第29話 入国完了

 それから何時間かの間、俺とアリシアは同じ体勢のまま過ごした。

 馬車が揺れる度にごつごつと林檎から攻撃を受けるし、周囲の様子も会話も殆ど聞こえない事から(話し声程度はわかるが内容まではわからなかった)、不安と言えば不安だ。

 馬車が停まって話し声が多くなった時に、おそらく今が関所なのだろうな、と推測できたくらいだ。アリシアもそれを察したのか身体を強張らせていて、俺も自然と彼女を抱える腕に力が籠った。

 それからまた馬車が動き出して、暫く経った後に馬車が停まり──上の蓋がぱかっと開いた。


「お待たせ。無事入国完了したよ。今林檎退けるね」


 ナロンの声が聞こえてきて、そのままぽいぽいと林檎を退けていく。

 ある程度林檎がなくなるまでこちらは身動きができないのだが、徐々に重みがなくなっていくことで、安堵からか身体の力も抜けていく。

 思っていたよりもずっと楽だったというか、あっけなかった。殆ど何もしていないというか、呼吸を潜めてアリシアと抱き合って林檎に埋もれているだけだった。ナロンの逃がし屋としての腕は本物らしい。


 ──にしても、この時間はもう終わりなのか。


 この時間、即ちアリシアとの抱擁。

 いや、抱擁したくて抱擁していたわけではないのだけれど、いざ離れるとなると、ちょっと寂しいものがある。

 こう思えるのも、無事国境を越えたという安心感からくるものなのだろうけど。


「ほい、完了……って、もうちょっとそのままでいる?」


 林檎もほぼ取り除かれても抱擁したまま起き上がる気配がない俺達を見て、ナロンが言った。口調がやや呆れている。


「バカ、違うわ。身体が痛いんだよ」


 顔を赤くして起き上がると、反論する。

 実際に同じ体勢のままずっといた事と安堵感で、すぐに立ち上がる気にならなかったのだ。何もしていないはずなのに、ぐったりしていたのだ。

 アリシアも身体を起こすが、恥ずかしそうな顔をして俺と視線を交わす。その気まずさを誤魔化すように俺は凝り固まってしまった身体をほぐしながら、先に馬車の外へと出たのだった。


「もう国境からは離れたのか?」


 外の景色は、それほどさしてモンテール王国と変わりがあるわけではなかった。歩いている人々も変わりない。人種や文化に差があるわけではないから、ただ見るだけではわからないのだ。


「うん、抜けたよ。今僕らがいるのはこのへん」


 ナロンはジャカール公国の地図を持ってきて、広げて見せた。


「まだ国境からすぐのところなんだな」


 見覚えがなくもない場所な気がするが、ジャカールを訪れたのは随分前だ。その時は護衛の仕事で来ていたので、周囲の景色を楽しんでいる余裕はなかった。


「そうだね。国境を抜けて一時間くらいってところかな。とりあえず僕は本業で公都の方へ行くけど、君達はこのままウィンディア王国に行く?」


 俺とアリシアは顔を見合わせ、こくりと頷いた。

 ジャクール公国に入ったとは言え、未だモンテール王国とは距離が近い。国を挟んでウィンディア王国まで行かない限り、まだまだ追っ手の不安は拭い去れない。


「なら、西側のこの道をずっと歩いていく事になるね。まあ、村やら町やらは地図の通りだから、適度に物資を補給しながら行けばいつか辿り着くよ」


 ナロンはそう答えながら地図を丸めると、俺に手渡した。

 どうやら地図もくれるらしい。気前のいい奴だ。

 アリシアは道行く人々を眺めながら、大きく深呼吸をした。


「……少しだけ、空気の味が違う気がします」


 こちらを振り向いて、彼女がにこりと笑った。

 言われてみれば、少しだけ空気の味というか、匂いというか、そういったものが異なるかもしれない。


「ジャクール公国とモンテール王国は文化圏こそほぼ同じですが、山を越えているだけあって、生えている草木が異なりますからね。空気の匂いも微妙に異なるんですよ」


 アリシアの言葉をナロンが肯定する。

 アリシアは「そうなんですね!」と顔を輝かせていた。その笑顔には新しい場所に来れたという嬉しさが溢れていて、国を出たという後悔は一切見受けられなかった。


「はい、これは飲み水ね。林檎は食糧代わりに好きなだけ持って行っていいよ」

「もう暫くこの匂い嗅ぎたくねえよ……」

「皆そう言うね」


 ナロンは苦笑を浮かべた。

 この木箱の中では、言うなら亡命ができるかどうかという不安な思いをしている。その不安な思いと林檎の匂いがどうにも結びついてしまうのだろう。

 しかし──


「え? どうしてでしょう? 私は林檎の匂いも味も、好きですよ?」


 アリシアは全く気にしている様子がなく、きょとんと首を傾げていた。剰え「二つ程頂いていきますね」と鞄の中に仕舞っている始末だ。ある意味、俺より肝っ玉が据わっているのかもしれない。

 俺とナロンは顔を見合わせると、小さく息を吐いた。そして彼は俺達を見て、高らかにこう言った。


「何はともあれ、亡命おめでとう。これで君達は自由だ。二人の幸せを、モンテールとジャクールの狭間から祈ってるよ」

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