〈真夜中の湖にて〉
気が付くと、視界の端に僅かに明かりが見えた。
ゆっくりと体を起こす。無機質な蛍光灯のような白い灯りが、私の周りをぼんやりと照らしている。目の前にはハンドルが見える。そこは車の運転席のシートのようだ。
(私の……車?)
そうだ。それは、数年前に会社のボーナスを頭金にして手に入れた中古のミニの中だった。去年、カーローンの支払いも終わって、ようやく自分のものになったという気がしていた。
フロントガラス越しに外を覗くと、ほど近い場所に街灯があり、そこから蛍光灯の白い光が注いでいる。どうやらそこは駐車場のようで、地面には所々切れてはいるがロープが張られているのが見えた。
私は無意識にドアを開けた。冷たい空気が顔を撫でて、心地良い感じだ。砂利の駐車場には、街灯が2つくらいあり、その周辺だけを僅かに照らしているが、他に車の姿は見当たらない。
(私……どうしたんだっけ?)
まだ寝起きでぼんやりとしている頭の中で思い出してみる。私はドライブは好きな方で、週末は行き先を決めずに1人で車を走らせることも多い。今日は山梨県の方に行こうとだけ決めて、休憩無しで2時間ほど運転し、甲府盆地の南の方まで来た時、ある湖に向かう道を示す看板を見つけた。前に観光雑誌か何かで見たその特徴的な名称に私は興味を持って、その先の曲がりくねった山道を進んだ。意外に長い山道だったせいか、行き止まりの駐車場に着くと、やや疲れを感じてしまい、少しだけ車内でウトウトとしていたつもりが、かなり眠ってしまったようだ。スマホを見ると、夜中の11時を過ぎている。
改めて周りを見回したが、暗闇に閉ざされていて何も見えない。ただ、向こうの街灯の近くに、木製の何かの看板のようなものがあるのに気付いた。私はそこに歩いて近づいていく。
県立自然公園、
年季の入った木製の横長の看板には、フリガナをつけてそのように書かれている。私は看板の向こうに顔を向けた。すると、木々の向こうに、月の光に照らされて、ぼんやりと湖の姿が映し出されていた。私は吸い寄せられるように、その湖の方に近づいていく。
私はその光景に息を呑んだ。
夜空には三日月が静かに輝いていて、湖面にはキラキラとその光が映し出されている。そのおかげで湖の全容を見渡すことができた。対岸まで見えるほどのその円形の小さな湖は、暗闇の中で月の光を受けてキラキラと輝き、何とも言えず美しい。確か雑誌には、天然の湖だと書かれていたような気がするが、どうやってこのような場所に自然に湖ができたのか全く不思議だ。しかし、その風景を眺めていると、本当に幻想的で、その成り立ちなどどうでも良く思えてくる。
少し湖畔に沿って歩いてみると、小さな建物とそこから延びる桟橋があり、そこに手漕ぎボートが繋がれていた。30分千円程で利用できるらしい。男女で乗れば、湖の上で2人だけの世界にできるのかもしれない。私は自分がそこにいるのを少しだけ想像したが、すぐにそれを止めた。
何気なくその桟橋に足を進めると、ギシギシと音を立てて揺れた。空にはほとんど雲がなく、三日月がきれいに出ていたが、湖面に近づき過ぎたせいなのか、そこからではさっきまでのようなキラキラとした輝きは見えない。
チャプン——。
紺色の湖面の方から音がした。何かの魚が動いたのか、それとも風が動かした音なのか分からないが、そこまで来ると、不規則にそうした音が聞こえてくる。
その音を聞きながら、私はしばらくそこに立ち尽くしていた。
その時だった。
「月が、綺麗ですね」
いきなり後ろから声をかけられ、私ははっと息を呑んで振り向いた。無意識に危険と思ったのか、桟橋の端から一歩離れる。
私の目の前には、1人の男が立っていた。短髪でやせ型の、ひょろっとした男だ。彼はまだ寒そうに茶色のフリースにジーンズ姿で立っている。男の目は、私の目を真っすぐに見ていた。
「1人ですか?」
その男は変質者のような感じには見えなかったが、私は思わず辺りを見回した。見える範囲に人影はない。
(こんなところに、こんな時間に、誰もいるはずはないよね……)
男が立っている桟橋のほかに逃げ場はない。私は言葉も返すことができず、その場で動けなくなってしまった。すると、その男は周りを見回して私の不安な気持ちを察したのか、やや慌てた様子で、手のひらを私の前で振りながら、少し高い声で言った。
「違うんです。僕は、怪しい者ではないんです。……と言っても、こんな場所にこんな時間に1人でいたら、怪しいですよね」
頭をかくようにしたその仕草は、何となくその場の雰囲気を和ませる感じだった。たぶん年齢も私と同じ、20代後半くらいだろうか。
「怪しいですね。……でも襲う気なら、何も言わずにしてくるでしょう?」
