-灰色の世界④-

 私はゆっくりと目を開けた。そこは、私がいた病室のソファだった。


(私……)


 自分の体を見下ろす。私服の青色のワンピースに身を包んだ私の足元には、小さなスーツケースが置かれている。私は立ち上がり、部屋の窓の方に歩いていく。窓の外はすっきりと晴れ渡っているが、それとは裏腹に私の体は異様なほど重い。思わずお腹の辺りに手を当てたが、慌ててその手をすぐに離した。


(夢……じゃなかった)


 急に記憶が鮮明に蘇ってくる。都内から少し離れた場所にあったその病院は、緑に囲まれた静かな環境の中にあり、できる限り無痛分娩措置は取らず、自然な出産を大事にしている病院だった。初めての出産であり、その一度の経験を大事にしようと思って、私はそこに通っていたのだ。


 一方、院長から死産の宣告を受けてからのことは、ほとんど覚えていない。ただ、これ以上涙は出ない程に泣いたことだけは覚えている。それから加代に連絡して病院まで来てもらい、一度自宅に帰って支度をしてからすぐにここに入院した。それが僅か1週間前の事だとは思えないほど遠い過去のように感じる。


「大戸さん。準備は大丈夫ですか?」


 長身の看護師が病室の引き戸を開けて部屋に入ってきた。小さなスーツケースには数日分の着替えしか入っておらず、朝食を食べ終わってすぐに準備を始めたが、30分程で終わっていた。


「ありがとうございます。もう出ますから」


 そう答えると、看護師は頷いて引き戸を開けた。その横をスーツケースを引きながら部屋を出ていく。廊下の窓からは外の陽射しが注いでいて眩しい程に明るい。すると、少し先から、看護師がすぐ隣で私に寄り添うように歩き始めた。


「わあ! かわいいね」


 突然、甲高い子供の声が聞こえた。私はその方をチラッと見る。隣を歩く看護師の向こう側にはガラス越しの明るい部屋があり、その前にピンク色の病院服を着た女性が立っているほか、男性や子供の姿が何人も見えた。子供が「あれが僕の妹?」と無邪気に尋ねる声が聞こえてくる。私は彼女の配慮に心の中で感謝しつつ、彼女の影に隠れるように歩みを早めた。


 廊下の端の細い階段を降りていくと、その先に病院の玄関があった。そこは正面玄関ではない、特別な玄関だ。そこにいた看護師が私の姿に気づいて、隣のドアに姿を消した。一緒にいた長身の看護師が私の靴を探して出してくれ、それを履く準備をしていると、隣のドアが開いて院長先生と数人の看護師が姿を現した。


「大戸さん。みんなここで待っていますからね」


「きっとまた、すぐに会えますから」


 長身の看護師が、私の手を握ってきた。院長はもちろん、皆が優しそうに私を見つめている。私もそれに強く頷く。


 そう、私は大丈夫。私は立ち直る。そして、またここに来るんだ。きっと、私は……。


 するとその時、後ろから別の年配の看護師がそっと出てきた。その手には、茶色の封筒と、その下に小さな細長い直方体の木箱のようなものを抱えている。


「これを持ってね……しっかりと」


 彼女は私の手に、その封筒と木箱を持たせていく。その箱はまるで冷凍庫の中にでも入っていたかのようにすっかり冷たくなっている。その小さな箱を手にした途端、それまでの鮮やかな世界が一瞬にして白黒になり、院長と看護師の姿も私の視界から見えなくなってしまった。



 ******



 それからどうやって移動したのか、気が付くと、地元の市役所の窓口に来ていた。そこで、病院から渡された封筒に入っていた書類を提出すると、うやうやしく頭を下げる職員の言う通り何かの書類を書き、しばらくして一枚の書類を受け取った。


 フラフラとする頭のまま、市役所前に停まっていたタクシーに倒れるように乗り込む。よく晴れた日で、遠くに富士山が小さく見えていた。私は、小さな木箱をずっと腕に抱えていたが、どうしてもその箱を直接見つめることはできず、ただ、車窓から外の風景を眺めていた。


