(5)
加代はそこで話を終えると、大きく深呼吸して、コップに入ったオレンジジュースを一口飲んだ。私はそれを見て録音を中止する。ストローから口を離して、彼女は、抱っこしている藍那の背中を撫でた。
「ごめん。何か変な夢よね」
「そう……ね」
私が答えると、加代は頷いて藍那の方を見下ろしていたが、ゆっくりと口を開いた。
「私ね。関西にある研究機関に就職して、遺伝子系の研究をしていたの。大学でやっていた研究を活かせそうだと考えて就職したんだけど、勤めてからすぐに、やっぱりプロは違うと感じていた。そんな生活が3年ほど続いて、一つだけようやく成果が出たものがあった。上司の研究者はとても喜んで、学会で発表しても結構評価されたから、私も嬉しかったわ。そんな時に、その上司から、海外の機関で働かないかという誘いがあった」
「そうだったの……」
「その研究機関は、海外の研究機関とも交流が多くて、人材育成の観点からも毎年若手の人材を海外に出していたの。その上司も海外経験があって、戻ってくれば必ずエリートコースに乗れるし、もっとうまくいけば海外の機関にヘッドハンティングされることだってある。だから、是非私を推薦したい、と言ってきた。その年はちょうどシンガポールの研究機関に行く話が出ていた。シンガポールは優秀な研究者を世界中から集めている国だから、行けるのは優秀な人ばかり。だから、私がそこに行けるなんて本当に夢のような話だった」
「じゃあ、もしかしてシンガポールに行ってたの?」
私がそう尋ねると、加代はゆっくりと首を振った。
「断ったの」
「えっ、どうして? だって、憧れてた世界なんでしょう」
私が尋ねると、加代は抱っこした藍那を見下ろしながら、その背中を撫でた。
「こんな世界に憧れていたのは確か。だけど、ちょうどその頃、共同で研究していた大学の関係で寛さんと付き合い始めてね。彼にはシンガポールへの赴任の話は相談しなかったけど、その時は、彼と別れて一人でシンガポールに行くことは想像できなかった」
うん、と加代は一人で頷いてから、暗くなった窓の外を見た。
「結果として私は国内に残り、寛さんと結婚することになって、こっちの研究施設に移らせてもらったの。でも、そのおかげで、藍那も産まれた」
加代は藍那を見下ろしたまま、そこで黙ってしまった。私は思わず彼女に声をかける。
「でも……これからだって、まだそういう世界を諦めることはないんじゃないの? だって、加代は私なんかよりずっと優秀なんだから。それに寛さんだって研究の道を続けているんだし、あなた達だったら、これからもそういう世界は十分に実現できる筈よ。……そうよ! さっきの夢だって、もしかしたらあなた達の未来を暗示しているのかもしれない」
おそらく、加代が話した夢は、未来の彼らの暮らしの一コマなのだ。研究者としてシンガポールに移住し、そこで大きな成果を上げる。輝かしい未来の夢。
「そう……かな」
加代は藍那を見つめたまま、それだけ言って黙ってしまった。一体、彼女は今、どういう想いなのだろうか。私が言った事を否定もしないが、肯定しているようにも見えない。私はしばらくの間、彼女にどのように声をかけてよいか分からなくなった。
その時、急に藍那が泣き始めた。加代はトントンとその背中を軽く叩くが、まだ泣き止まない。すると加代は持っていたトートバッグの中から茶色の熊のような人形を取り出した。それを藍那の胸の辺りに置くと、ようやく彼女は静かになった。
「これ、お気に入りの人形なの。もうこれまで何度これに助けられたことか」
フフっと彼女は笑った。
「そういうのってあるわね。確かに私も、小さい頃、大事にしていた人形があったかも。今となってはもう忘れちゃったけど」
「そうね。思い出なんて、大人になったら、そんなものかも」
「でも、この店に来たら、急に学生時代のことを思い出したわ。よくみんなで集まって、どうでもいい話をたくさんしたなあって。それだけじゃなくて、どこかに遊びに行ったり、居酒屋で騒いだりした事とかも。ただ、授業に出た記憶は全然ないけどね。……あっ、でも加代はまだ真面目に授業に出てた方かな」
私が思い出話をすると、彼女も少しだけ笑って応えた。
「まあ、美里よりは出てたかな?」
「うわっ。ひっどーい」
「でも出かけたり遊んだりするのは確かに楽しかったし、私もよく覚えてるわ。ここの大学って、どこかに行くには不便な街だったから、その中で精一杯楽しむ方法を見つけていたんだと思う」
「そうかもね……。ああ、学生時代に戻りたい!」
私は握りこぶしを上に向けて言う。それを見て加代は笑顔になった。
それから、しばらくご飯を食べながら昔話に花を咲かせて、気が付くともう夜の8時くらいになっていた。藍那も寝てしまっているので、歩いて帰ると言う私を、どうせだからといって加代はホテルまで車で送ると言う。悪いとは思ったが、私も少しでも彼女と話をしたかったので頷いた。私が助手席に乗り込むと、彼女は藍那を後部座席のベビーシートにそっと乗せてから、運転席に戻って車を発進させた。
「そう言えば、市川さんって、何となくとぼけた感じだけど、優しそうな人ね」
車が動き出してから加代が突然言った。
「まあ……優しいっていうか、ちょっと天然っぽいね」
「あの人って、独身なの?」
「えっ? そういえば、聞いたことなかったな。……でも、きっと独身だと思う」
思い返してみても、彼の私生活は全く謎だ。こちらから興味を持って彼に聞いたことも無かったが、彼も自分の事を話したことがほとんど無い。結婚指輪すら気にしたことはなかったが、あんな山中で夜中に1人で外出して私に声をかけるくらいだから、独身に違いない。逆に、結婚していてるのに、私を「ナンパ」するような男にも思えない。私の答えに彼女はフフっと笑う。
「美里って、ああいう細身でやや天然系の人がタイプだったような気がするけど。私の記憶違いかな?」
ハッとして彼女の方を見る。そういうことか、とようやく加代が言いたいことを理解した。
「いやいや。ないない。ただの雇い主と従業員よ。まあ、確かに仕事ではいつも2人だけだけど。残念だけど、彼に対してそういう気持ちはないわ」
「本当に?」
「……本当に」
そう、と美里は残念そうに言う。
「でも、何となく昔より美里が元気そうに見えたから良かった。就職して1年くらい経った頃だったかな。久々に美里に電話したら、凄い眠そうな声で、全然テンションが上がってこなくて、別人かと思ったことがあったから」
「そんな事あった? まあ、確かに前の会社よりは、気持ち的には今の方がよほどマシかな」
そう言って私が笑うと、加代もつられて笑った。
ホテルには10分もかからずに着いた。車を降りると、「じゃあ、また明日」と言って手を振る。その時に、加代の車の後部座席を見ると、ベビーシートの中で藍那が静かに眠っていた。
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