(4)

 スマホのアラームが鳴っていた。


 目を開けると、私は大きなトリプルベッドのような上に寝ていた。その寝室は十分に広く、大きなガラスの窓がついていて、薄いレースのカーテン越しに外から明るい日差しが入ってくる。


 私はまだボーっとしている頭のまま、枕元のスマホのアラームを止めると、ベッドから下りてその大きな窓に近寄った。


 そこがどこなのか全く分からない。窓の外の風景は、高層ビルが密集して立ち並んでいる大都市だった。それに、私のいる場所も、一体どのくらいの高さなのか分からない程の高層階。窓から見下ろすと、地上がはるか下に見え、車の行き交う姿がまるでミニカーのように小さく見えている。視線を上げていくと、青い海がキラキラと輝いているのが見えた。その周りには、濃い緑色をした小さな島がいくつも見える。その時、遠くに一つの特徴的な形の建物が目についた。ビルの上に船のようなものが乗せてある建物。私は息を呑む。


 そこはシンガポールの街並みに違いないと思った。


 私は、窓に手をついてしばらくその街並みを眺めていた。山らしい山は一切見えず、ビルの向こうに海の水平線がしっかりと見える。あまりの絶景に息を呑んで眺めていると、スマホのアラームが再び鳴って、慌てて我に返った。


 アラームを完全に止めて、部屋の中を見回すと、一つのドアが見えた。私はスリッパを履いてそのノブを開けると、その向こうにはリビングルームが広がっている。どれくらいの広さがあるのか分からないけど、とにかく広いその部屋には、ガラスのテーブルと黒い椅子があり、その向こうに大きな白いソファが置かれていた。テーブルにはピンクのカーネーションのような花が細長い花瓶に飾られている。キッチンも整然としていて、大きな銀色の冷蔵庫がある。その隣は平たんな壁が続いていて、それは大きな収納スペースのようだった。床もきれいにワックスがかけられているようで、散らかっている所もない。


(どうして私はここにいるんだろう?)


 高層マンションのようなその場所に記憶はない。これまでそんな場所に住むことはもちろん、滞在したことすら無かったと思う。


 その時、手にしていたスマホにメールが届いたような電子音が聞こえた。ふと見ると、短い文章が書いてある。


「オフィスに行きます。後でいいから、システムにログインしてきて」


 その相手は覚えていない。その時、部屋の端にあるデスクの上のモバイルパソコンにふと気づいた。それでスマホをテーブルに置くと、私は椅子に座ってそのパソコンを立ち上げた。すぐにログイン画面が映し出され、その「name」欄には、「Kayo」と表示されている。その画面の右下には、世界的に有名な製薬メーカーの社名が記載されていた。


(私が、この会社に勤めてる……)


 私は、イスの背もたれに背中を付けて大きく深呼吸する。そして、部屋の中を改めて見回したが、やはりその場所には全く記憶がない。どうして、私はそこにいるのだろう。立ったまま少し考えていたけれど、考えているうちにお腹が空いていることに気づいた。


(とりあえず、朝ごはん、食べようか)


 私はキッチンにある冷蔵庫に向かって歩いて行く。そのドアを開けると、中には美味しそうなクロワッサンが数個と、ベーコン、レタスが入っていた。私はそれらを冷蔵庫から取り出して、クロワッサンに挟んでいく。壁のように見えた場所はやはり収納棚になっていて、中には様々な種類の皿やグラスが入っている。そこから、ガラスの平皿とコーヒーカップを取り出して、コーヒーメーカーのスイッチを入れると、静かな稼働音を響かせて、ほどなくよい香りが漂ってきた。


 クロワッサンサンドを乗せた皿とコーヒーカップをテーブルに持っていく。大型テレビの電源を入れると、数えきれないほどの番組が流れている。日本の番組もあったが、私はBBCにセットした。ようやく、無音であった部屋の中に、テレビの音が響いていく。ただ、テレビ画面が大きいためなのか、普段より音が大きく聞こえる感じがして、すぐに音量を下げた。


 椅子に座って、クロワッサンサンドを一口食べながら、ふと目の前の棚を見ると、その上に写真が何枚か写真立てに入れられているのに気付いた。私は思わず立ち上がってその写真を見に行く。


 写真には、白衣を着ている何人かの男女に囲まれて、私がその中心に写っていた。後ろには、何かの発表会のようなスクリーンが見えている。


 そこにある誰の顔も分からない。ただ、その写真の後ろに、さっき見たパソコン画面にあった製薬メーカーの社名が見えた。それを見てハッとして、もう一度私はパソコンを立ち上げた。


 パソコンのマイフォルダを開いて行くと、いくつものファイルが整理して保存されていた。適当にクリックしていくうちに、一つのパワーポイントのファイルのタイトルが目についた。そこには記憶にある文字が並んでいた。


 それは、昔やっていた遺伝子研究で使っていた物質。細かい点は分からなかったけど、私の研究を基礎にして、それを実際の医薬品に応用しているようなものだと直感した。しかも、その内容は、間違いなく私の名前で発表されている。私がそれを発見し、まとめ上げたのだと思った。


 ふと見ると、同じフォルダに一つの動画ファイルがあった。クリックすると、何かの学会のような場所が映されている。講演者に少しずつカメラがズームしていくと、それは私だった。私がスクリーンに映し出された資料で、その医薬品の応用技術について英語で発表している。発表が終わってから、私に花束を渡してくれたのは、先ほどの写真に写っていたうちの1人のような気がした。私は花束を受け取ると、笑顔で頭を下げてから、英語でスピーチを始める。


『この技術が、製薬における大きな進歩、ひいては世界の多くの人々の命を救えることに繋がることが私の一番の願いです。チームのメンバーにはどんなに感謝してもしきれません。そして、私を支えてくれた愛する人に、本当にありがとう』


 パチパチパチ——


 会場に響く大きな拍手とともに動画が終わり、再びBBCニュースのキャスターの話す英語が聞こえてきた。彼の英語は聞き取り易い声だった。しかし、その話す内容は、私の中には全く届いてこない。


 その部屋は、本当に静かな場所だった。しかし、ほぼ赤道直下のシンガポールのはずなのに、エアコンが効きすぎているのか、体が凍ってしまいそうなほどに寒い。私は、余りの寒さに両腕で自分の体を抱きしめた。

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