(1)

 雀の鳴く声が聞こえていた。薄いレースのカーテンの向こうから、明るい光が差し込んでいるのを見て、思わずベッドの上に飛び起きる。


(加代……)


 夢で見た加代の楽しそうな姿をまだはっきりと覚えている。いつの間にか頬を涙が伝っていて、私は慌ててティッシュペーパーでそれを拭いた。


 昨日は、病院で倒れてから病室で休ませて貰っていたが、夜には歩けるようになったが、まだふらつく感じがあったので、その病院を出て駅近くのホテルに泊まった。翌日は体調もだいぶ回復したので、快とともに電車で帰ることにした。


 帰りの電車の中ではほぼ無言だったが、私は、加代が語ってくれた夢を文字に起こした紙と、彼女が最後に語った言葉を紙に書いて、彼の家に送ったらどうか、と快に提案した。快も「そうですね」と言って同意してくれ、快が自宅に戻ってから寛のもとに郵送することになった。寛がどう思うのか分からないが、私にできることはそのくらいしか思い浮かばなかった。


 池袋で快と別れて、一人でアパートに戻ってからは、何もする気にならず、部屋の中に閉じこもっていた。頭痛もひどくなってきたので、市販の風邪薬を飲んでベッドに横になっていたが、いつの間にか眠ってしまったらしい。


(さっきのは……夢、だよね)


 夢に出てきた加代や優美は、大学時代によく一緒に過ごした親友だ。あの居酒屋もよく覚えてはいるが、夢の中では私が誰かに振られて、彼女達に励まされていたようだった。ただ、私は大学時代に男性関係の話題は寂しい程に無かった。付き合ったことも、振ったり振られたりしたこともない。


(それに……)


 最後に出てきた「カイ」という名前。その名前は私の大学生活では記憶にない。きっとこの数日間の快との強い記憶が、夢に出てきたものに違いない。それにしても、まだその夢の内容をはっきりと覚えている事を不思議に思う。普通なら夢を見てもすぐに忘れてしまう筈なのに。


(少し疲れていたのかな?)


 ベッドから降りて冷蔵庫のドアを開ける。牛乳パックを取り出して、コップに注いで一口飲んだ。冷たい感覚が体の奥までしみわたるような感じがする。その時初めて気づいたが、昨日までの体のだるさが嘘のように無くなっていた。体が軽くなった心地良さのまま、朝食のパンをトースターに入れる。お湯も電気ケトルで沸かし始めて、インスタントコーヒーを準備していく。その時、ふとスマホを見ると、昨日の夜に快からメールが届いていた。


『少しこの仕事は止めにしましょう。ゆっくり休んでください』


 短い文章だった。解雇された訳では無さそうだが、この前、病院で倒れてしまった私の姿を見て、彼なりに配慮してくれたのかもしれない。しかし今は、体調も不思議な程に良い。彼は雇い主でもあるので、状況報告を兼ねて返信した。


『ありがとうございます。でも、最近なかったくらいに私の体調は良いです。また仕事があればいつでも呼んでください』


 いつでも、という文字を入れるかどうか悩んだが、求職中の身であることは事実なので、入れることにした。確かに、加代の件は辛い経験にはなったが、かといって、この仕事自体が悪かった訳では決してない。仮に、私が加代の所に行かなかったとしても結論はきっと変わらなかっただろう。むしろ、私にとっては、卒業以来会えていなかった加代と再会を果たしただけでなく、その心の言葉を直接聞き、彼女の人生の最後にそれを伝えることができた。快が言ったとおり、彼女は私から聞いたその夢を思い出したことで、後悔は無かったに違いない。


 様々な人生を生きてきた人々と接し、その想いを聞き、文字にして、彼ら、彼女らに伝えて、その心を救う仕事。それは、正直に言って、お金に代えがたい仕事だ。だから、もっとその仕事を続けてみたい。それが今の私の願いであることは間違いなかった。


 電気ケトルで沸かしたお湯をインスタントコーヒーの入ったコップに注ぎ、トースターからパンを取り出して皿に乗せた。それらを部屋の真ん中にある小さなテーブルに置き、テレビを付けてからスマホを覗いてみるが、快からは何も返信はない。


(電話してみよう)


 時計の示す時刻は既に8時を過ぎている。メールではなく、自分の声を聞いてもらった方が、私が元気であることを伝えられるのではないか。ふとそう思って、スマホのメモリから「市川快」の名前を表示させ、通話ボタンを押した。


 呼び出し音が3回鳴り、次にそれが切れた。


「おはようございます。おかげさまで、体調はかなり良くなりました。もう、私は大丈夫ですから、いつでも仕事に呼んでくださいね」


 明るい声で一気に言う。実際、体調も良かったのだが、快に少しでも元気な声を伝えたかった。しかし、相手は不思議と何も言ってこない。


「あれ……? 神主さま、どうしたんですか?」


 もう一度、尋ねる。すると、静かな声が返ってきた。


『あなたが……美里さん、ですね』


「えっ……」


 思わずハッとして言葉を失った。相手は、女性の声だ。急に胸がドキドキしてくる。何と続けてよいか分からず、沈黙がしばらく続いた。


『すみません。私……快の、母なんです』


「お母さん……?」


 少しだけ間があって、相手が答えた。


『実は……快は、寝込んでいます』


「寝込んでる、って……体調が悪いんですか?」


『死ぬ……かもしれません』


 えっ、という声が出てしまった。それでも相手は黙っている。しばらく次の言葉を出すことができない。快が死ぬなんて、急に言われても全く現実味がない。ついこの間まで、私と一緒にいた快。私が倒れた後に私を見守ってくれていた快が、死ぬ……?


「な、何を言っているんですか。……これって、何かのイタズラですか? すみませんけど、何を言っているのか、私には全然……」


『そうだと思います。でも……本当に、かなり厳しい状態なんです。それで、お願いがあるんですが』


「お願い?」


『ええ。……これからすぐに、こちらの神社に来ていただけませんか』

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