(6)
翌日の朝は、朝からどんよりとした曇り空だった。
快は、今回の宿泊に朝食をつけてくれていた。ビュッフェで普段食べられないような豪華な朝食をとってから部屋に戻った時、加代からメッセージが届いた。
『ごめん。寛さんの論文がまだ終わらなくて、もう少し待ってほしいの。先に私と藍那だけはホテル近くのカフェに行くから、そこまで来てくれる?』
指定されたカフェは、このホテルにほど近いショッピングセンターの1階に入っているようだ。まだ8時過ぎ頃だが、カフェは8時開店だから既に営業している。私は支度をして、快に「加代が近くのカフェに来るみたいなので、先に行ってます」とメッセージを送ってから、1階のフロントに降りた。
チェックアウトを済ませてホテルの外に出ようとしたとき、ロビーの方から声が掛かった。
「おはようございます」
顔を向けると、そこにはいつもにも増してヨレヨレのグレーのシャツを着た快が立っていた。細い目がさらに細く見え、明らかに眠そうな感じだ。
「おはようございます。もう来ていたんですか? 何か眠そうですけど」
「大丈夫です。それより昨日は楽しく話ができましたか」
「はい。おかげさまで、楽しかったです」
私は、言いながら、彼の座っていたソファからテーブルを挟んだ、向かい側のソファに座った。そして、モバイルパソコンを起動させて、加代の話を文字に起こしたファイルを開いた。昨日の夜にホテルに戻ってから一気に書き上げたのだ。
「昨日、加代が話してくれた夢の話です」
「えっ、どういうことですか? 彼女が夢を見たんですか」
「寛さんも見たそうなんですが、彼女も不思議な夢を見たって。だから、これを神主さまに先に伝えて欲しいって」
「そう……ですか」
快はそれだけ言って、細い目をしてその画面を見つめた。彼はしばらくその画面を指でなぞりながら見つめていた。その時、ふと彼の左手に視線が向かった。そこには細い指が伸びているだけで、指輪の姿は見えない。
(そりゃあ、そうよね——)
そんなことが気になった自分の事をやや馬鹿らしく思ったが、彼はそのような私の様子に気づく事もなく、じっと画面を見つめている。その目は今にも閉じそうなくらいに細い。
「今回の相談者は、寛さんなんですよね?」
「ええ……」
快は一度顔を上げてそう答えてから、再びその画面に視線を落としていく。
「相談者の他に、別の人も夢を見ることがあるんですか?」
私の言葉に、彼はまだ画面を見つめたまま答えない。
「加代は気にしてましたけど、この夢は全然関係ないんですよね?」
私はさらに声をかけて快の様子をじっと見つめた。しかし彼は、相変わらず、ほぼ閉じているのではないかと思われるほどの目でその画面を見つめているだけだ。
(何で黙っているのよ……まだ寝ぼけてるのかしら?)
そう思って再び尋ねようとした時、快が口を開いた。
「分からない……一体、どうして……」
「どういうことですか?」
「いえ……。何か、この夢には違和感がありませんか?」
違和感、と繰り返したが、私には何も思いつかない。すると快は、顔を上げてから意外な事を言った。
「この夢には、あの子が……藍那ちゃんが出てきません」
「藍那ちゃん……?」
私は訳が分からず、黙ってしまうと、快も再び画面を見つめて黙ってしまった。
「一つ聞いてもいいですか?」
「何ですか?」
「先ほど、寛さんも夢を見たと言っていましたが、どんな夢だったのか聞きましたか?」
「ああ……確か、寛さんがどこかの助教か何かになっている夢だったって」
「そう加代さんが言ったんですか?」
「そうですよ。彼が録音したスマホの声を後で聴いたって……」
「ええっ!」
快が急に大声を上げた。周りにいた他の客がこちらに顔を向けたのが分かった。私は恥ずかしくなり、彼に顔を近づけて小声で言う。
「ちょっと……どうしたんですか?」
尋ねる私の前で、快は急に立ち上がった。
「すぐに加代さんに連絡してください!」
******
何度か加代に電話したが応答しないので、私達は走ってホテルから出た。すぐ近くにあるショッピングセンターに入っているほとんどの店は、10時頃から開店するのでまだ閉められているようだが、その1階にあるカフェには照明がついているのが見えた。店内に入って中を見回すが、まだ加代の姿は見えない。私は再びスマホを出して加代に電話をかけたが、やはり繋がらない。そこで私は、そこにいた女性店員に尋ねる。
「すみません。赤ちゃん連れの人がこの店に来ませんでしたか?」
「赤ちゃん連れ? ああ、ちょっと前までいましたよ。赤ちゃんが泣いたからか、『少ししたら戻って来るから、荷物だけ置かせてください』って言われました」
そう言って、近くのテーブル席に置いたバッグを示した。
「ちょっと探してきます」
快はそう言って、店の外に走って出て行った。私も彼とは別の方向に走っていく。
まだショッピングセンター内の店が開いていないこともあって、歩く人の姿もほとんどない。その建物を出て外に出た時だった。歩道の先の方にベビーカーが停められていて、その少し向こうの方で、何かを拾い上げているように体を屈めていた人間の姿が見えた。
「加代!」
私は大声で叫んだ。すると、その人間がこちらに顔を向ける。そして、何か言おうとしたように見えた。
キキキー!
