(2)

 目が覚めると、私は自宅兼工場の自分の部屋で寝ていました。時計を見ると朝7時で、いつもより少し寝過ごしてしまったと思いました。


 階段を下りて行くと、味噌汁の良い香りがしてきます。そこは見慣れたいつものリビングで、台所に誰かが立っている後ろ姿が見えました。私は無意識に、おはよう、と声をかけました。


「おはよう。今起きたの? 遅かったね」


 振り返らないまま、しかし思いのほか元気な女性の声が返ってきました。私は一瞬驚きましたが、リビングテーブルの椅子に座ると、そこに置いてある新聞を広げました。そして、読み始めましたが、なぜか喉が渇いて仕方ありません。そこで、湯飲み茶碗を探しに、立ち上がって台所の方に歩いていきました。


 台所の女性は、振り返らずに黙々と何か料理をしているようです。私はシンクの隣に置かれた水切りのプラスチックの箱の中に湯飲み茶碗を見つけて、それを取りあげました。その時、ふとそこに立っている女性の方をチラッと見ました。


 そこにいたのは、私の妻でした。


 その時、私は手にした湯飲み茶碗をシンクの中に落としてしまい、そのドンという音で彼女が手を止めて私の方に顔を向けました。


「どうしたの? 早く食べて工場に行かないと。今日はいつもより遅いよ」


 彼女は言うと、再び手元の漬物や野菜を切り始めました。彼女は、やや白髪も交じっていますが、全体としてはまだ黒く長い髪を後ろに縛り、薄化粧のままで黙々と手を動かしています。私は「ああ、そうだな」と応えてテーブルに戻ると、テーブルの上に置かれた急須に茶葉を入れ、ポットからお湯を入れて一口飲みました。温かなお茶が体に沁み渡る感じがして、ようやく少し落ち着いていきます。すると、部屋の端に置かれた棚の上の写真立てが目に入りました。よく見ると、その写真には、私と台所にいる妻が並んでいて、その後ろに若い男女も写っています。それは、近くの川沿いの桜の木の下で撮影したものだとすぐにわかりました。


 妻はその間にもテキパキと動き、炊飯器からご飯を盛り、味噌汁と納豆のパックを私の目の前に置きました。


「さ、元気に食べて、今日も1日頑張りましょう!」


 もう食べたのか、と私が尋ねると、「とっくに」と答えが返ってきます。私は手元の新聞を広げて読もうとしましたが、内容はどうしても頭に入りませんでした。ただ、その味噌汁の温かさが私の体の中に沁み渡っていくことだけは、心地よく感じられました。


 朝食をとって作業着に着替え、隣にある工場に出勤します。8時過ぎくらいでしたが、工場には既に2人ほどが出勤していて、「おはようございます」と元気に私に挨拶してきました。


「社長、おはようございます」


 茫然と立っている私の後ろから男の声がしました。振り返ると、頭髪がやや薄くなったやせ型の男がこちらを見ています。作業着の胸の辺りには「中尾」と刺繍されていました。


「社長、今日は少し寝坊ですか? 私より遅いなんて珍しいですね」


 中尾は笑いながら奥のラインの方に向かって歩いていきました。ふと壁を見ると、工場の壁に掛けられた出勤表が目に入りました。工場に出勤した社員は、各自の名前が書かれた磁石付きのプレートをそこに張り付けることにしていたのです。その表の一番上に「中尾常務」というプレートが見えました。


(中尾常務——)


 私はまじまじとその表を見ました。15人程の名前がそこにはあります。工場には続々と社員が出勤してきて、私に「おはようございます」と元気に挨拶していきます。私は、「おはよう」と返しながら工場の様子を見回りました。


 工場には古そうなプレス機械や切削機械が所狭しと並び、社員がそれぞれその点検を始めています。ただ、どの機械もよく整備されていることが一目で分かり、社員の能力の高さが窺えました。


 私はそれらの機械の様子を眺めながら工場内を歩いていきます。すると、奥の方に窓ガラスの付いた小さな部屋がありました。中には先ほどの中尾常務が立っています。


 私は部屋のドアを開けて中に入りました。そこには銀色に輝く部品の写真が壁にいくつも張りつけてあり、その部屋の端に中尾常務が立って、ポットからコップにお湯を入れています。ほどなく、インスタントコーヒーの香りがしてきました。私はそこに立って、中尾常務を見つめました。


