ー白い世界②ー

 気が付くと、私の視界に赤いテールランプが見えていた。ぼんやりとした頭の中で隣を振り向く。そこでハンドルを握っているのは快だった。彼はチラッとこちらを見た。


「あっ、起きた?」


 うん、と答えて周りの様子を見る。そこは彼の車の中だった。その車は商用車によく使われているような白のバンで、使い古されたものだが、大きな荷物も積めるので、友人達の間でも重宝されている。


 どうやら少しウトウトしていたようだ。私の卒論の調査のため、今日は快の家まで乗せていってもらっているところだった。窓の外は真っ暗だが、道路は片側3車線で、多くのタクシーが目につく。道沿いには延々と高層ビルが並んで見える。どうやら夜の都内の一般道を走っているようだ。ワンゲルのメンバーで、夜に都内の有名ラーメン店に行った時の事を思い出す。その時もそうだったが、明かりがほとんど消えた高層ビルの間を車で走っていると、まるで自分が特別な世界に生きているような気がして、気分が昂ってくる。


 車内では、車載のオーディオの画面の光が快の顔を照らしている。スピーカーからは、流行りの女性シンガーの高音の歌声が流れていた。


「久しぶりかな? こういう夜のドライブって」


「そうかも。しばらく行ってなかったね」


 快の問いに答える。紫峰大学では、周辺の公共交通機関が十分に整備されておらず、一般的に自家用車での移動が中心だった。そのため、学生のほとんどは、実家の使い古しの車や中古車などを持っていた。快のこの車も実家で使われていた車だったと思う。


 私も中古の軽自動車を持っていたが、近場の買い物以外では遠くまで行ったことは無い。それというのも、ワンゲルのメンバーにお願いすれば、遠くに行く時には誰かが車を運転してくれるからだ。友人達とは、普段からよく車で色々なところに出かけていた。その中でも快は運転が好きなのか、どこにでも喜んで車を運転してくれた。だからその車には何度も乗ったことがある。


「そういえば、就活も大変そうだったね。僕は実家の神社を継ぐ運命で良かったです」


 快は神妙な言い方で言った。確かに、彼は実家の神社を継がないといけないからという理由で、就活をしていなかった。

 

 そのため、就職活動中には、「快は暇だろう」という理由で、私も含めた彼の友人の多くが、大学から最寄駅までの送迎を彼によくお願いしていた。快自身も、自分が就活をしないことに引け目を感じていたのか、積極的にその送迎を引き受けていたので、「快タクシー」、略して「快タク」の愛称がつけられた程だ。


「でも、そういうの羨ましいと思うけど」


 就活をしないことが最も望ましいことは間違いない。私もたくさん面接したのに内定を貰えたのは僅かだ。本心から私が言うと、快もハハハ、と笑った。


「でも、一応、決まったんでしょ」


「まあ……ね」


 そこでしばらく会話が途切れて、しばらくの間、夜になっても交通量の多い道路を走りながら、オーディオから流れて来る女性シンガーの歌声だけが響いていた。すると、ふと快が口を開いた。


「あのさ……思ったんだけど」


「何?」


「美里と、2人で遠距離ドライブするのって、初めてかな?」


「えっ? そうか……そうかもね」


 確かに、誰かと2人だけで車に乗って、どこか遠い場所まで行ったことがあっただろうか。快はもちろん、女友達同士でも、遠くまで2人で行くことは無かったかもしれない。


 車は、夜の都内の街並みの中を快調に走っていく。首都高は通らずに都内を通過していくようで、看板を見ると甲州街道を西に向かっていた。高層ビル街を抜けてからも市街地が続いていたが、八王子インターチェンジからようやく高速道路に入った。そこからは急速に景色が変わり、高速道路は山を切り開いたような場所を通り、トンネルをいくつも抜けていく。平日の夜であるためか、高速道路を走る車の数も少なく、ほとんどは長距離トラックのようだ。それからも、私達は大した話はしていなかったが、話していても黙っていても不思議なほど苦痛にはならなかった。


 やがて、長いトンネルを抜けると、下り坂の向こうにキラキラと輝く夜景が見えてきた。


「綺麗——」


 甲府盆地一面に広がったオレンジ色の光が、辺り一面に輝いている。そこは山に囲まれた盆地であるはずだが、周囲の山の風景が暗闇でよく見えないためなのか、まるで光の海がどこまでも際限なく広がっているように錯覚してしまう。


「別の世界に来たみたいだよね」


 快が静かに呟く。その声を聞いて、ふと隣を向いた。オーディオの光で快の顔が青白く照らされている。


(別の、世界……?)