声を出すと少し心強くなった。やせ型で力も強くなさそうな男の1人くらい、いざとなれば体当たりしてでも何とかなるのではないかと思えてくる。すると、男は、驚いた様子で、
「襲う……? ああ、それなら確かに。なるほどね」
と言ってハハハ、と笑った。その様子を見て、思わず拍子抜けしてしまう。それで私も可笑しくなって、クスクスと笑った。
「あの……僕、1人なんです。……もし、良かったら、その……少し歩きませんか」
男は少し恥ずかしそうに目線を合わせずに言った。その様子を見る限り、ナンパに慣れている感じではなかったが、彼が言っていることは確実にナンパだ。ただ、そのオドオドとしている仕草のためか、その男には不思議と悪い感じは無い。今日の気分の良さも相まって、私は「いいですよ」と言って、男の方に歩いて行った。
男は湖に沿って作られている細い歩道の方に歩き始めた。男が湖側、私が山側を並んで歩くのが精一杯の幅だ。歩道は舗装もされておらず街灯も無いが、月明かりがあるので目が慣れてくると歩くのに支障はない。こちらの駐車場側と対岸の一部には、キャンプができるスペースも作られているが、この時期はまだオフシーズンと見えて誰の姿も見えない。そのような暗闇の中を知らない男と歩いている筈なのだが、どういう訳か私は何も不安を感じなかった。やはりそれも私の気持ちの問題なのだろうか。
「ここに来たのは初めてですか?」
少し歩いたところで、男が話しかけてきた。
「あなたはどうなんですか?」
私は即座に聞き返すと、男は驚いた様子でチラッとこちらを見た。
「あ、あの……僕の家はこの近くなんで、よくここに来るんです。この夜の湖が好きなんです。月が湖面に映るのがきれいだし、静かな湖を見ているだけでも心が落ち着くような気がするので、来たら大体歩いて一周します。もう少し暖かくなればキャンプ客もいるのですが、この時期だと、こんな時間に人が来ていることは珍しいなと思って。それで失礼ながら、少し怖かったのですが、思わず声をかけました」
「もしかして……お化けだと思いました?」
少し低い声でそう言うと、彼は「えっ……」と驚いたようにビクッと体を震わせたが、すぐに「いいえ」と静かに答えた。少しからかったつもりだったが、思いのほか反応が良かった。彼が思い切って私に話しかけたのは確かなようだ。
「それで、あなたの方は?」
男が再び尋ねてきた。今日の私は気分が良い。その男に促されなくとも、相手が誰であろうとも自分のことを話したかった。
「今日が初めてです。でも、本当に綺麗な所だと思いました。まあ、私の気持ちのせいかもしれないんですけど」
「気持ち?」
「はい。実は私、今日、会社を辞めたんです」
「今日……ですか」
「ええ。本日、3月31日夕方をもって、無職になりました」
私はそこから自分の事を話し始めた。都会に住んでいたけれど車の運転が好きで一人でよくドライブしていたこと、会社はブラック企業で常に忙しく、合コンはあったが思うような出会いがなかったこと、最近ではあまりに残業も多いので馬鹿らしくなって思い切って辞めた、とこれまでの経緯を話した。
自分の家族についても話した。両親とは高校時代から関係がギクシャクしていた。私は、鎌倉の方で生まれ育ったが、実家から通える都内の大学を勧める親の意向を無視し、関東近郊にある自分が行きたかった国立大学に進学して、一人暮らしを始めた。それ以来、ほとんど実家にも帰らず、就職してからは忙しくてなおさらだった。そういう状況が長くなったので、両親と連絡を取ること自体も少なくなってしまった。だから、今更、仕事を辞めたと言ったら相当に怒られそうだったし、何とか仕事を探すつもりだった。
私の取り留めもない話を、男は何度も頷きながら話を聞いていた。気づくと湖の周りをほぼ一周して、元いた駐車場の近くまで戻ってきていた。どれくらいの時間がかかったのか分からないが、ほぼ一方的に自分の話したいことを話していたせいで、私にとってはかなり短い時間に思えた。
「すみません。何か、私のことばかり話してしまって」
私は正直に謝った。
「いえ、大丈夫です。……それよりも、あの……お願いがあるんですが」
「お願い?」
「良かったら、僕と一緒に仕事をしませんか?」
え、と声が出た。
「あっ……でも大した仕事じゃないんです。なんというか……」
「何かの会社をやっているんですか?」
私は僅かに期待を込めて聞いた。まだ若そうな男だ。意外とIT系のベンチャー企業の社長とかをやっているのかもしれない。敢えてこういう田舎に事務所を置くIT企業の話もよく聞く。週明けからハローワーク通いを考えていた私にとって、仕事口の話は大歓迎だ。
