(5)

 私の家と充留の家は、最寄りのバス停は同じですが、私の家の方はそこから山の少し向こう側に回り込んだ場所にあります。だから、早足で歩いても10分くらいかかる距離です。彼とは、小学校も中学校も同じで、昔から気軽に話ができる仲でした。高校に行ってからは、彼の家の方がバス停に近いので、学校帰りや部活帰りに、彼の家によく寄らせてもらっていました。


 それというのも、彼のお母さんがとても優しく頼りになる人だったからです。彼女は、朝早くから夕方近くまで地元の水産加工会社で働き、一度家に帰って家事をしてから、娘の早紀ちゃんのお見舞いに行くのです。聞いたかもしれませんが、充留のお父さんは彼が小学校低学年の頃に亡くなっています。それに、早紀ちゃんが入院したのは2年前くらいだったので、それ以来、彼女はそういう生活をしているのです。ですから、夕方の時間は彼女にとって束の間の休息時間の筈ですが、私が立ち寄るといつも丁寧に接してくれ、学校の様子や悩みなどを聞いてくれるのでした。私の母親はただうるさく「勉強しなさい」と言うだけなので、それに比べると彼の母の方に親しみを感じるのは当然でした。


 昨日、皆さんが帰ってから、彼とともに私はその家に立ち寄りました。いつものように、私は普段の何気ない学校の話をしながら、彼の母が夕飯を作るのを手伝っていました。彼の方は洗濯や風呂掃除の担当です。その代わりに、彼女が作った料理を少しいただいて帰ったりしていたのでした。


 日が暮れる前に家に帰ってから家族と食事をして、もう8時頃だったでしょうか。風呂を上がり、リビングでのんびりとテレビを見ていた時でした。


 突然、私のスマホが鳴りました。着信は充留からでした。普段からメッセージでのやり取りはありますが、電話することは少なかったので、私は少し驚きました。無意識に、そっとリビングから自分の部屋に戻りながら通話ボタンを押します。


『美嘉。今、大丈夫か?』


 彼の声を聞いて、私はなぜか胸が高鳴りました。何となく、いつもと様子が違うように思ったのです。


「どしたん? でも、珍しいなあ。電話なんて」


『ああ、わりいな。急に』


「別にいいけど。……それで?」


 うん、と言って、充留は少し黙ってしまいました。その沈黙が私の緊張を高めていきます。


(一体、何の話——)


 私の緊張を感じ取ったのか、彼はいきなりハハハ、と笑い出しました。


『いや、な。……さっき、催眠術の人とうたやろ? そのせいかもしれんけど、何か変な夢を見たんじゃ』


 なんだ夢か、と私はホッと一息つきました。


『美嘉が帰った後、ご飯食べとったんじゃけど、母さんも出かけてしもうて、少しだけテレビを付けたままウトウトしよったんじゃ。そん時に見た夢なんじゃが……何というか、妙な内容でな。それでどうしても美嘉に話しておきたいって思うたんや』


「夢……?」


 私は緊張が解けていくのを感じました。ただの夢の話か。しかし、悪い気はしなかったので、そのまま話を続けました。


「ええよ。教えてや。その夢のこと」


『ああ。その、何と言うか……言いにくいんじゃが……』


「何? 何でも言うて大丈夫じゃけど」


『夢の中にお前が出てきよってな』


 えっ、と私は驚いて再び胸がドキッとした感じがしました。夢に知人が出てくることはたまにあります。ただ、他人から「夢に出てきた」と面と向かって言われると、どこか恥ずかしい感じがしました。


「ど、どんな感じで、出とったん?」


 私は何気なく尋ねると、充留は再び言いにくそうにしていました。


『それが……その……』


「まさか、裸とかじゃなかろうが?」


『そんなんじゃないわ、アホ! ……ただなあ』


 彼は一旦強く否定しましたが、再び言いにくそうにした後、ぼそっと言いました。


『お前が、妊娠しとったんじゃ』


 へ、と私は変な声を出してしまいました。


「私が……に、妊娠?」


『いや、お前なんじゃが……たぶん、もっと大人になったお前じゃ。もう働き始めとる。何か、看護師みたいな白衣を着とったから。でも、白衣越しにもそのお腹が大きいことがはっきりとわかったんじゃ。そのお前が、早紀の手を引いて、歩いとるんや。どこかの病院じゃろうけど……外の、公園みたいな場所をな』


「早紀ちゃんと、私が……?」


 確かに不思議な感じがしてきました。


『俺は、その様子を、お前達から少し離れた場所から見とる。早紀は、とても顔色も良くって、しっかりと歩いとる感じやった。もう病気とは全く思えない様子なんや。俺はうれしくて、おーい、とお前たちに呼びかけながら手を振る。だって、早紀が外を歩くほど元気になるなんて……今の様子からは考えられんから』


