-灰色の世界③-

 ゆっくりと目を開けると、私は硬めのソファに座っていた。膝の上に女性雑誌が開かれている。


(あれ……?)


 私は軽く頭を振る。少し眠ってしまっていたのだろうか。何かの夢を見ていた気がした。しかし、腕時計を見ると、ここに来てからまだ30分ほどしか経っていない。


 左右を見ると、同じようなソファがあり、沢山の女性や子供たちが座っている。端の方にあるキッズスペースでは、子供たちがおもちゃで遊んだり、本を読んだりしている。女性が座っている近くにおもちゃや本を持ってきて、遊んだりしている子供もいる。


 周りにいるのはほとんどが女性で、男性が隣に座っているのも見えるが、数は多くない。女性達は明らかにお腹の大きな女性がほとんどで、それをたまに撫でたりしている人もいるのが目につく。


 私は膝の上の女性雑誌を脇に動かして、自分のお腹を見下ろした。するとそこにも、不思議な程はっきりとした膨らみが見える。


 目に見える、幸せのカタチ。


 そこには確かな存在がある。私は脇に置いたバッグの中を探して、一つの小さな冊子を取り出した。赤ちゃんとお母さんの絵が描かれている、その母子手帳の表紙の氏名欄を見つめる。


『大戸美里』


 私の名前がはっきりと書かれたその手帳を開く。前回の診察の日付は、2週間ほど前の3月10日。そこに貼られた黒いエコーの写真を見つめる。あまりはっきりと撮影されたものではないが、その写真を見ているだけで、私の心の中に暖かな風が流れ込んでくるように感じた。


 そこから過去のページを捲っていく。そこに書かれている診察の記録は、私自身と私のお腹の中の存在の両方の記録だ。ページを捲る毎に、その頃の記憶がありありと蘇って来るのが分かる。そして、手帳の最初のページまで戻ってきた。


 母親の欄に書かれている名前。それは、確かに私の名前だ。


「ねえ、ママ。見て。この子、可愛いでしょう」


 突然、近くで子供の声が聞こえた。ドキッとして顔を上げる。すると、私から一人分くらい空けて隣に座っていた女性の前に、3歳くらいの女の子が立っていた。黄色い長い髪をした小さな人形を手にしていて、それをその女性に見せているようだ。女性が笑って頷くと、女の子は再びキッズスペースに走って戻っていく。


 私はお腹を撫でながら、待合室内を見渡した。診察室は2つある。今日の診察は、院長に加え、大学病院に勤務するその娘も当番で来ているらしい。その一つから女性が出てきてしばらくすると、看護師の呼び出しでまた別の女性が中に入っていく。もう一つの診察室からも女性が出て来るのが見えた。


「大戸さん。1番の診察室にお入りください」


 ドアを開けて看護師が声をかけた。私はゆっくりと歩いて、手元にあった雑誌を本棚に戻した。バッグを腕にかけて、お腹を撫でながら歩いて行く。看護師が入口で待っている診察室から中に入ると、彼女が後ろでその入口の引き戸を閉めた。


 中には、白衣を着た白髪の医師が穏やかな表情で座っていた。院長先生だ。


「どうですか? 特に変わりはありませんか」


 私が頷いて応えると、「じゃあそちらに」とベッドを示された。そこに上がり、ゆっくりと仰向けになると、看護師が私の着ていたシャツと下着を捲ってお腹の辺りを露わにする。ひんやりとした液体を塗られた感覚があり、続いて院長がエコーの機械を持って私のお腹に当てた。今日は前よりもはっきりと映像が見えるのだろうか。胸をドキドキさせながら、私からも見えるように置かれたモニターの画面を見つめる。


 しばらく院長はそのモニターの画面を見ながら、私のお腹の上で機械を動かしていき、その手を一度止めた。院長がじっと見つめる画面を私も同じように見つめる。すると彼は、しばらくして再びその機械を動かして、画面を見つめた。


「ううん——」


 院長が静かに唸る。その姿をベッドの上から見上げる。彼は黙ったままモニター画面をじっと見つめている。なぜだろう。私も自分の胸の音が聞こえるように思えるほどに、高鳴ってきた。


「どうしたんですか?」


 堪らずに尋ねる私に、院長がようやく私の方にゆっくりと振り向いた。


「大戸さん。もう……動きが確認できません。残念ですが」


 動きが、確認できません——。

 

 その声がこだまのように何度も耳の奥に響いていく。口を開けたまま、何も言葉が出ない。しばらくして、ようやく私は院長に尋ねた。


「夢、ですよね」


「えっ——」


「これは……夢ですよね? 夢なんでしょう。お願いです! そうだと言ってください」


 掠れるような声で必死に尋ねるが、院長は悲しげな表情をして、ゆっくりと首を振った。


「大戸さん……」


 そう言って隣にいた看護師がそっと私の手を握った。その温かさにハッとして彼女に顔を向けると、急に視界がぼんやりとして何も見えなくなった。

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