ー灰色の世界②ー

 柔らかな感触に包まれていた。


 私はゆっくりと目を開ける。白い靄が消えるにつれて、もっと人工的な白い天井が薄っすらと現れ、次第に周りの様子が少しずつ見えてきた。私はベッドの上に横になっていた。


「ここは——」


 体を起こそうとするが、気怠い感じがする。それでも思い切ってベッドに手をついて体を起こし、改めて周りを見回した。


 そこは、8畳くらいの部屋で、ベッドを中心にして、その左手に茶色の棚があり、その上に小型テレビが置かれている。反対側には薄茶色のソファが置かれ、その後ろの白い壁には、青い湖のようなものが描かれた絵が掛けられていた。私の右後ろには白い木製の枠がつけられた窓があり、そこに掛かっている白いレースのカーテン越しに外の陽射しが差し込んでいる。


(私……トイレで倒れて)


 それからの記憶はない。気を失っている間に、病院に運ばれて来たのだろうか。いや、そもそもさっきのも夢だったような気もする。だとしたら、今もまだその夢の続きなのだろうか。


 その時、茶色の棚の上に置かれていたスマホが音を立てた。左手を伸ばしてスマホを取ると、そこには「加代」という表示が出ている。慌てて通話ボタンを押した。


「もしもし——」


『もしもし、美里? 大丈夫?』


「う、うん」


『何度もメッセージを送っても返信がなかったから、少し心配になって……あっ、今、電話しても大丈夫?』


「うん……大丈夫」


『本当に、こんな時に近くにいれなくてごめんね。どうしても大阪に行かないとならなくなって……。誰か来てる?』


「……いや、誰もいないよ」


 そう答えた所で、瞳に溜まった涙が頬を伝って落ちた。私はそれに自分で驚く。どうして私は泣いているのだろう。とにかく彼女に今すぐに会いたい。傍にいて欲しい。いや、このまま彼女と話をしているだけでもいい。


「加代——」


 うん、と彼女が電話口で答える声がした。しかし、それ以上は無言になってしまう。話したいという想いがあるのに、何を話せば良いのか分からなくなる。


『美里?』


「ごめん……何でもない。大丈夫よ」


 言葉が出てこなくなってしまい、慌てて明るくそう答えて、傍らにあったティッシュペーパーを手にして涙を拭いた。


『美里、大丈夫? 優美にもお願いしているから、後で来てくれると思うけど。私も戻ったらまたそこに行くからね』


 それに頷いて「分かった。ありがとう」と答えてから、電話を切った。ふと、スマホの画面を見つめる。そして、そこに表示されている小さな日付を口にした。


「3月、27日——」


 何かを思い出せそうな気がした。いや、これは夢なのだ。夢の中なのに、私は何かを思い出そうとしている。しかし、それ以上思い出そうとすると、無性に頭が痛くなってきた。それはまるで、思い出すことを体が拒絶しているかのようだ。


 私は頭を振ってから、腕を上に振り上げて背伸びをする。そして、大きく深呼吸してから、ベッドから下りた。脇に置かれていた茶色のスリッパを履いて窓に近寄っていく。レースのカーテン越しに外を眺めると、窓の向こうにはモクレンの木に紫色の花が付いていて、その向こうには常緑樹のような木の緑の葉が見える。その更に上の空の青さが眩しい。レースのカーテンを少し開けて、窓の取っ手を持って押すと、斜めに少しだけ開いた。やや冷たい風とともに、何かの花のような香りが運ばれてきた。


 そこから振り返って、もう一度部屋の中を見渡してみた。部屋の中は綺麗だが殺風景だ。それに何の音も聞こえない。私は窓際にもたれて自分の体を見下ろす。私は何かの病気で入院したのだろうか。ピンク色の少し厚手のガウンのような服を着たその体は、まるで自分の体ではないような気がする。私は思わず寒気がして、大きく背伸びをしてから、部屋の端にある茶色の引き戸の所まで歩いて行き、それを横に開けた。


 その先は廊下になっていた。片方には部屋と同じような白い壁が続いていて、反対側には一定間隔で窓があり、そこから陽射しが差し込んでいる。そこには僅かにオルゴールのような音が流れているが、誰の姿もない。左右を見渡すと、左側の廊下はもう1部屋で行き止まりになっていて、右側の廊下には5、6個の同じような茶色の引き戸があり、その先は曲がっているので様子は分からない。私は自分の部屋の番号を確認してから、部屋を出て右に歩いていく。


 数歩進んだところで窓から外を見た。そこは庭園のようになっている。アカシアのような黄色い花が咲いているのが見え、その周りにも緑色の木々が生い茂っている。庭園の先の方には、池と小さな噴水も見えた。


「大戸さん?」


 急に後ろから声をかけられて、ハッとして振り向くと、白衣を着た看護師が立っていた。私より少し年上だろうか。身長も大きめのその女性は、少し前屈みで私を見つめた。


「もう起きても大丈夫ですか? あまり無理しないでくださいね」


 看護師は声をかけると、頭を下げて歩いて行こうとする。


「待って——」


 気が付くと私は彼女の腕を掴んでいた。看護師は私の顔を見つめる。一瞬、戸惑ったような顔をしたが、すぐにそれを消して、笑顔で囁くように言った。


「大戸さん……ちょっと部屋に戻りましょうか」


 彼女は逆に私の手を引いて、さっきまで私がいた部屋に案内していく。引き戸を開けると、窓の向こうのモクレンの紫色が妙に鮮やかに感じられた。看護師は、私をベッドに座らせると、自らもその隣に座った。


「大丈夫ですよ、大戸さん」


 看護師は私の手をゆっくりと撫でながら、こちらを向いて言う。


「ここでは何も心配することはありませんからね。私はずっと大戸さんの事を見ていますから。何かあれば、すぐに私を呼んでもらっていいんですよ。まだあと2日はゆっくりしてもらっていいですからね」


 看護師の手が今度は私の背中を撫でていく。その手の温かさにハッとして横を振り向いた私の前に、看護師がティッシュペーパーを差し出した。私はそれを必死に掴むと、自分の目頭に当てる。


「ごめんなさい……私」


「いいんですよ。私達には何も気を遣わないでください。大戸さんは1人でよく頑張ったんですよ。……でもね。頑張り過ぎたら疲れてしまう事もあります。ゆっくり歩いていきましょうね。私達はみんな、大戸さんの味方ですから」


 無言で頷いて、涙を拭いてから彼女の方を向いた。すると彼女は笑顔で言う。


「もう少しで昼ご飯になります。また、この部屋に持ってきますから、今日はちゃんと食べてくださいね。昨日みたいにほとんど残したりしたら駄目ですよ。食べないと元気も出ませんから」


 看護師はそこで立ち上がり、一礼して部屋を出ていき、引き戸が静かに閉まった。


「待って!」


 私は思わず叫ぶ。彼女に何かを確認したかった。茶色の引き戸に向かって走り、その取手に手を掛けた。


 ガタッ!


 引き戸は開かなかった。いや、鍵は内側にあるため、開かない筈はない。


「どうして……開けて!」


 私は夢中で引き戸を叩いた。すると、その向こうから女性の声が聞こえてきた。


「もう、ここまでにしましょう。この先は、見る必要のない夢です」


 それは先ほどの看護師の声とは違う、心に響くような声だった。


「待って! これは夢なんでしょう? 一体、どういうことなの?」


 私は訳が分からないまま、そう言ってドアを叩く。そして、私の手は再び引き戸の取っ手を強く握り、開けようとした。


 ガタン!


 引き戸が開いた。そして、眩しい光が私を包んでいく。

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