それは一瞬の出来事だった。ガシャン、と大きな音が聞こえたと思うと、さっきまで人間が見えた場所にシルバーの車が突っ込んでいた。
「キャアア!」
私は悲鳴を上げた。何がどうなったのか、全く分からなかったが、さっきまでそこにいた人間の姿は消えていた。私は夢中でその場所に駆けていく。その車の手前には、黒色のベビーカーが変わらずにそこに停まっていた。中にいたのは藍那だ。彼女はやや不機嫌そうに泣いている。
すぐ目の前にはシルバーの車があった。それは、ショッピングセンターの1階にあるまだ開店前の店舗に、交差点から思い切り突っ込んでいた。ボンネットは大きく折れ曲がるようにへこんで煙が立ち昇り、運転席にはエアバッグが広がっているが、そこにいる人間はそこに顔を突っ込んだまま動かない。そして、その車の突っ込んだ先の店内に、倒れている人間の姿が見えた。割れたガラスの上を必死に駆け出した。
「加代!」
それはやはり加代だった。叫びながら近寄ると、彼女の頭や脇腹の辺りから生々しい血液が広がっている。私は夢中で彼女の体を抱えた。
「加代! しっかりして!」
再び私が叫ぶと、彼女は少しだけ目を開けた。
「みさ……と」
「うん。何?」
「あなたに……昨日……何か伝えた?」
伝えた、と言われてハッとした。
「シンガポールの夢よ!」
焦点が定まらない彼女の瞳を見つめて答える。
「あなたは私に、シンガポールの高層マンションに住んで、外国企業の研究者として成功を収める夢を教えてくれた。それは……きっとあなたの未来。だから、あなたはその未来を生きるのよ!」
そう言うと、加代は私の方にゆっくりと視線を動かした。そして僅かに頷く。
「あり……がとう……美里」
「加代、しっかりして!」
私は重ねて叫ぶ。すると彼女は、少しだけ首を動かした。その時、後ろから誰かが走って来た。
「加代、さん……」
そこには快が立っていた。彼はハアハアと大きく息をしながらこちらの様子を見下ろしてから、ベビーカーから泣いている藍那を抱き上げ、加代の側に近寄ってきた。
「加代さん! しっかりして。藍那ちゃんはここにいますよ」
そう叫んで、加代に藍那を近づけると、加代は少しだけ彼女を撫でるように手を動かした。すると藍那は泣き止み、その手の方に視線を向ける。それを見て、加代は少しだけ笑った。
「私ね……あの夢は……違う、と思った」
「違う?」
「私……この子と……過ごせて……良かったわ」
彼女の声が弱くなっていく。私の視界も潤んできてよく見えなくなる。
「ダメ! ダメよ、加代!」
「こんな、ママで……ごめんね、藍那……」
加代はそれだけ言うと、右手を少し上げた。見ると、そこには茶色の小さな熊の人形が握られている。私は必死にその手を握ると、加代は嬉しそうに少しだけ笑って目を閉じた。
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