第44話 王女の独白

 戸締りの確認をしてからリビングの明かりを消して、二人して寝室へと入る。

 そこには、大きなダブルベッドが一つだけ、部屋の中央に佇んでいた。昼間ジュリアムと一緒に組み立てていた時には何とも思わなかったのに、今はやけにそのダブルベッドに威圧感を感じる。

 お互いに先を譲り合いつつ、アリシアはベッドの右側、俺は左側へと行き、それぞれがベッドに入った。毛布とシーツが擦れる音がして、中に入るとひんやりとした布地が身体を包み込む。


「えっと……じゃあ、明かり消しますね」


 アリシアが遠慮がちに言った。「ああ」と応えると、それから間もなくして部屋が暗闇へと飲み込まれる。

 とりあえず、彼女に背を向ける形で横に寝ると、そのままぎゅっと瞼を瞑った。


 ──このまま寝れば大丈夫、このまま寝れば大丈夫!


 俺は自らに言い聞かせるようにして、何度も頭の中でそう唱え続けた。

 お互いにベッドの隅っこに身体を寄せているので、互いの肌や服が触れ合う事はない。こうして隅っこに身体を押しやれば、個別のベッドで寝るのと大差ないはずだ。あとはこの空間にさえ慣れてしまえば、きっとこれまで通り寝れる──そう思っていたものの、彼女がほんの少し動くだけでその毛布を伝ってその振動がこちらにも伝わってきて、目を瞑っていても彼女が同じベッドで寝ている事を否応なしに感じさせられる。

 甘かった。背中や毛布からアリシアの存在を感じてしまって、嫌でもその後ろにいる彼女を意識してしまう。

 外で小さく鳴く虫の数を数えてみようかと思ったけれど、全く集中できずにただ目を瞑って、来る気配のない眠気を待つしかなかった。

 今日は掃除疲れもあるし、本来ならすぐに眠りに落ちるはずなのである。しかし、変な緊張感も相まってか、全く眠気が訪れる気配がなかった。

 それからどれほどの時間が経っただろうか。一時間くらい経ったかもしれないし、数分程度しか経っていないのかもしれない。

 それはわからないが、布が擦れる音が背後からしたかと思えば、アリシアが俺の背中の方に身体を預けてきた。


 ──は、はい⁉ 何⁉ どういう事⁉ 何が起こってるの⁉


 一気に大混乱に陥る俺である。

 寝返りでもしたのかと思ったが、そうではない事くらい、彼女の緊張した息遣いからも見て取れる。

 彼女は額を俺の背につけたまま、こう前置いた。


「あの……シャイロ。あなたが寝てると思って、私、これから独り言を言います。ただの独り言なので、もし起きていてもそのまま寝たふりをしていて下さいね」


 アリシアはそれから何かを決意するかの様に、小さく深呼吸をしていた。

 彼女が緊張しているのは背中からも伝わってきて、俺まで緊張してきてしまう。


「実は私……好きな人が、いるんです」


 衝撃的な冒頭から始まった姫の独白。思わず俺の身体が強張り、呼吸が止まったのは言うまでもない。


「私が心底困っていて、もう立場上、身も心も諦めるしかないのかなって思っていた時に……その人は颯爽と現れて、私を助けてくれました。助けたって言っても、ただワイングラスを床に落として注意逸らしてくれただけだったんですけどね」


 当時の事を思い出したのか、くすりとアリシアが笑った。

 それが誰の事を言っているのかは、明白だ。身に覚えがあり過ぎる話だった。


「それでも、あの時の私にとっては物語の勇者様みたいに見えたんですよ?」


 過去を懐かしむ様な、柔らかい声色だった。


 ──アリシア、お前はもしかして……。


 その本旨に気付いて俺が振り返ろうとすると、アリシアは俺の服の裾を摘まんで「独り言ですから」と制止させた。それから一呼吸置いてから、彼女の独白を続ける。


「その人にとってはほんの気まぐれだったと思います。ただ困ってる奴がいるから助けてやろう、くらいで……もしかしたら、退屈なパーティーの暇つぶしくらいの気持ちだったのかもしれません。それでも、色々なものを諦めなくちゃいけないのかなって思っていた時に、身を挺して助けられたら……」


 そこで言葉を一旦区切ってから、再び小さく深呼吸をしていた。

 そして、彼女は意を決して、こう続けたのだった。


「……好きになっちゃうじゃないですか」


 その言葉に、思わず息が詰まって胸の鼓動が高まる。


「身分が違っても、立場上叶わないって思っても、好きになっちゃうじゃないですか。何とも思うなって言う方が難しいですよ。だって……誰も助けてくれなかった私を、助けてくれたんですから」


