BEST LIFE!
市川甲斐
プロローグ
よく晴れた暖かな日だった。
朝のラジオの地方ニュースでは、県内の有名な桜の名所となっている公園で、ちょうど桜が満開になったと伝えていた。今年は少しだけ平年より早い満開のようだが、私がやって来たこの場所に植えられた桜は、まだ満開ではないだろう。というのも、ここは標高が約900メートルあり、平地の気候とはかなり違うからだ。冬には雪も相当積もるし、気温もマイナス10度を下回る時もある。4月に入ったばかりの今も朝晩はまだ冷え込むが、それでも日中になると日差しも暖かく感じられるようになり、ようやく春らしい陽気になりつつあった。
私は少し前に車でその場所に到着すると、ゆっくりと外に降りて空気を思い切り吸い込み、背伸びをした。車に乗っていた時間は僅かであったが、そこの空気はなぜかとても気持ち良く感じられる。そして、振り返って車の後部のドアを開けると、お弁当を入れた薄いクリーム色のトートバッグを取り出した。今日は、ハムとタマゴのサンドイッチに、から揚げ、それに昨日作って残っていたフキと筍の煮物を持って来た。折角のお花見なのだからと思って、朝食の準備と並行してサンドイッチとから揚げだけは作った。
(こんなメニューだけで良かったのかな)
私は少しだけ反省しつつも、別に問題ないだろうと独りで納得した。料理は得意という訳ではないが、昔よりは色々と作るようになり、自分では満足できる程度に出来上がっていると思う。私は、そのトートバッグを持つと、車のドアをバタンと閉めた。
駐車場には車が10台ほど停められているが、駐車場が広い分、まだまだガランとした感じに思えた。すぐ向こうには、ピンク色の花を付けた桜の木が何本か並んでいる。どれもまだ三分咲きくらいだろうか。この感じでは、来週でもまだ十分に楽しめそうな感じだ。
それぞれの桜の木の下には、ビニールシートが敷かれ、そこに人々が座り込んでいる。その時期ならではの季節感を楽しみたい老若男女が、数人から多くても5、6人くらいのグループで集まっている。そうしたグループが6から7はあるようだ。酒が入っているのか、ご機嫌そうな笑い声も聞こえている。さすがに県内の有名どころとは違って、人だらけということはないが、ある程度大きな桜の木の下には先客が見えた。
(少し来るのが遅かったわね——)
私は出発が遅れたことをやや後悔した。ただ、今更それを言っても仕方がない。私はもう一度、辺りを見回した。すると、一番外れの方でシートを広げている人の姿が見えた。そこには他の木から少し離れて、小さめの桜の木が1本だけ立っている。その人は、キャラクターの絵柄が描かれた小さめのレジャーシートをそこに広げていた。
(そんな所で……。もっと他に場所がないの?)
私はため息をついてそちらに歩いて行く。そこには僅かにピンク色の花が咲いているのがここからでも見えたが、あのような場所で花見気分が味わえるのだろうか。
その人はレジャーシートを一度敷いてから、キョロキョロと周りを見回している。少し風が吹いていたので、どうやら重しになるものを探しているようだ。ところがその時、強い風が急にさあっと吹いた。周りからも、騒めくような声が聞こえる。砂利の駐車場の砂が舞ってきたようで、私も思わず目を閉じたが、再び目を開けると、雪のように舞うピンク色の桜の花びらとともに、さっき敷いた筈のキャラクター柄のレジャーシートがゆっくりと飛ばされているのが見えた。
その人は走ってそれを追いかけていくと、その途中で何かにつまずいて、いきなり転んだ。しかしすぐに立ち上がると、走って一度シートに追いついて取り上げたが、なぜかそれを再び風に飛ばされてしまう。私はその様子に苛立つというより、可笑しくなってしまい、思わず笑った。
「もう……何やってるの?」
私は声を掛けながらそちらに歩いていく。その人はシートをようやくキャッチしてさっきの場所に歩いて戻り、そこに敷き直すと、近くに置いてあった大きめの水筒をそこに重しとして置いたようだった。
「まったく……初めからその水筒を置いたら良かったのに」
「おかしいね。パパ——」
ふと足元で声が聞こえた。えっ、と思って見下ろすと、私の隣に、白いひだのある帽子を被った子供が立っていた。その子の小さな手は、私の手をしっかりと握っている。幼稚園の年中か年長くらいの子供だろうか。その手から、体温がじわりと伝わってきた。
(あれ——?)
一瞬、私の中で違和感があった。
(この子……)
私は顔を前に向けた。そこには、大きくもないレジャーシート1枚を悠々と敷いて、その上に自分も座ったその人が、いかにも満足そうにニコニコとしているのが見える。私はその姿を見つめながら、しかし、その場で動けなくなってしまった。
私はもう一度、隣の子供に視線を落とす。その子は真っすぐに前を向いている。帽子の下の顔は分からないが、私の手を握っているその手はしっかりと温かい。
顔を見たい。座りさえすれば、その顔はすぐに見える。もしくは、抱き上げてみればいい。きっと簡単に抱き上げることができるだろう。しかし、そうすることを私はなぜか恐れていた。
私は大きく深呼吸する。そして、私の左手を握るその子に向かって尋ねた。
「あなたは、誰?」
そう言って、私は体を屈めてその子供の両脇に手を滑り込ませると、思い切り高く抱き上げた。
キャハハ、という嬉しそうな声が聞こえる。しかしその次の瞬間、眩しい光に包まれて、視界が真っ白になった。
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