んでいる運転手がこちらを睨みつけていた。ソファのおかげで首から下は視覚になっているはずだが、二人が密着しているのは明らかだろう。何もしてませんよ、のアピールのために、へらへら笑ってみせる。


 きっかり一時間の雛乃とのデートは楽しかったが、俊介は正直物足りなさを覚えていた。

 本当は二人でたくさんいろんなところに行って、いろんなことを語り合いたい。好きなだけ触れても許される立場になったのだから、もっとたくさん抱きしめてキスをして、未だ知らない場所まで暴いてやりたい。

 たった一時間のデート(しかも運転手の監視付き)では、せいぜい隠れて軽いキスをするのが精一杯である。それでも雛乃は真っ赤になって照れているし、舌でも入れようものなら容易くお嬢様のキャパシティをオーバーしてしまうのだろう。本当は舌以外にもいろいろ入れたいものはあるが、それはもう少し先の話になりそうだ。


(まあ、そこまではまだできなくてもいいけど……正直、もーちょいイチャイチャしたいよな)


 雛乃の肩に置いていた手を滑らせると、剥き出しの二の腕をするりと撫でる。びくんっ、と雛乃の身体が震えるのがわかった。

 九月といえどまだ残暑は厳しく、今日の雛乃は爽やかなライトブルーのノースリーブワンピースを着ている。店に入るまでは上からカーディガンを羽織っていたのだが、席について羽織りを脱ぐと、華奢な二の腕が現れたので仰天した。普段の雛乃はほぼ肌の露出をしないので、今日の装いは比較的大胆である。


「雛乃さん、そういうカッコしてんの珍しいすね」

「そ、そうですか? す、少し、はしたなかったでしょうか……」

「いえ、全然。まあたしかに、他の男に見せんのはちょっと嫌ですけど」

「だから、ずっとカーディガンを着ていたのです。……は、恥ずかしいけれど……あなたになら、見せても構わないと思って」


 雛乃は小声でそう言うと、「お気に召していただけたかしら?」と不安げに尋ねてきた。腹の底から、ぞくぞくとした愉悦が駆け上がってくるのがわかる。普段は楚々としたお嬢様が、自分にだけは〝恥ずかしいところ〟を見せてもいいと言ってくれるのは、どうしようもなく高揚するものがある。


「……可愛いです」


 溜息とともに本心を吐き出すと、雛乃は嬉しそうに頬を綻ばせる。花が咲いたように笑う顔がまた愛らしくて、俊介は彼女の身体をぎゅっと強く抱き寄せていた。雛乃の顔が俊介の胸にぶつかる。


「……雛乃さん。可愛い……」


 思わず漏れた自分の声は、驚くほど熱に浮かされている。柔らかな頬に片手を添えると、何かを察知したらしい雛乃が睫毛を震わせ、ぎゅっと固く目を閉じる。その仕草に誘われるように、ゆっくりと顔を近付けていったところで――

 背後に嫌な気配を感じて、はっと我に返った。

 俊介は雛乃の両肩を掴んで引き剥がし、何食わぬ顔でグラスを持ち上げて、ジュースを飲んだ。


「……雛乃様、俊介様。そろそろお時間です」

「あと三十分延長お願いしまーす」

「そういうシステムではありません」


 俊介の軽口をぴしゃりと跳ね除けたのは、いつのまにか背後に立っていた石田だった。真っ赤になって俯いている雛乃の姿を見て、俊介の腕を軽く捻り上げる。思い切り関節技を決められて、俊介は情けない声をあげた。


「イテ、イテテ! 石田さん! ギブギブ!」

「……お二人が納得の上で交際している以上、私が口に出す立場ではありませんが……場所と節度は弁えていただきますよう」

「はいはい、すみませんでした! 以後気をつけます!」


 俊介が謝罪すると、ようやく石田は腕を解放してくれた。俊介は捻り上げられた腕をさすり、恨みがましい目つきで石田を見る。


「……二人っきりになれる場を提供してくれるなら、俺だってちゃんと節度守りますよ」

「……検討しておきましょう。こんなところで手を出されるのは、さすがに困ります」

「お、言いましたね?」

 

 言質を取ったり、とばかりに俊介はニヤリと笑う。未だ気まずそうにモジモジしている雛乃の耳元で、こっそりと囁いた。


「聞きました? 雛乃さん。続きは来月のデートでしましょうね」


 いつものように、ばか、と言われるかと思いきや。雛乃は僅かに唇を尖らせて、小指をそっと差し出してきた。


「……約束、ですよ?」


 そんな顔でそんなことを言われると、今すぐにでも続きをしたくなる。

 振り向いた俊介は、石田に向かって真顔で「やっぱ、あと一時間延長できません?」と尋ねる。次の瞬間、再び右腕を捻り上げられてしまった。




*書籍版、完結巻にあたる2巻が本日12月5日発売です!

 後日談もたっぷり収録! よろしくお願いします!

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