1 小杉太一の話

(1)

 数日経ったある日のことだった。そのメールは突然届いた。


『先日お会いした市川快です。早速仕事が入りました。東京の西部にある辰川市の市民病院に、明日の昼過ぎくらいに来てください。持ち物は筆記用具とメモ帳くらいでよいです』


 それまであの夜のことは夢ではないかとも思っていたが、メールが来たことでそれが現実のものであったことを実感する。


(病院って……何なの、一体)


 仕事を探すために、早速、ハローワーク通いを始めたところで、しばらくは失業手当で暮らすつもりだった。前の会社も、ブラック企業とはいえ、さすがに雇用保険はかけていたので、それを最大限活用しようと考えていた。しかし、すぐに失業手当が貰えると思っていたものの、実際には数か月先になるらしい。それに、ハローワークには老人から若者まで様々な年齢層の人間がいて、自分と同じように困っている人間も多いのだと実感したが、一人一人をよく見ると表情も疲れているように見える。そうした雰囲気の中にいると、何となく私も暗い気持ちになってきた。そこに快からの仕事の連絡が来たので、気分転換の意味でも、私は俄然やる気になった。行先の病院というのがよく分からなかったが、下手に繁華街を指示されるよりはマシかもしれない。


 翌日の朝。私は服装に迷った挙句、仕事をしていた時のように、グレーのスーツを数日振りに着た。メイクも軽く施した上で、仕事で使っていた黒のバッグに筆記用具とメモ帳だけを入れて家を出た。


 私が住んでいるのは、埼玉県の中ほどにある川戸市という街だ。その街外れにある1Kのアパートで1人暮らしをしている。川戸は、「小江戸」の名称で有名な古い町並みを残す観光地として知られているが、私のアパートの周辺は延々と同じような住宅地がただ広がっているだけで、「小江戸」感は全くない。最寄の私鉄の駅まで歩いて10分程である利便性と、都内に出るまでの時間、それに家賃が都内に比べると安いことが、ここに住んでいる理由だ。


 目的地の辰川市には、私鉄で一度池袋に出て、そこで山手線、中央線と乗り換えていく。前の会社では、ほとんどがクライアント先への出向状態でシステムの構築や保守を行っていた。9時から18時までが定時だったが、残業無しで帰った記憶はほとんどない。そのため、平日の昼間の電車に乗ったのは久しぶりだ。


 中央線の快速電車は、普段の通勤時間帯に比べるとガランとしているが、空いた座席は見当たらない。車両の端の方でしばらく立っていると、何個目かの駅で目の前に座っていた老人が降りたので、ようやく座ることができた。辰川駅に着いたのはアパートを出てから1時間ほど経っていて、そこから路線バスで市民病院に向かった。


 その市民病院は市街地からかなり郊外に向かった先で、外観はまだ新しそうに見えた。周囲の環境も都内にしては不思議なほど静かで、新緑の色が鮮やかだ。天気も良かったので、外の敷地を歩いている人もチラホラと見える。


 来る途中で、快から「病院1階のロビーで会いましょう」とメッセージが来たが、私が中に入るとロビーには人の姿はまばらで、その中に記憶にある彼の姿は見当たらなかった。


(まだ来ていないじゃない。……というか本当に来るのか?)


 そもそもこんな場所に私を呼んでどうしようというのか。理由は分からないが、単なるイタズラかもしれない。私は再び疑い始めていたが、その時、後ろから「こんにちは」といきなり声がかかった。


「すみません。車が渋滞して、少し遅れました」


 振り返るとこの前の男が立っていた。彼は緑色のシャツにジーンズ姿で、左肩に茶色のリュックサックを背負っている。お世辞でもセンスが良いとは言えないが、完全に私服であることだけは間違いなかった。


「来てくれてありがとうございます。では行きましょうか」


「あの……スーツじゃなくて良かったんですか」


「あ、すみません。服装は自由です。言ってませんでした?」


 彼はお辞儀をしてから、リュックサックを左肩で背負ったまま歩き始めた。それを見ると、着飾ってきた自分が馬鹿らしく思えて少し腹が立ったが、一応、彼は雇い主だと自分に言い聞かせて、黙って後をついて行く。エレベーターで5階に上がると、ナースステーションが目の前にあった。午後であり、病院内を歩いている人の中には、面会に来たらしい人々も結構いるようだ。


 彼はナースステーションには寄らずにどんどん歩いていくと、1つの部屋の前で足を止めた。入口の引き戸は閉まっており、横の壁に「小杉太一」という名前が掲げられているのが目につく。彼が戸をノックすると、中から「どうぞ」という男の声が聞こえた。


 引き戸を開けるとそこは個室で、斜め前にベッドに起き上がって本を読んでいる男がいた。ベッドの脇には紫とピンクの花が花瓶に飾られている。


「ああ、あなたですか。ようこそ。……今日はいい天気ですね。外からの風も気持ちいい」


 男は本から顔を上げて、こちらを見て行った。年齢はまだ50歳過ぎくらいだろうか。頬はこけてげっそりとしており、見るからに病状は悪そうだが、それに比べると声だけは元気そうに聞こえた。


「今日は体調が良さそうですね」


 快は声をかけると、男の隣にある椅子に座ってリュックを床に置いた。前にも会ったことがあるのか、慣れた感じで男に話しかけている。


「昨日よりは良い感じですが、またいつ悪くなるかと……」


 男はそう答えると、本を閉じて隣の棚に置いた。


「あなたが言ったとおり、昨日見ましたよ」


 男は快を見て言う。


「今日も妻は仕事なので、来るとしても夕方以降だと思います。まあ、来たとしても、あなたの事は田舎に住んでいる昔の友人の子供だと言うことにしていますので、安心してください」


 快はそれを聞いて笑顔で応える。


「わかりました。では、早速ですが、お話を伺いましょうか」


「あの……そちらの方は?」


 男は私の方を見て尋ねた。


「あ……実は、この前から少し手伝ってもらっている、アシスタント……ですよね」


 快は私を振り返って言った。そういう割には筆記用具しか持っていないが、私は慌ててそれを取り出して男に向かって頭を下げる。快はリュックから小さなICレコーダーを取り出して、ベッドの脇に置いた。


「それではどうぞ、お願いします」


「はい。……少し忘れているところもあるかもしれませんので、思い出しながらお話します」


 その男、小杉太一が話したのは、不思議な話だった。

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