 胸がドキッとした。どうしてなのか分からないが、その言葉が私の胸の奥でしばらく響いていく。


 車はその夜景を見ながら走り続け、少し先のインターチェンジで高速道路を降りた。既に時間も遅いため、一般道を走る車はさらに少なくなる。快は慣れた様子で車を運転していくが、次第に周囲の暗さが目立つようになっていく。やがて、道路の両側に家が並ぶ街の風景がしばらく続いたが、車通りはほとんどなく、信号も黄色の点滅になっている。


「これからかなり山に入るよ」


 既に終電も終わったらしい単線の鉄道の踏切を渡ると、すぐに人家が途切れ、真っ暗な山道に入って行った。快は車のライトをハイビームにして山道を上って行くと、どこかのカーブを曲がった先で、突然鹿が道路の真ん中に立っていた。快はブレーキを踏んで止まったが、鹿はしばらく私達の方を見てから、悠然と山に走っていく。


「びっくりした……。野生の鹿って初めて見た。あんなのがいつも道路にいるの?」


「この時間だと出てくるよ。気を付けないと、ぶつかったら、車の方がかなり傷つくらしいから」


 快は平然と言って、再び山道を上り始めた。


「もしかして、心細くなってきた?」


「そ、そんなこと、ないよ……」


 慌てて明るく答える。僅かに電灯に照らされたトンネルを抜けると、その先も人家が何軒か集まった集落もあったが、延々と坂道とカーブが続いて行く。次第に道も狭くなり、辺りの景色も真っ暗で何も見えない。気づけば、車のヘッドライトはさっきからずっとハイビームで前を照らしていて、しばらく対向車も来ていないようだ。私は正直なところ、かなり心細く感じてきた。


 そして、夜中0時を過ぎた頃に、ようやく車が止まった。


 そこは、砂利が敷かれた比較的広い駐車場で、街灯が一つだけついていた。その光がその向こうをぼんやりと映し出している。


「さあ、着いたよ。結構、足元が暗いから気を付けて」


 快は言うと、車を降りてバンの後部のドアを開け、自分のバッグと私のバッグを取り出した。


「バッグは持つから、ドアを閉めてくれる?」


 彼が背中を向けて歩き出してしまったので、慌ててドアを閉めると、彼の横に追いついた。辺りは完全に暗闇に包まれている。雲が出ているのか、月明かりさえ見えない。何かの虫の音が聞こえてはいたが、それすら物寂しく感じる。


 1つだけある街灯に照らされている場所まで来て石段を見上げた。色あせた朱い鳥居とその向こうの薄暗い階段のコントラストが、この上なく薄気味悪い。思わず鳥肌が立つ気がして、快の隣に近づくと、私のバッグを持つ彼の腕にそっと体を寄せる。彼の手の温かさを感じて、少しだけ心が落ち着いていく。


 石段を上がった所には、いくつか街灯があり、駐車場よりは少しだけ明るい感じがした。その光に本殿のような建物が薄っすらと照らされている。


(あれ? この建物……)


 ふと首を傾げた。その建物は色あせた朱色に彩られた本殿で、もう相当の年数を経過しているように思われた。


(私、この建物をどこかで……)


 つい最近、その建物を見たことがあるような気がした。しかし、あまり信心深くない私は、神社や寺を訪れることはほとんどない。不思議に思いながら、その場で立ち止まって建物を見上げていると、後ろから声がかかった。


「どうしたの? こっちだよ」


 快の声の方を振り返ると、いつの間にか彼は少し離れた場所にいたので、慌ててそこに走って行く。快は社殿を正面にして左の方に歩いて行くと、そこにも電灯の明かりが見えた。近づくと、その光は1軒の平屋の家の外灯だった。玄関の表札には、「市川」と書かれている。


「ただいま」


 快が玄関の戸をガラガラと横に引いた。真夜中のはずだが、鍵はかかっていない。玄関とその先の廊下には明かりがつけられたままだ。中からは何の返事もない。


「もうさすがに寝てるか。まあ、入って」


 快に促されて私が玄関に入ったその時だった。


「遅かったなあ」


 皺の深いお婆さんが奥の方の部屋からひょいと顔を出した。私は「ひい」と叫んで、思わず快の腕にすがりついた。


「——なんじゃ。女か? ……彼女か?」


「違うから。……お婆さん、もう遅いから寝ていいよ」


 快は静かに応える。私はハッとして快の腕からそっと離れた。


「ヒヒヒ……お前もなかなかやるのう」


 お婆さんは快の言葉が聞こえていないのか、部屋からのっそりと玄関の方に出てきた。背は私より低く髪も真っ白になっているが、腰の曲がっていない元気そうな老人だ。快はハアとため息をついて紹介した。


「これがウチのお婆さん。こっちは、大戸美里さん。大学の同級生」


「大戸です。数日、お世話になります」


 私は深々と頭を下げた。お婆さんは笑って、「美里さんか。よろしく」と名前で呼んで頭を下げた。人気がない場所が続いたためか、お婆さんの笑顔に心が癒されるような気がする。


「さあ、上がって」


 快は言うと、さっさと靴を脱いで玄関を上がった。私も「お邪魔します」と言って自分のスニーカーを脱いで玄関に揃えてからそれに続く。快が歩きながらお婆さんに尋ねた。


「座敷に寝てもらうんでしょう?」


「ああ。布団を敷いてあるよ。ここへどうぞ」


 お婆さんは自分の向かいの部屋の障子を開けて中に入ると、カチッとスイッチを入れる音がして明かりがついた。快がその部屋の様子を見て思わず言う。


「いやいや……さすがにそれはダメだろ」


 私が部屋を覗くと、そこには大きめの布団が2つ、ぴったりと並べて敷いてある。


「寄せ過ぎだったか?」


「いや——そういうことじゃなくて」


 お婆さんはまたヒヒヒと笑って言う。


「冗談じゃ。お前は自分の部屋で寝ればいい」


 お婆さんはそれだけ言ってさっさと部屋を出て行こうとした。その時、ふとお婆さんの目が私と合った。彼女は立ち止まり、私より低い目線から、その細い目でじっと私を見つめてくる。


