第30話 新しい人生へ

「ここはもうモンテール王国の外、なんですよね……?」


 アリシアはナロンの馬車を見送ると、感慨深そうに呟いた。


「ああ。間違いなく、な」

「なんだか、信じられないです……凄く遠くまで来たんですね」

「一応戻れないところまで来てるから今更なんだけど……後悔はないか?」


 今訊いたところで遅い気はするが、念の為にもう一度訊いてみた。今ならまだ国境まで引き返せば国に戻れる可能性があるからだ。

 ただ、アリシアは俺のその質問に呆れた様に溜め息を吐いた。


「シャイロ、ちょっとしつこいですよ?」

「え?」

「後悔しないって、何度も伝えているじゃないですか」


 確かに、俺も何度か確認しているし、ナロンからも最終確認を取られている。

 アリシアと過ごすようになってから、既に二週間近く経つ。

 彼女がそれまでの間、家出や俺と共に国外に出る事を躊躇している様子や後悔している様子は見た事がなかった。

 俺は彼女がほんの少しでもそういった感情を見せれば、置いてくるつもりだったのだが……これはこれで、俺も彼女の誘拐依頼を引き受けた事の責任をしっかりと取らなければなりそうだ。


「それに、後悔をするくらいなら最初からこんな無茶なお願いなんてしていません」


 彼女はそこまで言ってから、ハッとして「いいえ、違いますね」と自らの言葉を否定した。


「……後悔しない日々を、これから作っていくんです。シャイロと一緒に」


 嫣然えんぜんとして笑うと、アリシアはこちらを向いてほんの少しだけ首を傾けた。

 その笑顔に、思わずどきりと胸が高鳴る。それと同時に、先程まで密着していた彼女の肌や香りまでもが脳裏に蘇ってきてしまった。


「そっか……じゃあ、出発しよう。とりあえず、最寄りの町で装備を整えなきゃな」

「はい!」


 気恥ずかしさを誤魔化した俺の言葉に、家出王女は元気に頷いた。

 今俺達は、ほんの数日分の飲食物とアリシアが城を出る際に持ってきたものくらいしか持ち合わせていない。早急に旅仕度を改めてする必要があった。

 これまでは〝逃がし屋〟の世話になる事を想定して、荷物はできるだけ少なめにしていた。変に数人分の荷物がたくさんあると、ナロンが疑われる羽目になってしまうからだ。荷物を増やすのは国を出てからだと思っていた。


「あっ……」


 そこで何かを思い出したかの様にアリシアが顔を上げ、ナロンの馬車が向かった方角を振り向いた。


「どうした?」

「そういえば、〝逃がし屋〟さんの料金をお支払いしていませんでした……」


 彼女は鞄の中から金貨袋を取り出すと、困った表情を浮かべた。

 そういえば、ナロンは金の話を殆どしなかった。それこそ、アリシアから料金の話を切り出したあの時だけだ。


『その亡命に至る理由を聞かせてもらうのが、主な料金ってわけなのさ』

『後は亡命した先で幸せに暮らしてくれたらそれでいいさ。辛い思いをしたなら、その分幸せになる権利があると僕は思ってるからね』


 俺はふとナロンの言葉を思い出した。

 もしかすると、俺から理由を聞いた時から、あいつは金を取る気がなかったのかもしれない。それでも敢えて料金をぼんやり指定したのは、アリシアから訊かれた事と、俺達に不審がられない為だ。

 あの場で『金は要らない』と言われると、もしかするとモンテール王国に引き渡されるかもしれないと警戒していたかもしれない。彼はそんな不安を抱かせないように俺達に気を遣っていたのだろう。全く、〝逃がし屋〟のくせに随分と殊勝な事だ。


「今から追いかけた方がいいでしょうか?」

「いや、別にいいと思う。少なくともウィンディアに着くまでも色々要り様なんだ。今はナロンのには感謝して、どこかで再会したらその時渡せばいいさ」

「わかりました。そうします」


 アリシアは顔を綻ばせると、もう一度深呼吸をした。


「もうフードで顔を隠さなくてもいいですよね?」


 どこか期待した様子で彼女が訊いてくる。


「まあ、多分な。お前の顔を知ってる連中はこの国には今んところいないだろう」

「やったっ」


 アリシアは俺の言葉を聞くや否や、嬉しそうにフードを脱いだ。

〝聖王女〟の名は周囲の国にも知られているが、彼女はその人生の殆どを王宮や王都、神殿で暮らしてきたという。肖像画などで見たことがある人はいるかもしれないが、彼女の生身の顔を知る者は少ないはずだ。


「はあ……これで堂々と歩けますね。どうしても顔を隠していると、イケナイ事をしているみたいで」


 気まずかったんです、と王女は付け足した。

 亡命というイケナイ事この上ない事をしているのだから仕方ないのだが、彼女の言いたい事がわからないでもない。

 俺もここ暫くの緊張感から漸く解き放たれた気がしていたからだ。


「じゃあ、これからそのイケナイ事をどんどんしていこう。それが俺達の新しい人生の門出なのさ」


 俺がそう答えてみせると、アリシアは嬉しそうに微笑み、こくりと頷いたのだった。

 宰相から命を狙われた俺が、どうしてかわからないが王女殿下と共にこうして他国へ亡命する羽目になり、一蓮托生の関係になってしまっている。

 だが、それを不自然に思う事もなかった。今では彼女が隣にいるのが当たり前で、ごく自然となっている。

 こうした当たり前が、これから新しい軌跡となって、俺達の未来を紡いでいく──何となくそんな確信を持ちつつ、俺達はウィンディア王国を目指したのだった。


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