-灰色の世界⑤-
自分の部屋に戻ったのは夕方に近くなっていた。私は、スーツケースを入口に置くと、リビングのテーブルの上に置いたままになっていたベージュのハンドバッグの中を探り、その中身を入れ替えた。その時、スマホが着信を告げる。表示を見ると、加代だ。私はそっと通話ボタンを押す。
「もしもし——ごめんね。何度かメッセージを貰ってたのに返せなくて」
『大丈夫? もう家に着いた? 何も連絡がないから心配してたんだけど』
「うん。大丈夫。もう家に帰ったから心配しないで。……でも、ちょっと疲れたから、少し休むわ」
精一杯明るい声でそう言いながら、ハンドバッグを持って玄関でスニーカーを履いた。「分かった」という加代の声で電話を切ってすぐに外に出る。そして、駐車場に停めてある自分の青色の車のエンジンをかけた。
行先は、決めていた。
以前から、気分転換として夜のドライブに行くことがあったが、なぜかそれが久々であるような気がした。最寄りのインターチェンジから高速道路に乗り、西に向かっていく。平日だったので、トラックが多いほかは、渋滞することなく快適なドライブが続いた。ずっと付けていたラジオが県境を超えると周波数が変わり聞こえにくくなった。改めてセットし直すと、お笑い芸人の軽妙なトークが流れてきたが、その内容は全く頭に入ってこない。
2時間ほど走って、インターチェンジを下りて、そこからしばらく一般道を走っていった。既に辺りは真っ暗になっていて、道路を点々と照らす僅かな街灯の中、車を走らせていく。その街外れの交差点を曲がると、その先は山道だ。人家が途絶え、まさに暗闇の世界に入り込み、自分の車のヘッドライトだけしか見えなくなる。途中、わずかな人家のある集落を抜け、さらに山を登っていくと、道幅も辛うじて対面通行できるほどに狭くなり、最後にはその道も行き止まりになった。そして、そこにある小さな駐車場に車を停めた。
車を降りると、ひんやりとした風を感じた。空には半月がかかり、暗闇の世界をぼんやりと照らしている。そこにいるのは、私一人だけだ。私は僅かな光に照らされた中を少しだけ歩いて、その先に立てられた木製の看板の前に立った。
県立自然公園 三葉留湖。
そこは対岸が見えるほどの小さな湖だ。山の上に出ている半月が、湖面にゆったりと映し出されていた。その湖は、天然にできた湖だと聞いているが、不思議なほど綺麗な円形をしている。
私は以前から、嫌な思いをしたり、落ち込んだりしたときには、決まってここへ来て気持ちを静めるようにしていた。キャンプをする訳でもなく、登山をする訳でもないのに、ポツンとその湖だけがある山奥のこの場所まで、不思議なことに私は何度も来ていた。
(だって、それは——)
私はその蒼い湖を見ながら何かを思い出そうとした。しかし、不思議なことに、はっきりとしていた筈のその思い出に、急激に白い靄がかかっていく。
(私……どうして、この場所に来ていたんだろう?)
その理由がどうしても思い出せなくなる。この場所、いやこの県にすら、私には何の縁も
(ううん——。もう、いいの)
私は黙って首を横に振る。そして、湖面の淵にしっかりと立って、その静かな空気を思い切り吸って深呼吸した。体の隅々までその澄み渡った空気が流れていくのが感じられる。それを5回ほど続けただろうか。次第に気持ちが収まっていくのをはっきりと感じた。
私はゆっくりと車に戻っていく。駐車場には私の車以外には1台も車がなく、人の気配も全くない。駐車場を照らすように街灯が2つほど光っているが、それ以外は暗闇だ。ただ、私にはもはやそれを恐れる気持ちは少しもない。
車に乗り込んで、運転席に座ると、助手席に置いていたハンドバッグを開けた。その中から、白いビニール袋を取り出して、その中身をじっと見つめる。
そこには、青いカプセル状の薬が、数十個くらい入っていた。
それを見て再び深呼吸する。
(ごめん、加代……。私はもう、無理だわ)
視界が少しずつ滲んでくる。もう、あの病院より前の記憶は全く思い出せない。ただ、たった一つだけの幸せを得ようとしていた事だけは確かだ。しかし、それすら手に入らなかった。
これから先の未来。それを生きることは、私にはもう無理だ。
するとその時、ふいに一つの言葉が頭を過った。
『いつの日か絶望の淵に立った時、お前さんは自分が本当に望む世界の夢を見る。その時はすぐにその話を、大切に思う誰かに話すんじゃ』
それが誰に言われた言葉だったのか思い出せないが、その言葉が何度も頭の中でこだまのように響いていく。しかし、そんな夢を見て、誰かにそれを話したところで、一体何になるのだろう。仮に、素晴らしい夢を見たとしても、そんなものはただの空虚な妄想だ。その妄想を誰かに話すことに何の意味があるのだろう。妄想は、目の前の現実を超えることはできないのだ。
私の未来は、私自身で幕を引く。
そう決意すると、少し安心したのか、急激に疲れを感じてきた。そうだ、急ぐことはない。私は車のシートをバッタリと倒して、そこでゆっくりと目を閉じた。
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