39.お嬢さんには届かない

 雛乃の誕生日会が始まって三十分もしないうちに、俊介はこのパーティーの本質を理解しつつあった。

 列席者は代わる代わる雛乃の元を訪れ、祝いの言葉を述べている。そしてその隣にいる雛乃の父――御陵コンツェルンの代表だ――にぺこぺこと頭を下げながら、挨拶をしては戻っていく。

 俊介が声をかける隙なんて少しもない。ハイエナのような目をした大人たちが、会場のあちこちで腹の探り合いをしている。

 おそらくこの場は雛乃の誕生日会と名前を冠した、ビジネスの場なのだ。それを否定するつもりはないのだが、俊介は少し寂しくなった。今この場に、彼女の誕生日を心の底から祝っている人間が何人いるのだろうか。


(少なくとも、石田さんは本気で祝ってるんだろうけど)


 俊介はシャンパングラスに口をつけながら、チラリと隣の男の様子を窺う。

 石田の元にも、いろんな人間がひっきりなしに挨拶に来ていた。ただの運転手ではなかったのか、と俊介は驚く。


「石田さんって、もしかして結構偉い人だったりする?」


 人が途切れたタイミングで、俊介は尋ねる。石田は眼鏡のつるを持ち上げて、「偉い、という形容詞が適切かはわかりませんが」と答えた。


「私は長らく社長の秘書をしておりましたから。その関係上、この場に顔見知りはたくさんいます」

「はー、なるほど」


 俊介がキョロキョロと周囲を見回していると、向こうから背の高い男性が勢いよく歩いてきた。一目散にこちらにやってきた男は、がしっと石田の右手を掴む。


「やあやあ、石田さんじゃないですか! お久しぶりです!」

五十嵐いがらし社長。ご無沙汰しております。ますますご活躍のようで、お噂はかねがね」


 五十嵐と呼びかけられた年配の男は、まるで俳優かのように整った顔立ちをしていた。「いやあ」と破顔すると、口元に笑い皺が現れる。

 

「いやいや。もう息子たちも一人立ちして所帯を持って、私は仕事しかすることがないからね。しかし、雛乃お嬢さんももう二十歳か。ずいぶんお綺麗になって」

「ええ、本当に」

「最後にお会いしたときはまだ小学生だったのに、早いなあ。石田さんも寂しいでしょう」


 男は他の招待客とはやや異質な、ざっくばらんな雰囲気を持つ男だった。もちろん、その瞳の奥には油断ならないギラギラとした光を宿してはいたが。

 俊介の視線に気が付いたのか、男はこちらを向いて、ニコッと笑いかけてくる。おそらく幾多の女性を泣かせてきたのだろうな、という笑顔だった。


「石田さん。そちらの青年は? もしかして噂の、雛乃お嬢さんの婚約者ですか」


 男の言葉に、俊介の笑顔は引き攣った。石田は涼しい顔で、「雛乃様の婚約の件は、まだ本決まりではありませんので」と軽く釘を刺す。ここできちんと否定しておかないと面倒なことになると思うのだが、良いのだろうか。

 しかし、正式な婚約は来年だと雛乃は言っていたが、どうやら周囲には暗黙の了解となっているらしい。俊介は落ち込んだが、表情には出さないように努めた。


「アハハ、そうでしたか。いやしかし、雛乃さんも結婚を視野に入れる年頃になったんですねえ。ウチの息子たちも結婚してからすっかり丸くなって、初孫はもう小学生ですよ。もうすぐ、二人目の孫が産まれる予定で……」


 どうやら男はなかなかおしゃべりなタイプらしい。石田が男の相手をしているあいだに、俊介はこっそりとその場から離れた。

 目の前に美味しそうなご馳走が並んでいるのだから、どうせなら食べたい。朝から何も食べておらず、腹も減っている。これまで虎視眈々とチャンスを狙っていたのである。

 せっかくだから一番高価そうなものをと思い、ステーキを食べることにした。白いコック帽をかぶったシェフが、巨大な火柱を立てて目の前で肉を焼いてくれる。皿に乗った肉を受け取ったところで、背後から声をかけられた。