 私は黙って聞いていましたが、彼もそこで一息つきました。


『俺の呼びかけに、『お兄ちゃーん』、と早紀も大きな声で返しよった。そして、お前も俺に大きく手を振ってから、『ちゃんと仕事せられよ』と言ってくる。仕事、と言われて、ふと自分の姿を見てみると、消防士みてえな恰好をしよったんじゃ。それこそ、仕事中に抜け出して来てしもうたような』


「うん——」


『俺は、お前たちに近づいていく。辺りに黄色い花が咲いている中を歩いていくんや。俺は早紀の前でその元気な顔を間近で見て笑う。それに早紀も笑顔を返しよる。そして、次にお前の方を見て『元気そうじゃな』と声をかけて……その……』


「その……? どしたんじゃ?」


 そこで充留は少し間を空けてから、思いきったように言いました。


『俺が、その……お前の……お腹の膨らみを、優しく撫でよった』


「ええっ!」


 私が大きな声を上げたので、充留は驚いたように早口で言った。


『すまん! こんな変な話して。……何かこれ、変態みたいやな。こんな話を当のお前にするなんて。俺、何かおかしいわ。やっぱり。あの催眠術師のせいかのう』


 私は黙っていました。ただ、ドキドキと胸が高鳴るのが自分でも分かるほどでした。その沈黙を破るように、『じゃけど……』と充留が話し始めました。


『エッチな意味やなく……それが、嬉しかった。幸せだった。……ような気がした』


 私は、うん、とだけ言いました。しばらく沈黙の時間があって、充留は慌てたように話し始めました。


『こ、これって、あくまで夢の話やからな。俺も何で消防士みてえな恰好しているかも分からんし、お前も何で白衣の看護師姿なのか分からんし。ただ……妙に現実みてえな感じがして、嬉しかったんじゃ。もちろん、早紀があんなに元気そうにして大声を出すのも……それから、お前の……』


「私の……何?」


 その質問に彼が答えるのに、少しだけ時間がかかりました。


『お前の、相手が……俺だったってことじゃ』


 充留のその最後の言葉の声は、いつもの彼とは全く違って、これまで聞いたことのないほどの小声に感じました。そして再び彼は黙ってしまいます。だけど、それは、必死に伝えようとしていることがわかる沈黙だと思いました。


「変……やないよ」


 えっ、と電話口の充留の声が聞こえました。


「私、その夢のこと、変やないと思うわ。むしろ……いいと思う。早紀ちゃんにはそんな風に元気にわろうたりしてほしいし、それに……私も、充留なら……」


 私が自分の胸の高鳴りを感じながら小声でそこまで言うのを、充留は黙って聞いていました。たぶん私のようにドキドキしていたのだと思います。すると突然、ハハハといつものような充留の大きな笑い声が聞こえました。


『そ、そうか……ごめんな。何か、そんな話を、急に話してしもうて……』


「うん、大丈夫……。ありがとうな」


『あっ、そうじゃ。あの催眠術師の市川さんの連絡先を教えとくわ。あの人、明日また来るって言いよったやろ? 明日は朝早くからオッサンの船に乗って、たぶん電話に出られんじゃろうから、朝の8時頃までに俺からお前に連絡が無かったら、あの人に連絡しておいてくれんか? 家の近くでもう少し待っとってくれるように」


 分かった、と私が言って電話番号を教えてもらうと、彼は電話を切りました。


 ずっと集中して彼の話を聞いていたようでした。電話が終わってからも、彼の1つ1つの言葉が、どんどん私の心の中に沁みこんでいくように感じられます。彼は、そんなことを普段言うような人ではありません。部活もせず、学校帰りに港や漁師の仕事でアルバイトをして家計を助けたりする真面目な人なんです。そんな彼が、急に私に好意を持っているようなことを言うので、本当に驚いたのでした。


 そして、その気持ちを胸にしまって、その夜は寝たのです。


 朝起きてみると、救急車の音が近くで聞こていました。窓から様子を見ると、港の方に救急車が何台も停まっています。ふと、充留のスマホに電話をかけてみましたが、電源が切られているようで繋がりません。なぜか胸騒ぎがしました。それで急いで港に走って行くと、向こうから救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎていきました。


 港に着くと、毛布にくるまってびしょ濡れで震えているおじさんの姿がありました。それは、充留と一緒に船に乗っていた漁師の人だとすぐに分かりました。彼に近寄って尋ねてみると、私の顔を見て、彼は「すまん」と言って頭を深く下げてから、彼から充留が救急車でさっき運ばれたと聞かされたのです。

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