(7)

 静かな部屋の中で、私は茫然と立っていた。


(これは、現実なの……?)


 頭が混乱していた。余りの事に頭がついて行かない。隣に立っている快も同じように黙って立っていた。私は隣にあるベビーカーの方に顔を向ける。そこには、藍那が何も知らずにスヤスヤと眠っていた。


 その時だった。走って来る足音が近づき、私達の後ろでそれが止まった。


「加代!」


 私と快はその声の方を振り向く。そこには、寛が肩で大きく息をして立っていた。


「加代……」


 白いベッドの上に寝かされている人物に寛がゆっくりと近づいていく。窓もない薄暗い静かな部屋。彼は、その腕に触れてから、顔に被せられた白い布を取った。


「うう……」


 寛はその場に膝をついて、嗚咽し始めた。その時、藍那が起きてしまったのか、急に泣き出してしまった。寛は私達の方をハッとしたように振り向く。そして、ゆっくりと彼は立ち上がって、こちらに近づいて来た。


「あなた達のせいだ——」


 俯いたまま静かな声が聞こえた。藍那がギャアギャアと激しく泣き始める。その声はどこか遠い世界から聞こえてくるような気がしてくる。


「あなた達がいなければ、加代はあの場所に行かなかった!」


 寛はそう言うと、ベビーカーから藍那を抱き上げた。まだ彼女は泣いているが、少しだけその泣き声が落ち着いたような気がした。


「もう……帰ってください」


 静かに彼が言ったその声が、心の奥で何度も反響していく。藍那を抱いて、寛は再び加代が横たわるベッドの方を向いた。彼の背中を茫然と見ていた私に、快が声をかける。


「行きましょう」


 そう言って彼は私の視界の端に消えていく。


「大戸さん?」


 もう一度、快の呼ぶ声が聞こえた。すると、全身が急に軽く浮き上がるような感じがして、視界がぼんやりとしてきた。




 その時、誰かが私の体を支えた——。



******



 気が付くと、ベッドに横になっていた。


「あれ……?」


 ゆっくりと辺りを見回す。ベッドの脇のイスに快が座って、こちらを見ている。


「気が付きましたか」


 まだフラフラする頭で思い出していく。天井は無機質な感じで、白い蛍光灯が光っているだけだ。そこは病院に違いない。


「私……どうして」


「大戸さんは、あそこで倒れて、まだその病院にいるんです」


 静かに答える快の言葉で、私は、今までの事が夢ではなかったことに改めて気づかされる。気持ちを抑え切れず、涙が溢れてきた。


「何で……こんな、ことに……」


 うう、と自分の嗚咽する声がその部屋に響いていく。快は何も言わずに、私の様子をただ見守っていたが、しばらくして突然頭を下げた。


「ごめんなさい」


 突然快が謝った。


「どうして……あなたが謝るの」


「この仕事のことで、大戸さんに言っていなかったことがあるんです」


「……言ってなかったこと?」


「この夢を見た人は、その夢の話の事を、僕か又は大切な人に伝えたくなります。僕達のように、直接話を聞く時に録音するのは良いのですが、大切な人でもなく、直接聞いてもいない人が録音した声だけを聞くのは危険なんです。その音声には一種の致命的な『毒』があって、聞いた人には命の危険が起こる。つまり、今度はその聞いた人が夢を見てしまうんです」


「えっ——」


「それもあって、僕はその夢をすぐに文字で起こして、頭の中で想像する。その過程は、一つのお祓いのような意味もあるのだと思ってください。するとその夢の『毒』が完全に抜けて、本人や他の人達に告げても大丈夫なものになるのです。これまでは、大戸さんが文字で起こしたものを本人に伝える前に、いつも僕がそれを読んでいました。だから大丈夫だったんです」


「そんな……」


 ごめんなさい、と彼は再び頭を下げて話を続ける。


「相談者は確かに寛さんでした。だけど、寛さんの夢に加代さんは出てこなかった。それなのに、加代さんが寛さんの音声を聞いてしまったから、『毒』が回ってしまった。そして、今度は加代さんが夢を見た。それは、加代さんの過去の強い後悔を思い起こさせる、別の世界の夢だったんです」


 快は部屋の入口の扉の方を見た。


「だから、藍那ちゃんが出てきませんでした。あの2人の未来の話ならば、今、一番大切にしている筈のあの子が出てこないはずがありません。ですから、加代さんが見た夢は、彼女がキャリアウーマンとして海外に渡り、別の男性と結婚して、海外で暮らしているという世界の話なんです」


 私は快の姿を見ないように、その座っている反対側に顔を向けた。


(バカ……私……)


 快の言う『毒』が彼女に回っていたことは思いもよらなかったが、彼女の夢に違和感があったことは事実だ。加代はその夢に明らかに動揺していたし、彼女はたぶん、それを選択しなかった事を後悔していた。


『その夢は、もしかしたら加代に命の危険があることを知らせているかもしれない』


 そう言って注意を促すこともできた。そうでなくとも、せめて加代が夢を見た事を昨日のうちに快に連絡しておけばよかった。だが、私はそのどちらもしなかった。あのように元気な加代が死ぬなど、微塵も考えていなかったのだ。


 しかしその結果、加代は死んだ。


(私の、せいなんだ……)


 そう思うと、涙が再び溢れてきた。


 その時、「でも」と言う快の声が背中の方から聞こえた。彼は、少しだけ言葉をおいてから続ける。


「加代さんは、おそらくあの夢を望まなかった。大戸さんも、あの時、加代さんから聞いたでしょう? 『その夢は違う。この子と過ごせて良かった』と」


 快ははっきりと確信を持って言った。私は顔は向けずに、彼の言葉だけに耳を傾けていく。


「それに、あの夢の最後に、彼女は『寒い』と言っていました。それは、きっと気温の話ではなくて、その話の内容自体の温かさについて、加代さんなりに感じたところなのだと思います。加代さんは、現実の暮らしと、その夢の暮らしを無意識に比較し、その夢の世界、すなわち藍那ちゃんのいない世界に満足しなかった。今のように、子育てに翻弄され、家庭でも仕事でも不満があったとしても、現実世界の方が良いと。……加代さんはきっと、その夢を見たことで、逆に今の生活に満足し、後悔が消えた。だから、きっと彼女はこの世界で『良かった』と言ったのではないでしょうか」


 私は快の話を聞きながら、次第に彼の方に顔を向けていた。多分、涙でボロボロになっている顔だったと思うが、快の言葉に、「うん」と言って自然と頷いた。彼はそれに笑顔で頷く。


(ごめんね、加代。……でも私、せめてあなたの心だけは救えたのかな?)


 さらに涙が溢れそうになって、慌てて再び快と逆の方を向く。すると、ちょうど夕暮れの西日が窓から差し込んでいて、外はキラキラと輝いていた。

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