「……おや? きみは……」


 反射的に振り向いて、ぎくりとした。派手なチェック模様のスーツを着た男が、訝しげにこちらを見つめている。そこに立っていたのは、まさしく本物の雛乃の婚約者だった。


「たしか、先日雛乃ちゃんと一緒にいた……」

「あ、どうも」


 無視をするのも感じが悪いだろうと思い、軽く会釈をする。松ヶ崎は俊介を頭の先まで爪先まで、値踏みするように眺めたあとで、口を開いた。

 

「……どうしてきみがこんなところに? もしかして、どこぞのご令息だったりするのかな」

「いいえ? ただの一般庶民ですよ」


 内心焦っていたが、俊介は余裕を取り繕って笑ってみせた。石田に無理やり連れて来られたのだから、まさか叩き出されることはないだろう。高級ステーキを楽しむ権利だってあるはずだ。

 松ヶ崎は周囲の様子を気にしつつ、他人に聞かれぬよう小声で囁いてきた。

 

「もしかして、雛乃ちゃんが呼んだのかな。彼女には、ちゃんと関係を整理しろと言ったはずだけど」

「……」

「きみは、雛乃ちゃんときちんと別れるつもりはあるのかな?」


 俊介は下唇を噛んで押し黙る。いつものようにへらへら笑って、もちろん、と答えるべきだった。それでも、できなかった。


「……雛乃さんの気持ちは、どうなるんですか」


 俊介がそう絞り出すと、松ヶ崎は呆れたように、やれやれと首を振った。どこかこちらを小馬鹿にした笑みを口元に浮かべ、諭すように言う。

 

「きみにはわからないかもしれないけど、雛乃ちゃんの結婚は本人の意思でどうにかなる問題じゃない。御陵コンツェルンの動向を左右する、巨大なビジネスなんだ。今日の日本で、ここまで莫大な同族企業も他にない」

「……」

「御陵家の令嬢と結婚するというのは、将来日本の経済の頂点に立つ人間になるということだ。僕はどんな手を使ってでも、〝それ〟が欲しい」


 俊介は黙って拳を握りしめていた。俊介には、彼の野心を否定することができない。立派な心掛けだとも思う。

 ――しかし、この男の野心のためだけに利用される雛乃はどうなる?


「それに、いくら雛乃ちゃんがきみのことを好いていたとしても……育ちの違いというものは如何ともしがたいよ。きみは贅沢三昧で育ってきたお嬢様に、庶民の暮らしを強いるつもりなのか?」


 それは、俊介がずっと考えないようにしていたことだった。

 松ヶ崎の言うことはもっともだ。金がないことの辛さなら、俊介は誰よりも身に染みてわかっている。悪いことなんて何もしていないのに、父親の借金に苦しめられたあの頃。家族になるというのは、自分の貧困を他人にも背負わせるということなのだ。

 ぐるぐると思考が巡るけれど、何ひとつとして言葉にならない。俊介が黙っていると、松ヶ崎は高級そうな腕時計に目を落とす。それから「おっと、そろそろ時間だな」と呟いた。


「……それでは続きまして、株式会社御陵電機海外事業部本部長、松ヶ崎恭哉きょうや様より、ご祝辞をいただきたく存じます」


 場内に拍手が鳴り響く。松ヶ崎は爽やかな笑顔を振りまきながら、背筋を伸ばして壇上へと向かった。マイクを受け取り、堂々と話し始める。


「御陵社長、このたびは雛乃さんの二十歳のお誕生日おめでとうございます。雛乃さんがこんなにも立派にご成長なされたのも、社長が惜しみない愛情を注いできた結果だと存じます」


 つらつらと述べられる祝辞を、雛乃は精巧な人形のような顔で聞いていた。その瞳はやはり、氷のように冷たい。自分への祝いの言葉を述べられているとは思えない表情だ。


「……ここで、ご来場の皆様方へひとつ、ご報告がございます」


 そこで言葉を切った松ヶ崎は、ほんの一瞬だけ俊介に視線を向けた。

 それにつられるように、雛乃の視線も移動する。宝石のような黒い瞳がこちらを向いて、はっとしたように見開かれた。しゅんすけ、と赤い唇が動くのが見える。


「私、松ヶ崎恭哉は――雛乃さんが大学を卒業されたあかつきには、雛乃さんと結婚させていただきたいと考えています」


 会場がざわめく。血相を変えた雛乃が、勢いよく立ち上がる。何かを言ったようだが、マイクがないためここまでは聞こえなかった。隣の父親に咎められたのか、おとなしく口を噤む。