 タクシーは街の郊外に向かっていく。やがて大きな川に程近い場所にある建物に着いた。周りには畑や水田が広がっているが、今の時期はほとんど植えられているものはなく、茶色の土がただ冷たく広がっている。その建物は、その中にポツンと建っていた。私はタクシーを降りて木箱を抱えたまま入口に進んでいく。自動ドアが開いたところに長椅子がいくつか置いてあって、そこに4人ほどの中高年の男女が黒服を着て座っている。彼らが一斉に私の方に視線を向けたのが分かった。


 私はそれに構うことなく、正面にある「受付」と書かれた窓口に、市役所で受け取った書類を提出した。「少しお待ちください」と言って女性事務員が書類を奥に持っていくと、しばらくして中年の男性が中から出てきて私の前に立った。男性は深く頭を下げる。


「この度は本当に……」


 男性の白髪頭が私の目の前に見えた。


「それでは、そちらをお預かりいたします」


 私の抱えた木箱に向けて手を出すので、私はゆっくりとそれを男性に手渡す。男性は再び頭を下げてから、木箱を抱えて私の方を見た。


「あの、大変恐縮ではありますが……おそらく、こちらのお骨は何も残らないと思います。ですから、私どもの方でしっかりと供養させていただきたいと存じますが、それでいかがでしょうか」


 私がそれにどう応じたのか分からない。ただ、男性はさらに頭を深く下げてから、木箱を持っていった。その様子を先ほどの中高年の男女が遠目に眺めているのを感じて、そちらに顔を向けると、彼らはさっと私から目をそらして何か小声で話し始めた。


 私は彼らと少し離れた場所にある長椅子の端に座った。外は春の陽射しが温かく降り注いでいて、まだ暑いという時期ではない筈だが、その場所は不思議なほど暑く感じる。それは、胸の奥を直接刺激してくるような息苦しい暑さで、体中から不快な汗が流れ出て来るような気がした。しばらくすると、近くにいた中高年の男女は、別の職員とともにどこかに行ってしまった。


 その場所で一人だけになって座っていると、しばらくして、先ほどの中年の男性が早足で私の前に戻ってきた。


「お待たせしました。しっかりと対応させていただきました。外にタクシーを呼んであります」


 私に一枚の書類を渡しながら言う。頭を軽く下げた私に、男は続けた。


「こんな時に恐縮ですが、一言だけ言わせてください」


 私は男の手を見つめる。その手にはめた手袋の白さが眩しい。


「いいですか。あなたはまだ若い。きっとこれからまだまだ機会があります。今日のことはできるだけ早く忘れて、お気持ちをしっかり持って前向きに生きてください。それがきっと、何よりのご供養になりますからね」


 そう言って、私の前に立って、外のタクシーまで案内した。女性の運転手が後部座席のドアの傍に立って待っていたが、私の姿を見るとドアを開けて中に案内し、そっとドアを閉めて、すぐに運転席に乗りこんだ。先ほどの中年の男が頭を下げている中、タクシーはゆっくりと走り出していく。


 しばらくして、タクシーの窓から長い煙突が見えてきた。広大な平野の中に立っている先ほどの建物の隣に見える煙突だ。何気なく見ていると、煙突から出た煙が風に流されている。しかし、その煙はすぐに姿が見えなくなってしまった。それはまるで、この世界から、どこか遠い、遠い世界に、消えていってしまうような気がした。


「お客さん……これ、良かったら」


 タクシー運転手が運転席から手を差し出した。そこには薄い黄色のハンカチが乗せられている。私はそっとそれに手を伸ばした。


「ありがとうございます。……もう、涙は出ないくらい、泣いたと思ったんですけどね」


 頬を伝う温かな感触をそのハンカチでそっと拭きながら、私は運転手の背中に向かって笑顔で応える。しかし、その黄色いハンカチを握ったまま両手を組んだお腹の上に視線を落とすと、後から後から涙が湧き出てきて止まらくなってしまった。

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