「中尾君……元気、そうだな……」


 私は声を掛けました。


「ん? どうしたんですか、社長」


 中尾常務はコップを持って私の方を向きました。頭髪は薄くなっていますが、眼鏡をかけて柔和な顔をして、「小杉工業」と書かれた作業着を着ているその男。それにコーヒーが好きなその男。よく知ったその男の姿が目の前にあります。


 私は、彼の姿を黙って見つめていました。すると彼が怪訝そうな顔をします。


「どうしたんですか、社長。今日はおかしいですよ。今日もマルキ産業の大事な注文に対応しないといけないんだから、早く始めないとダメですよ」


 中尾常務は壁に張られた銀色に輝く部品の写真の一枚を見て言いました。


「この部品……こんな小さな部品が次世代の電気自動車に使われるんですよね。そう思うと本当に社長と一緒にやってきて良かったと思いますよ」


 そこで中尾常務はコーヒーを一口飲んでから、ボソッと呟きます。


「あの時、社長が奥さんを選んだところから、全てが始まったのかもしれませんね」


 私はハッとして彼に何か尋ねようとしました。しかし、中尾常務はコーヒーを飲み干すと、「お先に」と言って歩いて出て行きました。


 私はさっき彼が見ていた部品の写真を見つめました。それは、私が中尾常務と一緒に開発した小さな部品です。そして、その銀色の部品は、間違いなく、私の会社の大事な製品でした。


 しばらく茫然とその写真を見ていた私の後ろでドアが開き、妻が私を呼びました。


「何しているの? さあ、早く朝礼してくださいよ」


 私は言われるがままに、彼女に連れられて部屋を出ると、工場のラインの傍に行きました。既にそこには社員達が集まっていました。


「ええ……それでは今日も安全第一でよろしくお願いします」


 私が言うと、「よろしくお願いします」と大きな声が返ってきました。社員はキビキビと動き始め、私はその様子をフラフラと見て回りました。どのラインもしっかりと稼働し、ダダダ、と良い音を工場内に響かせています。時には怒声も飛びながらも、全ての社員の目つきが輝いています。20代から60代くらいまで、年齢層は様々ですが、皆が必死に働いていることがはっきりと感じられます。


(これが——この会社なんだ)




 その日は、あっという間に夜になりました。私は、社員が帰った後で暗くなった工場内を1人でフラフラと歩いていると、妻が、夕飯ができたことを伝えにきました。私は頷いて、隣の自宅に戻ります。


 リビングに戻ると、既にそこに座ってご飯を食べている青年がいました。


「あっ、お疲れ様」


 青年はチラッとこちらを見て挨拶すると、再びテレビの方に目を向けました。大皿に盛られたから揚げを食べているその男は、私より細身ではありましたが、その器のご飯は大盛りです。


「今日もお疲れ様でした。さあ、そんなところに立ってないで座って」


 立ち尽くしていた私に、妻が声を掛けました。彼女も細身ではありますが、声は大きく元気です。ほどなく、私の目の前にご飯と味噌汁が置かれ、それから彼女も自分のご飯と味噌汁を持ってきて、「いただきます」と言って食べ始めました。しばらくしてから妻が青年の方を見て言いました。


