第14話 王女殿下の秘めたる恋心 ◆アリシア視点

「やってしまいました……」


〝聖王女〟ことアリシア=ヴィークテリアスは宿屋の脱衣所に入って、他に人がいないのを確かめるや否や、そう呟き肩を落とした。

 彼女は先程、とんでもないミスを侵してしまったのである。

 そう……一緒の部屋になってしまうのを気遣っていたシャイロを慮って『久々に誰かと一緒の部屋で寝るのも悪くない』と伝えようと思ったところ、『お城』という単語を出してしまったのだ。


 ──私だって気が動転していたんですから、仕方ないじゃないですかッ。


 アリシアは心の中で誰かに──おそらく彼女自身に向けて──文句を言いながらフードと聖衣を脱衣籠に投げ入れた。

 彼女とて、男女が一緒の部屋で寝る事の意義について知らないわけではない。むしろそれを知っているからこそ、フランソワ宰相のご子息ことアルミロとに嫌悪感を抱いていたのだ。

 アリシアとて、一応は王女の身で一人娘だ。外交上のカードとして重要な立場であるので、男女が結ばれる為や、子を作る事がどういう事かくらいの教育は受けている。

 しかし、責任感が強く、いつもアリシアに気遣ってくれるシャイロの事だ。それで恥ずかしがっている態度を表に出そうものなら、自分は外で寝るから部屋はひとりで使ってくれ、と言い出すに違いない。共に旅をする前──アルミロから救ってくれた時──からわかっていた事ではあるが、彼はなんだかんだ言って、女性に優しいのである。

 それはあまりに彼に申し訳ない、と咄嗟に何も知らない無邪気な少女を演じてみたものの、内心では気の動転を隠せず、不覚にも『お城』と口走ってしまったのがこのアリシア=ヴィークテリアスだ。

 アリシアからすれば二つの動揺──シャイロと共に一晩同じ部屋で過ごす事と、自らの失言──を同時に隠さなければならなかったので、宿の女主人が風呂を薦めてくれて助かっていたのである。


「……滅入っていても仕方ありません。今はお風呂に入って、気持ちを切り替えしましょう」


 アリシアは大きく溜め息を吐いてから貸し出し用の絹織きおりで自らの身体を覆うと、浴場へと入って行った。

 彼女の目の前に飛び込んできたのは、五人くらいは同時に浸かれるくらいの大きな浴槽だ。お湯も入れたてなようで、湯気が立っている。


 ──わぁ、大きなお風呂です。神殿のお風呂とどちらが大きいでしょうか? 何だか懐かしいですね。


 アリシアはこれまで自分が入っていた風呂との違いに感動を覚えながら、早速桶を手に取って湯を掬い、自らの白い肌に掛けてゆく。

 王宮で暮らしていた頃は、部屋に個室の浴室を作ってもらっていた。アリシアは魔力を通せば水や炎を生み出せる魔道石──実はそれ以外にも送風したりものをあたためたりもできる便利道具である──を持っているので、湯を汲んで来させる必要がなかったのだ。排水さえできるならば、わざわざ浴場まで行く必要がない。こうして所謂大浴場と呼ばれる場所でお風呂に入るのは、神殿での共同生活以来である。

 アリシアは早速洗い場の前に魔道石を置き、早速そこに魔力を送る。魔導石から水が溢れてくるのを確認すると、備え付けの洗髪剤や石鹸を用いて、身体を洗っていく。


「はあ……気持ちいいです」


 シャイロと共に過ごすようになってから、自分の体臭が気になって仕方ない。

 彼が見ていないところでこっそりとこの魔道石を使って絹布を濡らして身体を拭いたり、香粧品香料を髪に撒いたりしていたが、上手く誤魔化せていただろうか。うっかり彼の肩に頭を預けて眠ってしまっていた時は、目覚めた瞬間に青ざめたものだ。


 ──こんなに異性を意識したのは、初めてかもしれませんね。


 シャイロにどう思われているかが気になって仕方ない自分に呆れながらも、アリシアからは笑みが零れていた。


 ──でも、仕方ないじゃないですか。私はあの時から……ずっとシャイロに憧れていたんですから。


 アリシアは髪に洗髪剤をつけて、ごしごしと指先で地肌を洗いながら、の事を想い出す。

 あの時とは即ち、宰相のご子息・アルミロの誘いからシャイロが助けてくれた時の事だ。

 他の騎士や家臣達も、アリシアが困っていた事には気付いていたが、彼女を助けようとした者は誰もいなかった。それは相手がかの宰相のご子息で、何となくアルミロがアリシアの婿になるという噂を知っていたからだろう。もし何か邪魔したならば、将来的に自分に害があるかもしれない──そう危惧するのもわからないでもない。

