ー灰色の世界①ー
誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「大戸さん……大戸さん……」
ゆっくりと目を開ける。自分の腕を枕に、再び眠っていたようだ。顔を上げると、机の上に黒色のモバイルパソコンが置いてあり、その向こうに誰かが座っている。縁の細い眼鏡を掛けた若そうな女性だ。一瞬、彼女は私と目が合ったが、すぐに手元にある自分のモバイルパソコンに視線を落とす。
(あれ……ここは?)
キョロキョロと辺りを見回すと、そこはずっと向こうまで見渡せるような広いオフィスだった。たくさんの人間が動き回っていて、話をしたり、電話をかけたり、モバイルパソコンに向かっている。
「起きた?」
私の隣から声が聞こえてきた。そこには、紺色の皺一つないスーツを着た男が立っていた。思わずその顔を見つめる。どこかで会ったことがあるような気がするが、名前が思い出せない。
「あれ? 私……」
彼はこちらを見つめて笑顔を向けた。その首からぶら下げているホルダーに、「沢井」という名前が見えたが、まだその相手が誰なのか分からない。
「昨日も遅かったからね。でも、そろそろ起きた方がいいな。昼休憩の時間はもうかなり過ぎてるよ」
「あの、私……どうして、ここに」
「ハア? どうして?」
男の声がはっきりと聞こえた。そして、しばらく唖然としていたが、腕組みをして顔をしかめた。
「寝ぼけ過ぎ。顔でも洗ってきたら」
彼はそう言うと、私の左側の少し離れた席に座って、自分のモバイルパソコンを開いた。
その時初めて、私は自分の姿を改めて見下ろした。白いブラウスに紺色のスカートスーツを着ているが、そのようなスーツには見覚えがない。
(そうか……私、夢を見てるんだ)
自分がどこかの会社で働いている夢を見ている。そう思いながら、正面に座っている若そうな女性の方に顔を向ける。すると、再び彼女と目が合った。こちらの様子を見ていたのだろう。彼女は、慌てたように自分のモバイルパソコンの画面に視線を落とした。
「ねえ」
見た目の若さと、私と目が合った慌てぶりから、後輩だと判断して、女性に声を掛ける。首から掛けたホルダーには「風見」の文字が見えた。
「ちょっといい?」
すると、思ったとおり女性は「はい」と小声で言って立ち上がった。私はフロアの端の方にあるドアを開けて廊下に出た。長い廊下には、行き交う人の姿も多い。スマホで話しながら忙しそうに歩く人もいる。社員の容姿はみな綺麗で、かなりランクの高い企業のようだと感じた。
しばらく歩くと、化粧室の看板が見えた。そこに入ると、すぐの所にある鏡の前に、風見と2人で立った。
「相当、疲れてそうですね。大戸さん」
話しかけてくる彼女の声を聞きながら、私は鏡の中の自分を見て固まってしまった。
(誰……これは?)
そこには、これまでしたことのないような、しっかりとメイクを施した自分の姿があった。その自分の綺麗な姿に息を呑む。僅かに茶色にしたセミロングの髪にはウェーブをかけて、ふわりとした軽い感じを出している。かつてそんな髪型にしたことも記憶に無い。
「どうしたんですか? 顔色が悪そうですけど……」
風見は鏡を見つめる私を心配そうに見ている。
「いや……ごめんね。ありがとう。……大丈夫だから」
一緒に来てくれた彼女に、せめてものお礼として、何とか笑顔を作って顔を向ける。「いえ」と言ってから、彼女は鏡の中の私の顔を見て言った。
「でも、大戸さんは本当に羨ましいです」
「羨ましい……?」
「ええ。あんなにカッコ良くて仕事もできる先輩が『パートナー』だったんですよね。私なんか、飲み会要員なだけの仕事ができない男が相手ですから。最悪ですよ、本当に」
「パートナー……?」
その言葉に聞き覚えがあった。どこでそれを聞いたのだろうか。
(そう言えば——)
どこかでその会社の事を聞いたような気がしてきた。入社して2年間は、その部署の先輩の1人が「パートナー」として新人を育成するのだが、新人はその先輩の仕事の手伝いを何でもやらなければならない。一方で、先輩側も新人を成長させることが自分の評価上で最も重視される。「パートナー」が仕事のできる先輩である程、新人も成長でき、逆に、仕事ができない先輩の場合は、2年間で他の同期と大きな差がついてしまう。2年間経った時、初めての人事異動先がどこなのかによって、自分の本当の評価が明らかになる。そういう厳しい人材育成の制度を構築していた会社。
(どこでその話を聞いたんだろう?)
不思議に思いながら、その記憶を思い出そうとして、鏡の中の自分を黙って見つめていると、隣から声を掛けられた。
「あの、大戸さん……気になっていたんですけど」
急に風見の声が聞こえて、彼女の方を振り向く。彼女は周りを見回して、小声でそっと言った。
「いよいよ、沢井さんと、結婚するんですか」
「えっ……」
思わず固まってしまう。その表情が睨んだように見えたのか、風見は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。……でも、もうウチの部の中では最近そんな話で持ちきりですよ。この前、沢井さんが部長の所に行って、何か別室で話していたみたいだったから。もしかして、結婚じゃないかって。先輩達って、もう付き合って長いんですよね?」
呆気にとられる私の後ろから、化粧室に別の女性が何人か入ってきた。風見は慌てたように、「じゃ、先に戻っています」と言ってその場を離れて行った。私は1人そこに残って、鏡を見つめていた。その時、ふと、お腹の下の方から何かが押し寄せてくるような気がした。無意識に、空いていたトイレの個室に入り、便器に向かって頭を下げる。ゲップが出て、胃もムカムカする。
(何なの……これは……)
強い不快感がある。夢にしては、余りにリアルだ。その時、自分の手が無意識にお腹の辺りに触れているのに気付く。その手を見つめながら、ゆっくりとお腹から放していくと、今度はなぜか呼吸が荒くなるような気がした。狭い個室の空間が息苦しい。
(外に……出ないと)
そう思って、倒れるようにドアのロックを開けて戸を押し開いたが、強い眩暈がして私はそこに倒れ込んだ。
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