(2)
私は準備した朝食を食べると、すぐにアパートを出た。
(何なのよ、一体)
私はそう思いながら自分の車のエンジンをかける。さっきの電話のことはまだ半分以上イタズラだと思っていた。しかし、体調も良くなったので、久々に自分の車で長距離を走りたいという気分でもあった。あの神社までの距離なら、ちょうど良いドライブだ。何かのイタズラだとしても、どうせなら快に直接会って私が元気であることを伝え、仕事を催促しようと思っていた。
家から出て、東京都内を迂回する圏央道に乗り、そこから中央道に入っていく。ちょうど日曜日で交通量も多く、中央道との合流地点が渋滞していたので、そこを抜けるのには少し時間がかかったが、それ以降は順調に進んだ。2時間ほど運転して、インターチェンジを下りた。
甲府盆地を流れる大きな川沿いの道路を南下し、盆地の南端の方にある小さな町に入る。そこから、「県立自然公園
そういえば、前にここに来たときは夜だった。既に昼近くになってはいたが、明るい時間に見るとこんな景色なのかと初めて実感した。山々には鮮やかな緑色が目立っており、春の息吹が強く感じられる。そうした自然の中に、僅かな人家と猫の額ほどの田畑が点々としている他には人の気配もない。窓を開けると、心地よい空気が風になってさらさらと車内を通り抜けていったが、それも山を登るにつれて少しずつ冷たく感じられてきた。
ちょうど正午頃になって、まだ記憶に新しいあの神社の駐車場に着いた。車外に出ると、ネイビーのロングスカートを履いた足元に強い風が吹きつける。都会のような乾いた風とは違って、山から吹き下ろしてきたそのままの新鮮な香りがする。
駐車場の端の方に、快が乗っていた白い商用車のようなバンが停められている他は、車は一台も見当たらず、周囲には全く人気が感じられない。木の葉が風で揺れる音が聞こえるだけだ。私は古ぼけた鳥居の前に立ってそれを見上げた。この前ここに来た時は、真夜中でもあり薄気味悪く思えたので、その鳥居を遠くから見ただけで帰ってしまった。しかし今も真昼で明るい時間帯であるにも関わらず、カラスの声がどこからか聞こえてきて、ドキッとする。
(ここ……なんだよね)
確かにこの場所のはずだとは思うが、誰もいないその場所に立っていると、次第に自信を失っていく。しかし、私は意を決して頷くと、その太い木でできた鳥居をくぐり、その奥に続く石段を上がっていった。
木々に遮られているため駐車場からは見えにくいが、石段はそれほど多くはなかった。登りきった場所に、神社の社殿がある。その建物の朱色は鮮やかで、意外にまだ新しそうだ。境内がきれいに掃除されているので、人の手が入った感じを受け、ようやく心細さが少しだけ小さくなっていく。
(あれ……?)
ふと、改めてその境内の風景を見回して、首を傾げる。
(私……ここに来たこと、ないよね)
不思議な感覚だった。この場所には初めて来た筈だが、どこかで見たことがある風景のような気がする。似たような神社を見た時の記憶なのだろうか。
林に囲まれた境内に、山からの風がさあっと吹き抜けていった。その強さに思わず俯く。長袖の白いブラウスを着ていたが、その意外な冷たさのせいで、腕に鳥肌が立つのが分かった。
「大戸美里さん……ですか?」
ひいっ、と思わず声を上げてしまった。声の方を振り向くと、いつの間にか本殿の建物の引き戸が開いていて、1人の女性が立ったままこちらを見下ろしていた。全身を白い装束に包んだ中年の小柄な女性で、ニコニコしてこちらを見つめている。人間の姿を初めて見て、思わずホッとした。そして、頭を下げる。
「初めまして。大戸美里です。……あの、市川さんのお母さんですか?」
「ええ。市川涼子と申します。電話だけで失礼いたしました。どうぞ、こちらにお上がりください」
彼女はそう言って、私を本殿の中に呼んだ。私は本殿の建物に上がる5段程の階段を上がり、引き戸の外で靴を脱いで、建物に足を踏み入れた。
本殿内はガランとしていて相当広く感じる。その広い空間の正面奥に、大きな丸い鏡が飾られた祭壇が作られていた。そして、そのすぐ近くに敷かれた白い布団の上に、一人の人間が目を閉じて寝かされている。
「快――」
フラフラと彼に近づいて、その隣に倒れ込むように座り込んだ。彼の様子を見ると、その胸の辺りは僅かに上下に動いている。穏やかに眠っているような表情に見えるものの、よく見るとその瞼は固く閉じられているように思えた。
「快は……生きてるんですよね」
後ろから近づいて来た涼子を振り返り尋ねる。彼女は、さっきの笑顔を消して、真っすぐに快の方を見つめている。
「ええ……まだ」
まだ、という言葉を繰り返す。その意味を尋ねようとすると、涼子は快を挟んだ向こう側にそっと歩いていき、私の方を向いて座った。小柄な彼女は、化粧をしていないように見えるが、肌にしっかりと艶があり、綺麗だと思った。
「でも、快は……きっと、明日になったら死にます」
真っすぐに私を見つめる涼子の目。それはさっきまでの笑顔が全くない、真面目な表情だった。
「死ぬって……どうして、そんなこと……」
「信じられないと思います。でも、死ぬんです。きっと」
「どうしてですか? 確かに目は閉じてますけど、まだ顔色も悪そうではないし、静かに寝ているみたいに見えますけど……」
静かに涼子は頷いたが、彼女は何も言わずに快の顔に視線を落とした。静かな本殿の中に、外からカラスの声が響いてくる。すると、涼子が顔を上げて、こちらを見つめた。
「美里さん。最近、何か夢を見たでしょう? 単なる夢よりも、もっとはっきりと覚えているような夢を」
はっきりと覚えている夢、と聞き返してから、しばらくして答える。
「何となく……違和感のある夢は、見たと思います」
「やはり、そうですか——」
「えっ? ……どういうことですか」
涼子の視線が快の方に向いた。彼女の言う言葉の意味がよく分からない。普通の夢ならばすぐに忘れてしまうが、昨日見た夢の内容は今でも不思議なほどはっきりと覚えている。しかし、それが一体何だと言うのだろうか。黙っていると、涼子は再びこちらに顔を向けて、頭を下げた。
「ごめんなさい。どうにかして、もっと早く連絡すれば良かったんです。私が迷っていたから、こんなに直前になってしまった」
「一体、どういうことなんですか? 何が起こっているんですか? 私にはさっぱり——」
「美里さん。私の目を、見てください」
涼子は私の言葉を遮ると、姿勢を正して真っすぐにこちらを見つめてきた。その目と視線が合うと、背筋が伸びるように全身が緊張する。これまで感じたことのないような緊張だ。なぜか、それ以上、彼女の視線を見たくない、と思って、思わず視線を祭壇の方に向けた。
すると、突然、祭壇の鏡の辺りから眩しい光が発せられたように感じた。まるで太陽の光が反射しているような強い光だ。私は思わず目を閉じる。しかし、その瞼の後ろで、真っ白な世界が広がっていく。
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