(3)

 深い闇の中で、どこからか声が聞こえてきた。


(——美里さん、美里さん)


 その声とともに、小さな光が見えた。それは次第に大きくなり、視界の全てを奪うほど眩しくなる。私は思わず目を閉じる。


 再びゆっくりと目を開けると、木目の天井が見えた。中央に蛍光灯が一つだけ付けられていて、白い光を放っている。顔を僅かに左に向けた先には、1人の女性が正座している。白い装束に何かの家紋のようなものが光っていた。


「お母さん——」


 快の母の涼子は、私がそう呼びかけると少しだけ笑って応えた。どうやら私は布団に寝かされていたようだ。


「ゆっくりと、起きてみて」


 彼女の声がまるで私の体の隅々まで浸透するように響く。その声に突き動かされるように体を起こそうとすると、彼女が近寄ってきて私の背中に手を当てた。彼女の手の温もりを背中に感じながら、「ありがとうございます」と言って、一度深呼吸する。


「もう、大丈夫」


 彼女はそう言って笑顔を向けた。


「さっきの夢は、一体……」


 頭の中が混乱していた。もう一度、大きく深呼吸しながら辺りを見回していく。するとその時、彼女の後ろ側に敷かれたもう一つの布団に気づいた。そこには誰かが寝かされている。


「快——」


 彼はしっかりと目を閉じている。私が快の方を向いたので、涼子もそちらを振り向いた。しかしすぐに、私の方に視線を向けた。


「大丈夫。まだ、快は生きています。……それよりも、思い出しましたね」


「思い出した……?」


「あなたが生きてきた、本当の世界のことを」


「えっ——」


「あなたがさっきまで見ていた夢のようなものは、あなたの中にまだ辛うじて残っていた、本当の世界の記憶です。——あなたは、快と同じ大学の友人だったんですね」


 涼子がじっとこちらを見つめた。さっきまで見ていた夢のようなもの。その内容は今ははっきりと思い出せる。もし、それが真実だとすれば、私は大学時代から快の事を知っていた。いや、同じサークルで普段からよく会っていたようだし、卒論のためとは言え、この神社まで2人で来ていたのだから、彼とはかなり近しい存在だったのだろう。


 一方で、大学卒業以降の事はまだ曖昧だ。その夢では、どこかの会社で働いていたようだが、経緯は分からないものの、私は妊娠した。少なくとも私はそれを好意的に受け止めていたのだ。しかし、その幸せの次に訪れたのは絶望だった。


「私……死産を……」


 呟くように言うと、隣で涼子が悲しげな表情をしてゆっくりと頷く。あの病院での死産の告知、入院生活、そして火葬場に行ったことは、今でもはっきりと思い出せる。


 それは夢ではない。紛れもない現実だ。


 知らぬ間に、頬を涙が伝っていた。涼子がそっと近づき、私の体を抱きしめる。背中を撫でる彼女の手が、不思議なほど温かい。彼女の胸の中でしばらく嗚咽し、ようやく落ち着き始めた時、急に頭がガンガンと痛くなってきた。もう寒いという時期ではない筈なのに、体にもゾクゾクと寒気を感じてきた。


「もしかして……私、あの薬を……睡眠薬を……?」


 涼子の白い着物に顔を埋めながらそう呟くと、彼女は体を一層強く抱きしめてきた。そうだ。私は大量の睡眠薬を持っていた。どうしてそれがあったのか分からないが、私はそれを入れたビニール袋をハンドバッグに入れてあの場所に向かった。


 それを飲んで、自殺するために。その意思だけは確実にあった。


 すると、私を抱きしめる涼子の声が耳元で聞こえた。


「大丈夫。あなたは、生きている」


「どうして……? あんなに薬を飲んだとしたら、絶対に助からない」


「ええ。あなたの世界にいたのなら」


「私の……世界?」


「そう。でも、この世界はその世界とは違う」


 私は顔を上げて涼子を見つめた。


「どういうこと……?」


 思わず尋ねると、彼女は「ちょっといいですか」と言ってから私から離れて立ち上がった。そして、祭壇の前まで行って、そこに置かれていた緑色の葉の付いた枝を持ってきて、私の前に座り直した。


「このさかきの枝を見てください。私達は、この枝が根元から分かれていくように、日々、数えきれない選択をして、その末に現在を生きているんです」


「選択——」


「そう。だから、今のこの世界は、この枝の端の方にある世界。だけど、あなたはそれを選ばなかった。あなたが本当に生きていた世界は、この枝分かれした反対側の端の方の世界。それが、あなたがさっき夢で見てきた本当の世界なんです」