「まだまだ若輩者ではございますが、日頃からお力添えいただいている皆様に報いるよう、将来御陵コンツェルンひいてはグループ全体を背負って立つ身として、邁進していきます。もちろん、雛乃さんのことも全力で幸せにします」


 松ヶ崎に手を引かれ、雛乃が舞台中央へと連れて行かれる。スポットライトを一身に浴びた雛乃は、俊介とは別の世界の人間だ。


(俺は、何もわかっていなかった)


 まるで御伽噺のように、身分違いの二人が結ばれたとしても、人生はハッピーエンドの後も続くのだ。綺麗なものだけ与えられてきた天上人の雛乃を、地べたに引き摺り下ろして泥水を啜らせることができるのか。

 松ヶ崎が馴れ馴れしい手つきで雛乃の肩を抱く。どこからどう見ても、釣り合いの取れたお似合いカップルだ。御伽噺のお姫様を迎えに来た、王子様。将来結婚する二人は手と手を取り合い、見つめ合っている。


(最初から、俺が手を伸ばしていい存在じゃなかった)


 これ以上見ていたくなくて、背を向けた俊介は一目散に出口へと向かった。と、扉の前で石田が立ち塞がる。


「……俺、帰ります」


 震える声で、俊介が言う。眼鏡の向こうの石田の瞳が、ほんの一瞬絶望に揺れた。しかしそれも束の間のこと、すぐに冷たい声で言い放つ。

 

「ご自身の立場を、理解していただけたでしょうか」


 そこでようやく、何故俊介がここに連れて来られたのかわかった。石田は、俊介に現実を見せて、きっぱりと諦めさせようとしたのだ。

 俊介は唇の両端を持ち上げて、へらりと笑ってみせた。今までだってそうやって適当に笑って、胸の痛みをやり過ごしてきたのだ。

 

「よく、わかりましたよ。……自分の身の程は、きっちり弁えてます」

「……それなら、何も申し上げません。ご自宅までお送りします」


 石田はそう言って、扉を開けてくれた。

 押し黙ったままエレベーターに乗り、一階まで降りてくる。石田が「正面に車を回してきます」と言ったので、俊介は一人で取り残された。

 俊介は柱にもたれかかり、先ほどの光景を反芻する。壇上のスポットライトに照らされたお嬢様は、俊介の隣で微笑む女の子とは別人のようだった。きっとあれが、彼女の本当の姿なのだ。


「……お待たせいたしました。では、参りましょうか」


 数分ののち、石田が戻ってくる。俊介が歩き出したところで、背後から声が響いた。


「ま、待ってください……!」


 振り向かずともわかる、この半年間でずいぶんと聞き慣れた声だ。ノロノロと首を回すと、息を切らしたドレス姿の雛乃が立っていた。


「どうして、俊介がここにいるのですか……!」

「私が連れて来ました」


 俊介の代わりに答えた石田を、雛乃はキッと鋭い目つきで睨みつける。

 

「石田! どうして、そんなことを……!」

「……」

「……私、俊介にだけは、あんなところ……見られたく、なかったっ……!」


 雛乃の瞳から、今にも涙が零れ落ちそうになっている。俊介は無理やり笑顔を捻り出した。


「……お誕生日、おめでとうございます」

「俊介……」

「綺麗ですよ、〝お嬢さん〟。まるでお姫様みたいだ」


 涙をいっぱいに溜めた瞳は、子どものようにぶんぶんとかぶりを振る。俊介は、できるだけ残酷に聞こえるように――雛乃に向かって言い放った。

 

「来週が最後ですね。またメールするので、見ておいてください」


 そこで背を向けた俊介には、雛乃がどんな顔をしていたのかわからなかった。わかりたくないと、思った。

 唇を噛み締めたまま、俊介はホテルから出て行く。灰色の空からは未だ、ざあざあと激しい雨が降り注いでいた。

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