02.お嬢さんとの出逢い
「いやあ、俊介サンキュー! マジで助かった!」
俊介が講義ノートを差し出すと、
ありがたやとばかりに受け取ろうとした龍樹に、俊介はひょいとノートを持ち上げる。代わりに、無言で右手を突き出した。
「へ? なに?」
「五百円」
「はあー!? 金とんのかよ!?」
「当たり前だろ。俺が月曜一限の講義に無遅刻無欠席で真面目に出席した、汗と涙の結晶だぞ」
「ケチな奴だなー! 友達だろ!」
人の善意にぶーぶーと文句をつけてくる、図々しいこの男が友達かどうかは甚だ疑問だ。俊介は「じゃあこの話はなかったことに」とノートをリュックにしまう。
「せいぜい来月の試験勉強頑張れよ。おまえ、今年入ってから一回もあの授業出てないだろ。必修の単位落として、内定決まってんのに卒業できないなんて事態は避けたいよなァ」
嘲るような俊介の言葉に、龍樹はぐぬぬと表情を歪める。「払えばいいんだろお!」と叫んで、財布から五百円玉を取り出した。
「はいはい、まいどありぃ」
五百円玉と引き換えに、講義ノートを龍樹の頭に乗せてやる。龍樹は恨みがましい目つきでこちらを睨みつけていた。
「ほんっと、友達甲斐のない男だな……」
「なんでだよ。何の見返りもなく奉仕される方が怖いだろが。タダより高いものはない、っていうだろ」
「そうかあ?」
「言っとくけど俺は、ここで金取らなかったら永遠におまえにタカり続けんぞ。あのとき助けてやっただろ、あのときの恩を忘れたのかってな。そう考えると、五百円なんて安い安い」
「……ちくしょう、この守銭奴め」
呆れたように溜息をついた龍樹に、俊介は「なんとでも言え」と肩を竦めた。
龍樹に称される通り、山科俊介は自他共に認める筋金入りの守銭奴である。モットーは質素倹約、地獄の沙汰も金次第。猛勉強の末、日本でも有数の国立大学に合格した。
東北から上京してきて、オンボロアパートで一人暮らしを始めてから三年と少し。真面目に授業に出席しつつ、空いた時間の大半をアルバイトに費やしている。去年のうちに就職活動を終え、既に大手製薬会社からの内定を得ている。大学生活最後の一年は比較的のんびり過ごせそうだが、そろそろ卒業論文に取り掛かろうと思っていたところだ。
「そーいや俊介、今日の夜暇?」
小遣い稼ぎも済んだし、さっさと帰ってメシ食って寝るか、と思っていると、龍樹が切り出してきた。
予定はないが、益のないイベントに駆り出されるのはごめんだ。俊介はゼミの飲み会などにもほとんど顔を出さない。
「おまえが何を提案してくるかによって、暇かどうかを決める」
「相変わらずオブラートに包まない男だな……悪い話じゃないってば。
鳳女子、というのは近隣にある女子大学だ。お金持ちのお嬢様が多く通うことで知られており、美人が多い、という噂もある。もっとも、俊介は微塵も興味がないが。
これまで何度か人数合わせの合コンに参加したことはあるが、愛想笑いを浮かべて上っ面を撫でるような会話をするだけで、楽しいと思ったことは一度もない。何故か男性の方が多く参加費を徴収されるのも解せない。金の無駄だという結論に達してからは、誘われても参加しないことにしている。
そもそも、恋愛ほど金のかかる娯楽はない、と俊介は常々思っている。そんな一銭にもならないことに金と時間を費やすぐらいなら、労働して金を稼いだ方がずっとマシである。
それなりに異性ウケする見てくれをしているため、これまでに恋人がいたことはある。相手の押しの強さに流されるように付き合うのが大抵のパターンだ。しかし、大抵の女性は金にがめつい俊介の本性を知ると、波が引くようにすーっと逃げていってしまう。結局のところ、ケチな男はモテないのだ。
「あー、悪い悪い忙しい。じゃあな」
「ちょ、ちょっと待て! タダ飯食えるぞ!」
「おっ。それなら暇かもしれん」
魅力的な単語に、俊介は一瞬でてのひらを返して身を乗り出した。
合コンに微塵も興味はないが、タダ飯となれば話は別である。先ほど「タダより怖いものはない」などとうそぶいておいてなんだが、「タダ」はこの世で二番目に好きな言葉である。ちなみに一番好きな言葉は「金」だ。
「俺のバイト先のコの友達がさ、合コンしたいって言ってるらしくて。すげえ金持ちのお嬢様で、費用は全部その子が持ってくれるってさ。しかもそのへんの居酒屋じゃないぞ、〝むらさめ〟の六千円のコースだ」
「……話が上手すぎねーか? ホイホイついて行ったら、ぼったくられるんじゃないだろな」
俊介は眉間に皺を寄せた。タダ飯は大好きだが、ウマすぎる話にはウラがある、と考えるのが普通である。疑念を抱く俊介に、龍樹は「いやいや」と首を振る。
「
「なるほど。おまえ、その子のこと狙ってんだ」
「……頼む、俊介! 初めて美紅ちゃんと飲みに行けるチャンスなんだよー! イケメン連れて来いって頼まれてんだ! 俺の周り、女子と喋れるコミュ力のある奴ほとんどいないしさあ……頼むよ……」