「会社……ではないんですが……」
男は言いよどんで、少し頭をかく。私はそれを期待感を持ってじっと見つめた。
「あの……僕は神主なんです」
「は? カンヌシ?」
その言葉が頭の中ですぐに漢字に変換できずに唖然としていると、男は「こういうやつです」と両手で棒を握る振りをして、それを左右に振った。「ああ」と思わず声を出して頷くとともに、心の中でITベンチャー企業経営者の夢が脆くも崩れ去っていくのがはっきりと分かった。
「ということは、神社の……巫女?」
何となく高校生や大学生がバイトで巫女姿になって、男どもにジロジロと見られたり写真を撮られたりする姿を想像した。既に20代後半で、大して可愛くもなく、スタイルも良いとも思えない私が、巫女姿でそこにいることを想像する。絶望的な気持ちになり、思わずため息が出た。
「み、巫女ではないです。一種の占い、のようなもので」
男は私から視線をそらして、やや声が高くなった。
「何と言えばいいんでしょうか。……まあ、言うなれば、皆さんの思い出話を記録する……ような仕事です」
「はあ?」
占いと言った後に、思い出話を記録する、という話は完全に意味不明だ。何か怪しげな宗教系の勧誘ではないかと疑ってしまう。そもそも、こんな時間にこんな所にいるような男だ。何か悩みを抱えた女性を勧誘しようとしているのかもしれない。もしくは、神社を隠れ蓑にした、ブラックな仕事か。私の不審そうな表情を見て、男は手を振って否定する。
「あっ……本当に、怪しい仕事ではないんです。まあ、神社の仕事ではあることは間違いないんですが……無理もないですよね。うまく説明できなくてすみません」
「いえ……でも、単純によく分からないんですけど」
「そうですよね。でも大切な仕事なんです。今は、僕1人でやっているのですが、お客様は都内や東京近郊の方が多いので、できれば誰か東京近郊に住んでいる方、特に女性に手伝ってもらいたいのです。お客様には女性の方もいるので」
男は真面目な顔をして言った。痩せて頬がこけているあたり、やや神経質そうではあるが、遊んでいるという感じには見えないし、服装も量販店で売ってそうな地味なフリースとジーンズ姿で、ファッションセンスもあるとは思えない。彼から変にカネの匂いがしない分、怪しさは薄れた。
「もし、よければ、少しだけやってみませんか? 無理そうならそれから辞めてもらっても良いです。あ、もちろんその場合でも給料はお支払いしますから。ある程度の月給制にはできると思いますが」
男は「お願いします」と丁寧に頭を下げた。その姿にある程度の真面目さは感じられた。既に無職の身となっている私にとって、時間はいくらでもある。どのような仕事であるか分からないが、定額の月給を貰えるなら確かに有難い話だ。
「わかりました。やってみます。……ただ、巫女ではなくても、変なコスチュームとかが必要だったら、すぐ辞めますよ」
「あ……ありがとうございます」
「あの、それで何か、名刺とかないんですか。私はもう捨てましたが、名前は
「あ……すみません。名刺はないんですが、
男はまた頭を下げた。
(まあ、いいや。どうせ時間はあるんだし)
この時代に、神社の事務仕事なんて、学生バイトならともかく、若者はやらないだろうな、と思って自分自身が可笑しくなった。
快と名乗った男とはその場で連絡先を交換した。そういえば最近、仕事以外で、誰とも連絡先を交換したことが無かったことに改めて気づいた。スマホに連絡先を登録しながら、「普段は、神主さまと呼べばいいですか」と尋ねると、「快でいいです」と即答された。神社というからには、格式を重んじるのかと思ったが、若いせいなのかあまり気にしないようだ。
彼は自分の神社の場所を案内すると言うので、彼の車だという商用車のような白いワゴン車の後を、私の車で追った。到着したのは、人家が数軒しかない集落からさらに奥まった行き止まりにある砂利の広場だった。どうやらそこは駐車場らしいが、街灯が一つだけあるものの、周囲はほぼ暗闇だ。
「この奥がウチの神社です」
明るく言う彼は、「中に入ってみますか」と誘ってきたが、入口に立つ鳥居だけで既に薄気味悪い。時刻も夜中12時を回っていたこともあり、迷うことなく帰る旨を告げた。
「じゃあ、近いうちに連絡します。今日は楽しかったです」
笑顔で手を振る彼の前で、私は窓を開けて頭を軽く下げてから、アクセルを踏んで車を発進させる。ルームミラーに映っていた彼の姿は、暗闇に消えてすぐに見えなくなった。
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