 そんな中で唯一助けてくれたのが……あの、シャイロ=カーンというぼさぼさポニーテールの男傭兵だった。

 もちろん、表立って助けてくれたわけではない。彼はわざわざ大きな音を立ててワイングラスを地面に落として大きな音を立て──おそらく床に叩きつけたのではないかと思う程の音だった──注目を集める事で、アリシアが逃げる機会を作ったのだ。

 アルミロの視線がアリシアから逸れた時、シャイロはその鸚緑おうりょくの瞳で彼女をじっと見つめ、『今のうちに行け』と言わんばかりに入口に向けて首を動かしたのである。アリシアはその隙に宴の場から立ち去る事で、危機から脱した。

 あの時は本当に助かったと思っている。アルミロはもう結婚したも同然に考えており、自室で二人で飲もうと強引に誘ってきていたのだ。あまりにもしつこかった為、さしものアリシアもどう断ればいいのか、ほとほと困り果てていたのである。もう諦めるしかないのか、とも思っていた。

 だが、そんな姫君を見ても、 あの場で彼女を守ってくれる者は誰もいなかった。かの〝黒曜の剣士〟という通り名を持つ傭兵を除いては。

 アリシアがシャイロという傭兵に興味を持ったのは、その時からだった。

 彼女は自然と豊穣を司る大地母神リーファの敬虔なる信者だ。リーファ教では自衛を除いては争いには反対の立場を取っているので、戦で生計を立てる傭兵の事をあまり良くは思っていなかった。必要な職業ではあるのだろうが、自分と接点などないと思っていたし、関わる事もないと思っていた程だ。

 だが、その事件を切っ掛けに、シャイロという傭兵には興味を持ってしまった。それからアリシアはシャイロについて調べるようになっていたのだ。

 もちろん、あくまでも国が持っている資料を見たり、過去の活躍を報告書を読んだり、或いは吟遊詩人に〝黒曜の剣士〟の詩を謳ってもらう程度だ。功労者の中にシャイロ=カーンの名があればそれだけで胸が高鳴ったし、同時に戦に身を置く事を心配していた。いつか死んでしまうのではないかと不安で仕方なかった。

 自覚はなかったが、アリシアはこの時にはもう、話した事もない傭兵に恋をしていたのだ。

 そんなある日、国王と二人で話している時にシャイロの名を出してみた。パーティーに呼ぶくらいだからおそらく気に入っているのはわかっていたが、本当のところどう考えているのかを知りたかったのだ。

 すると、父王はシャイロの事を大層気に入っており、傭兵からは異例となる騎士叙勲を考えていると言っていた。

 その時、アリシアは声にこそ出さなかったが、内心飛び跳ねそうなくらい喜んでいた。きっと頬が緩んでしまっていたに違いない。

 彼が騎士になれば、もっと話す事ができるかもしれない。もしかすると、彼とも縁談の話が上がるかもしれない。そんな空想をする事で、彼女は自らの現実──アルミロとの婚姻の可能性──から逃避していたのだ。

 だが、そんなある日、ほぼ確定的な未来として、アルミロとの縁談の話が進んでいった。彼女は今持っているこの密かな恋心さえも捨てなければならない、いや、捨てなければならない上に汚されてしまうのではないかと感じたのである。

 もともと、大地母神リーファの贅沢を禁ずる教えとは真逆の事をやっていた教会のやり口に疑問を抱いていた。そこに加えてのアルミロとの縁談である。

〝聖王女〟などと呼ばれているが、所詮は自分も人の子だな、とアリシアが悟った瞬間だった。これまで親の言う通りに生きてきたが、そこで初めて自我が芽生えたのである。そこからの計画を密かに練り始めたのであった。

 だが、その家出実行日に密かに想いを抱いていた──しかも瀕死の状態の──傭兵と再会を果たすなど誰が思おうか。

 その時、アリシアは心の底から大地母神リーファに感謝をした。これは女神が与えてくれた奇跡なのだと思ったのである。

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