 それからもアリシアは、俺の服の裾を震えた手で摘まみながらもその想い人への気持ちを語った。

 その男とはパーティー会場で見掛けただけで話した事はなかったけれど、それから彼の事を知る為に、報告書にこっそりと目を通すようになった事。自分から彼の活躍を追うようになった事。傭兵の資料を取り寄せて調べてみたり、吟遊詩人にその男の詩を謳ってもらったりした事。彼の活躍を聞くと、それだけで嬉しかった事。父からその男を騎士に叙勲しようと考えている事を聞いた時は、跳んで喜びそうになった事。

 俺はただ、彼女の独白を背中越しに聞くだけだった。そこには、まるで神話か何かの英雄に憧れるかの様な少女の姿があったのだ。きっと、彼女にとってその男とはそれに近しい存在だったのかもしれない。

 だが結局、彼女の恋は叶う事なく、絶望の結末を迎えそうになった。宰相の息子との縁談が進んでしまったのだ。その時、彼女は、身体だけでなく自分の密かに抱いていた恋心をも穢されるのではないかと危惧したのだそうだ。

 それが彼女が城を出た、大きな理由の一つだった。以前にもその理由は二つ程聞いていて、今回彼女が話したものはそのうちの一つの深堀したものだった。

 当時はただ嫌っている者との縁談が進んだ事が理由だと思っていたが、そうではなかった。その彼女を気まぐれで救った男を心から好いていたからこそ、他の男に触れられる事も、心を明け渡す事にも耐えられなかったのである。


 ──なんてこった……半分くらいは俺が原因で家出したんじゃないか。


 俺は沈痛な思いで彼女の話を聞いていた。

 彼女を助けた男……それは、俺である事に間違いはない。政治事情もわからぬ傭兵風情が国王のパーティーに呼ばれ、そこで貴族に言い寄られて困っていた王女殿下を気まぐれで助けてしまった。自分のそんな行いが、彼女の運命や国の未来までも変えてしまうだなんて、思ってもいなかった。

 だが、俺は彼女のあるべき未来を変えてしまったのだ。

 困惑のままに言葉を失っていると、すすり泣く声が聞こえてきた。俺の裾を掴んでいた手を離して、今は顔を覆っているのだろうか。何かでそのしゃくり上げる声が遮られているようだった。


「きっと……あなたが気付いていなかった事を、今から言いますね。全然伝わってなかったのがちょっと情けなくて、悲しくなってしまいますけど……」


 アリシアは声を途切れさせ、嗚咽を堪えながら続けた。


「シャイロ……私、あなたが好きです。ずっと……大好きでした」


 彼女のその告白には熱が籠っていて、その吐息が背中に当たってぞくりとする。

 その声はいつもの彼女のものと同じなのにどこか蠱惑的で、すがるようでもあって、否応なしに男の本能に訴えかけてくるものがあったのだ。


 ──そういう、事か……。


 俺は自分に呆れ返る他なかった。

 どうして風呂に入る前と後で彼女の様子が変わったのか。その理由に、今ようやく気付いたのだ。

 きっと、あの時彼女は自らの気持ちを今夜伝える事を決意したのだ。その傭兵上がりのバカ男があまりにも鈍いばっかりに、彼女に決死の覚悟をさせてしまったのである。


 ──大バカ野郎だ、俺は。


 自分への嫌悪感と情けなさで胸が一杯になる。

 気付いていなかった。アリシアの純粋なまでに真っすぐな気持ちに、俺は欠片程にも気付いてやれていなかった。気付こうともしなかったのだ。あまつさえ、彼女に心惹かれそうになるのを何とか踏ん張って抑えていた次第である。彼女が悶々としてしまうのも無理はなかった。

 確かに、妙に優しいなと思った事はあった。旅の間はいつも俺の分まで洗濯してくれていたし、料理も作ってくれた。自ら進んであれやこれやとやってくれていた。それは今日の掃除でも同じだ。姫君がどうしてここまでしてくれるのかと疑問に思った事も一度や二度ではない。

 それが、まさか俺に対する想いや恋心に等しい憧れから来るものだったなどと、一体誰が考えようか。


「お城を出てすぐに大怪我をしているシャイロと出会って……運命だと思いました。ポトス村は凄く良いところですけど、ほんと言うと、場所なんてどこでも良かったんです。ただ、シャイロと一緒に居れるなら……それだけで私は、幸せでしたから」


 アリシアの独白はそこで終わった。

 ただ俺の背の後ろでは、少女が小さくすすり泣き、その嗚咽を堪えていた。

 未だ俺の心は落ち着きを取り戻せず、想像もしていなかった事実に混乱をしていた。だが、何か応えて応えてやらなければいけない。この告白には、絶対に応えなければいけない。

 俺は自らの心を落ち着けるため、小さく息を吸って、吐いた。

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