「ほう……お前さん」


「えっ——」


「珍しいのう……。迷い人じゃな」


 お婆さんはさらに一歩近づいて、じっと見つめて来る。


「ちょっと、お婆さん、何やってるんだよ」


 快がその様子を見て口を出したが、お婆さんは動かない。彼女はさっきまでと違って、神妙な顔をして私を見つめていた。


「いつの日か絶望の淵に立った時、お前さんは自分が本当に望む世界の夢を見る。その時はすぐにその話を、大切に思う誰かに話すのじゃ」


 お婆さんは細い目をしながら低い声で言う。すると、周りの世界が急に暗闇になった。




 シャン、シャン、シャン……


 暗闇の中で、鈴のようなものが鳴る音が聞こえる。それはこだまのように頭の中に何度も鳴り響いていく。次第にその音が近づいてくると、目の前にぼんやりと何かの姿が見えた。


 狐だ。いや、白い狐の面を被った人だ。白い装束に身を包み、その人が立っている。


『大丈夫じゃ。ワシはその夢を知っておる。大切な者を信じて、必ず戻っておいで——』


 体の奥まで響く、お婆さんのような声が聞こえたかと思うと、その人は振り向いて暗闇に消えていく。


「待って——!」 


 思わず走り寄って、その人の腕を掴む。すると、一気に暗闇の世界に光が戻った。




「えっ……」


 快の声が聞こえた。ふと見ると、私の手が彼の腕をしっかりと掴んでいる。


「あれ、快……?」


 不思議そうに快がこちらを見つめる。ハッとして彼の腕から慌てて手を離す。


「ヒヒヒ……それでは老いぼれは退散するとしようかのう」


 お婆さんの声が聞こえてそちらを振り向くと、彼女は部屋を出ようとしていた。


「待って、お婆さん。さっきのは、一体——」


 何か彼女に言おうとしたが、言葉が続かない。すると、お婆さんが背中を向けたまま言った。


「なあに、単なるおまじないじゃよ。ワシもこの頃、年をとったせいか、色々とおせっかいをしたくなるようになってな」


 彼女は、「じゃ、ゆっくりおやすみ」とだけ言ってその部屋を出て、音も無く自分の部屋に戻っていく。そのどこか人間離れしたような様子を快とともに見送っていたが、お婆さんが自分の部屋の障子をパタンと閉じると、急に現実に戻ったような気がした。


「美里?」


 快が不思議そうに私の方を見て尋ねてきた。慌てて彼に笑顔を向ける。


「——な、なかなか、面白いお婆さんね」


「ごめん。ちょっと驚いたでしょ? 女性では珍しいみたいなんだけど、昔から神主の仕事をやったりしてきたから、ちょっと変わっててね。それに、僕に対しても、小さい頃から親代わりになってもらってたから、普通の祖父母よりも、良くも悪くも近い関係なんだ」


「親代わり?」


「あっ、言ってなかった? 僕、小学生の頃に両親死んじゃって。それ以来、あのお婆さんと2人暮らし」


 えっ、と声を出してしまった。


(小学生の頃に両親が死んだ……?)


 なぜか背筋がゾッとした。私は彼の母に会ったことがあるような気がしたのだ。いや、そんなことはあり得ない。小学生の頃と言ったら、もう10年以上前の話だ。そもそも、私達は大学生になってから初めて出会った。どうしてそんなおかしな事を思ったのだろう。急に薄気味悪くなる。


「どうしたの? 顔色が悪いよ」


 不思議そうにこちらを見る快の声に、ハッと我に返って頭を下げた。


「いや……ご、ごめんなさい。その……変なことを聞いて」


「別に大丈夫だよ。……あっ、もしかして、車酔いした? 結構、山道が続いてたから」


「あっ……まあ、そうかも。でも、もう寝るだけだから大丈夫」


 私は彼に精一杯の笑顔を向けて答えた。すると快も頷いた。


「じゃあ、明日はゆっくり起きて大丈夫だから。僕も起きられないかも」


 そう言って快は部屋を出て行こうとした。ふと1人だけになることに心細さを感じて思わず声をかける。


「あ、待って」


 彼が振り返った。私はただ、その顔を見つめている。しかし、彼に何を言おうと思ったのか自分でも分からない。


「あの……快、ありがとう」


 ただそれだけ言うと、快は少し頷く。


「まあ、明日から頑張って。おやすみ」


 彼はそれだけ言って、障子を閉めて出ていった。


 彼がいなくなった部屋で、天井の明かりをつけたまま、敷かれた布団の上にうつ伏せになる。静かな空間だ。その静けさに思わず目を閉じると、すぐに意識が無くなった。

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