 そう言うと、涼子は榊の枝をそこに置いて再び私の隣に来て、背中にそっと手を当てた。まだ頭がガンガンと鳴っているが、不思議と彼女の手の温かさがじんわりと私の体に伝わり、次第に頭痛も寒気も治まっていくような感じがした。


「でも……その世界は、夢ではなく本当に存在している世界なんですか? 確か、快はそういう夢の事を、人間が自分自身の過去の選択にさかのぼって、そこから派生させた世界だと」


「ええ。確かに、現実の世界とは違うという意味では、夢の世界だと言えるかもしれません。でも、それぞれの世界は確実に存在しています。夢を見ている人は、いわばその世界に生きている自分自身と意識を同一化させている。それはきっと、人間の心の中にある強い後悔を、その人生の最後に救うために与えられた力なんです」


 涼子はずっと私の背中に手を置いていた。彼女の体からは、何かの花のような優しい香りが漂ってくる気がする。


「この神社の本当の仕事は、そういう人間の力を引き出すのを手伝うこと。そのために、一つには彼らに真の後悔を思い出してもらうよう暗示をかける。そしてもう一つは、彼らが見た世界の話を聞き、それを文字にして、その本人、又は彼らが伝えたい人間達にそれを伝える。そのために、私達一族には、彼らの見た世界を、ぼんやりとですが共に見ることもできるんです」


 涼子は私の顔を間近で見て笑った。彼女の肌は白く、綺麗だ。少しだけ皺は寄ってきているものの、私を見つめるその優しい表情は、私の心を落ち着かせるのに十分だった。


「あなたも見てきたでしょう? 自分の中にある後悔から、別の世界を少しだけ生きてきた人間が語る姿を。そして、彼らのその話を、あなた達が文字にして伝えることで、心が救われた多くの人達を」


「じゃあ、もしかして……私も今は、死ぬ前に、別の選択をした私自身として生きているということなんですか?」


 そう尋ねると、彼女はゆっくりと頷いたが、しばらくして目を閉じて首を振った。


「あなたの場合は、少しだけ違う。……おそらく、あなたという人間をそのまま、快自身がこの世界に連れてきたんです」


「えっ……?」


 思わず快の方を見た。彼は先ほどまでと同じように、じっと目を閉じていて動かない。


「快は、ここに来た理由を話してはくれませんでした。ただ、あなたの夢の内容から、おそらくあなたが死に瀕していたことだけは事実でしょう。……だから、快はあなたをこちらの世界に連れて来た」


「そんな……そんなことが、本当にできるんですか」


「ええ。それは……」


 そこまで言って、涼子は快の方を向いたまま、口を閉ざしてしまった。何か言いたそうであったので次の言葉を待っていたが、しばらくして彼女はこちらを振り向いた。


「すみません。……ともかく、快はあなたをこの世界に連れてきた。ここは、あなたの生きていた現実の世界とは違って、あなたの心も体も健康な世界だったから」


 確かに、この世界の私は会社を退職して経済的には厳しかったが、さっき見てきたような私の本当の世界の記憶に比べれば、心も体も全然問題は無い。むしろ、快とともにこの神社の仕事を手伝うことで、たくさんの人間の心を救う場面に遭遇でき、それをやりがいにさえ感じていた。ただ、本当の世界には無かった精神的なダメージが一つだけあった。


「でも、加代は……親友が、死にました」


 涼子はそれを聞くと、ゆっくりと頷く。


「ええ。でもそれはきっと、この世界であなたが生きるための試練なんです。あなたのように、別の世界からやってきた人間が、違う世界で生きるためには、そうした辛い試練を一つだけ乗り越えなければならないと言われています」


 そこまで言うと、涼子は快の方を振り返った。そこには、先ほどと変わらずに静かに目を閉じて横になっている彼の姿がある。


 そうだ、快だ。加代の件はあったとしても、私は今は元気なのだ。一方で、涼子は快がもうすぐ死ぬと言った。それはどういう事なのだろう。


「お母さん……。快は、どうなるんですか?」


 私は静かに尋ねる。すると、涼子は一瞬だけハッとしたような顔をした。そして少しの間、黙っていたが、ようやく口を開いた。


「美里さん。少しだけ、昔の快の思い出話を聞いてもらえますか」

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