「全く、カズキも毎日残業もなく帰ってきて。最近は合コンとかないの? 母さん心配」


「カズキ……?」


 私は思わず声を出して、隣に座っている青年の方を向きました。しかし、小声であったので、彼は気づきません。彼はから揚げを箸でつまんで言いました。


「合コンとかあんまり楽しくないんだよね。最近の若者は草食系だし。それに残業なく帰っても仕事はしてきてるから、悪いことはないよ。好きなゲームもできるから」


「自分で草食系って……ゲームもいいけど、現実見てよね。IT系なんてよくわからない仕事より、ウチのモーター部品とかの方がよほど目に見えて現実的だと思うけど」


「母さんも、もっとITのすごさを勉強した方がいいよ。スマホ以外に。まあ、ウチみたいな小企業にもいつかは役に立つと思うから……たぶん」


 彼はから揚げを口に入れると、再びテレビを見ながら食べています。


「あれ? 今日、サヤは?」


「あの子は合コンだって。あんたも少しは妹を見習いなさい」


 私は改めて棚の上の写真を見ました。茶色がかったショートヘアーで、目の前にいる妻の若い頃に似た女性が、私と同じ写真に写っていました。


「あなたからも、カズキに何か言ってやってよ」


 彼女は言いましたが、私は大きなから揚げを食べているところでした。急に振られて、「うん」と生返事します。彼女がハアとため息をしてから続けた言葉に、私は思わず咳込んでしまいました。


「まあ、私達みたいに、子供ができて結婚っていうのは、さすがにちょっとやめてほしいけどね」




 食事が終わると、青年はいなくなり、妻は眼鏡をかけてリビングで手元の書類を見ながら、パソコンに向かってキーボードを叩き始めました。私はその隣に座って画面を覗きます。


「あら、珍しいわね。あなたがパソコンを見てくれるなんて」


 彼女は言いながら、私の方を振り向きました。そこには、会社の日々の生産状況や、販売、経費支払い状況などが丁寧に入力されています。


「ようやく安定して黒字が出せるようになってきたわ。長い間、ずっと苦労してきたけど、あなたが頑張ってきたことがついに報われた感じ」


 言いながら、キーボード入力を続ける彼女は、手を動かしながら話しを続けました。


「私も大変だったけどね。……だけど、あなたには感謝してるよ」


「感謝?」


「私と結婚してくれたから」


 妻の短い言葉がズシンと胸の奥の方に響きました。彼女はフフ、と私に笑顔を向けて立ち上がると、棚の上にあったいくつかの写真立ての奥の方から、1枚の小さな写真立てを出してきました。そこには、生まれたばかりの赤ちゃんを抱く女性が映っています。


「この写真、もうカズキは恥ずかしいから片付けるように言うけどね。辛い時は、この頃の事を思い出すんだ。あの子を妊娠して、1人で悩んでいたところを、あなたが結婚してくれたこと。本当に嬉しかった。幸せだった。だから、その大切なあなたと、カズキと、サヤと。家族のために、私も頑張ろうってね」


 写真を見つめて立っている彼女の後ろに私はそっと立つと、思わず無意識にその体を抱きしめていました。ビクッと彼女の体が一瞬震え、「もう」という声が聞こえました。


「どうしたの? あなた、今日はおかしいよ……」


「いや、すまない——」


「なんで? 謝ることはないよ。助けられたのは私なんだから」


 彼女は私の腕の中で続けました。


「あの時、私があなたの子供を妊娠して……でも、あなたにはもっと良い条件の別の縁談もあった。あの時、あの人と結婚していれば、あなたの人生は全く変わっていたはずよ」


 私は無言で首を振っていましたが、それは彼女に伝わったかどうかわかりません。


「でも、あなたは私を選んでくれた。すぐ目の前にあったお金も、地位も選ぶことなく、この小さな会社の、この技術を……そして何より、私を選んでくれた。だから、本当にありがとう」


「俺の方こそ……ありがとう」


 私は彼女を再び強く抱きしめました。彼女は恥ずかしそうにそれを振り払うと、


「さ、いいから。少しゆっくりしたら? 明日は寝坊しないでよね。……私はもう少しだけ仕事してから寝るから」


 そう言って再び椅子に座ってパソコン画面に向かいました。


 私は部屋を出る時に、彼女の後ろ姿に深く頭を下げてから、自分の部屋に戻りました。部屋には会社の重要書類を棚の金庫に保管しています。それを開け、その一番上にあったファイルを手に取ると、「マルキ産業」の文字が目に入りました。開いてみると、その一番上に、契約書が綴られています。それは、この会社の部品を、電気自動車の部品として納入するという専属契約書でした。


(ここまで、できたんだ——)


 私は急に全身に疲れを感じ、その部屋の椅子に深く座り込んで、天井を見上げて目を閉じました。


 それからのことはよく覚えていません。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る