勢いよく頭を下げた龍樹に、俊介は溜息をついた。俊介たちの周りには女慣れしていないシャイな男どもが多く、女子に対して臆さず会話できる奴は意外と少ない。
(要するに俺は、コイツが女と仲良くなるためのダシにされてるわけだ)
無償で利用されるのは癪だが、俊介の気持ちは揺らいでいた。今回はタダ飯という報酬もある。〝むらさめ〟の六千円のコースなど、貧乏大学生である俊介がおいそれと口にできるものではない。それほど食にこだわりのある方ではないが、タダ飯はいつだって食べたい。
「……飯食ったらすぐ帰るからな」
俊介がそう答えると、龍樹は表情をぱっと輝かせる。「心の友よ!」と両手を握ろうとしてきたので、ひらりとそれを躱してやった。
自宅アパートから目的の繁華街まで、地下鉄で片道二百三十円。タダ飯のためとはいえ、地味に痛い出費である。
改札を出て、地上へと続く階段を上ると、金曜日の繁華街は多くの人間でごった返していた。時刻は十六時すぎ、六月の日の入りは遅く、まだ太陽は天高く輝いている。
夜になると客引きがずらりと並ぶような歓楽街だが、この時刻だとまだ誰もいない。人の流れを掻き分けるように、すいすいと歩いていく。途中で、車が通れないような細い路地に入った。
合コンの会場である日本料理屋〝むらさめ〟は、駅前からは少し離れた路地裏にある、ひっそりとした隠れ家的な店だ。学生向けの店ではないため、俊介は一度も訪れたことはない。
引き戸を開けて中に入ると、「いらっしゃいませ」と迎えられる。予約の名前は「ミササギ」と聞いていたので、そのまま伝えると、奥の座敷へと案内された。
「おーす、俊介。おつかれ」
襖を開いて中に入ると、既に龍樹が座っていた。隣には、すっきりと耳の出たショートヘアの美女が座っている。タイトなTシャツにロングスカートというカジュアルな装いだが、傍に置いているのはハイブランドのバッグだ。さすがは鳳女子大のお嬢様、といったところだろうか。
軽く会釈をすると、ニコッと目を細めて人好きのする笑みを返された。
「今日は突然すみません。たっちゃんのバイト仲間の
「山科俊介です。はじめまして」
「山科さん、たっちゃんと同じ、
「噂って?」
「すごーくお金にがめついイケメンだって! でもほんとにかっこいいから、びっくりしちゃいました」
冗談めかして言った美紅に、俊介はへらっと笑って「そりゃどーも」と答える。
俊介は誰もが振り向く美形というわけではないが、なかなか顔立ちは整っているし、服装や髪型にもそこそこ気を遣っている。むやみやたらと愛嬌を振り撒くタイプではないが、求められるなら愛想笑いだってする。見た目を整えることに投資した方が、長い目で見ると得だと気付いたからだ。
合コンというからにはもう何人かいるだろうと思っていたのだが、座っているのは龍樹と美紅の二人だけだ。疑問に思って、腕時計(安物のデジタル時計である)を確認する。時刻は約束の十六時半だ。
「二人だけ? 他のメンバーは?」
「今日来るのは、あと一人だけですよ。今回の言い出しっぺです」
どうやら面子は四人だけらしい。合コンというには小規模だが、タダ飯にありつきたいだけの俊介に異論はなかった。
「こんな時間から始めるなんて、えらく早いっすね」
「門限が十九時らしいですよー。だから今日は、きっかり二時間で解散でーす。二次会はナシで」
「……うえ、小学生の門限かよ」
十九時門限とは、どれだけ箱入りのお嬢様なんだ。しかし長居をするつもりもないので、さっさと帰れるのはありがたい。タダ飯を食うだけ食ってお暇しよう。
テーブルを囲んで雑談をしていると、襖の向こうから「お連れ様がいらっしゃいました」という店員の声がした。俊介が首を回して振り向くのと同時に、襖が開く。
「お待たせいたしました。遅れてしまい、申し訳ありません」
襖の向こうから現れた女の姿に、俊介は一瞬目を奪われた。
ハーフアップに結われた、艶やかな黒のロングヘア。膝下丈の清楚な水色のワンピース。陽の光に当たったことなどないかのような白い肌。黒々とした大きな瞳を縁取る長い睫毛。すっと通った鼻筋。薄桃色の小さめの唇が、バランス良く配置されている。
ハッと息を飲むほど美しい女は気品に満ち溢れており、どこから見ても正真正銘のお嬢様だった。隣には黒いスーツを着た、ロマンスグレーの男性が控えている。
(執事だ。執事がいる。執事同伴で合コンに来る女、生まれて初めて見た)
呆気に取られている俊介を、女はチラリと一瞥する。宝石のような瞳に見つめられた瞬間に、心臓がどきりと跳ねる。が、俊介はそれに気付かないふりをした。
「お初にお目にかかります。御陵雛乃と申します」
清楚可憐なお嬢様はそう名乗ると、こちらに向かって優雅な仕草でお辞儀をした。
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