-灰色の世界⑥-

 窓の外は強い雨が降り続いていた。


 私はJRで幕張の方から会社に戻る電車に乗っていた。今日はうちの会社で取り扱う水産加工品の輸出商談会に出た帰りだった。中でも、香港の商社がこちらの商品にかなり興味を持ってくれていて、商談は上々だった。


(まだ……何も返って来ない)


 私は自分のスマホの画面を見つめていた。晴彦にメッセージを送っているのだが、昨日から1回も返信がない。


 私と晴彦は、板橋の方にある私が住む借り上げマンションで2年程前から同棲していた。社内でも私達の事は知れ渡っている。「パートナー」が解消し、2年間は別の部署にいたが、今年から再び同じ部署となり、席も隣になると、結婚も近いのではないかと同僚からも囁かれていた。


 2週間程前の事だ。晴彦から急に、「西日本の方にしばらく出張するから」と告げられた。前に彼が取引を開拓した福岡の方の企業に新商品の営業をしてくるらしい。課長や同僚にも、彼からメールでそのように連絡があったようだ。彼が出張で1週間ほど不在にすることはこれまでもあったし、社内でもしばらく出張して戻ってこない社員も珍しくなかった。留守中も、彼とはメッセージや電話でのやり取りをほぼ毎日していたのだが、昨日の夜から電話にも応答せず、メッセージを何度送っても返信がない。私はやや心配になっていた。


 さらに、少し前には上司の城井部長からメールが届いていた。本社に戻ったら、誰にも会わないようにして、すぐに事業本部長の部屋まで来るようにという内容だった。詳しい内容は分からないが、クライアントからのクレームであれば、せめて相手の名前くらいは書きそうなものだ。それとも、クレームでないのなら、急な異動の話か。いずれにせよ、社内でも次の取締役候補と言われる切れ味鋭い部長が、彼の上司にあたる本部長の部屋に人目を避けて呼ぶとは尋常ではない。私は気が重くなり、大きくため息をついて、再び強い雨が降るビル街の風景に目をやった。


 本社に戻ったのは、もう夕方5時に近かった。役員室の入口にいる秘書にその旨を告げると、隣の待合室を案内された。しばらくそこにいると、城井がそこにやって来て、「誰にも会ってないか」とだけ尋ねる。私が頷くと、彼は私を促してその部屋を出て、奥の大きなドアの前に進んでノックした。中から「どうぞ」という返事があり、「失礼します」と言って私達は中に入って行く。中央のテーブルの奥にある広い窓を背にして、真っ白な髪の毛をした高田本部長が、デスクに置かれたパソコンに向かっていた


「ああ、大戸くんだな。帰ったばかりですまんね。まあ、そこに座って」


 城井は、部屋の中央にあるテーブルの前の椅子に私を促し、自分はその隣りに座った。高田はそのまま少しだけキーボードを叩いてから立ち上がって、私の目の前の椅子に深く腰掛ける。


「実はね。君に大事な話があるんだ」


 高田は椅子から体を前に乗り出して、テーブルに肘をついて腕組みした。


「沢井くんの事なんだがね。何か聞いているかい?」


「何か……とは?」


 少しドキッとして尋ねる。高田はじっとこちらを見つめている。そして、「聞いていないのか」と静かに言うと、しばらく黙ってしまった。そして、壁に掛けられたどこかの列車を写した写真を見つめたまま、ゆっくりと話し始めた。


「沢井くんなんだがね……。今日をもって退職した」


「退職……?」


 高田は頷いただけで黙ってこちらを見つめた。思わず彼に尋ねる。


「どうして……辞めたんですか?」


「君は、本当に何も知らなかったのかね」


 じっと見つめる高田に、「はい」とだけ答えると、彼はため息をした。


「彼は、ウチより上位クラスの商社に転職した。しかも、ウチの重要情報を持って。彼はその会社のシンガポール拠点のマネージャーとしてヘッドハンティングされたんだ」


 高田の眼鏡の向こうの大きな瞳が再び私をじっと見つめる。彼の言っている意味がよく分からない。晴彦が転職。しかも海外に……。


「本当に……ですか?」


 精一杯、高田の方を向いてそう尋ねると、彼は城井の方を見て「そうだろう?」と不機嫌そうに同意を求めた。城井もそれに頷いて応える。それを見て、高田は再び私をじっと見つめて言った。


「君たちは、結婚するんじゃなかったのかね?」


 高田が静かに言う。私は答えに窮して俯いてしまった。


「彼が重要な情報を持って逃げるような素振りに気づかなかったのかね。まさか君はそれを見て見ぬふりをしていたんじゃないだろうな」


「そんな事……ありません」


「分かった。もういいよ」


 高田はそう言って立ち上がった。城井もそれを見て慌てて立ち上がり、私も茫然としたままただ彼の後をついて部屋を出た。


 私は晴彦に捨てられた。


 もちろん、それ以来、晴彦からは何の連絡も無かった。同僚たちは私に対して心配する言葉をたくさんかけてくれた。結婚すると思われていた中で、私を置いて消えた晴彦を非難する声がほとんどだった。


 しかし、しばらくするとその雰囲気が急激に変わっていった。晴彦は優秀な人材だった。だからもっと色々な仕事で実力を試したかったのだ。しかし、それを私が反対した。彼に鎖をつけるようにして、彼が自由に仕事に打ち込むのを拒んだ。だから、晴彦は、私から逃げるように海外に出るしか無かったのだと。


 彼が会社にとって大事な人材であったことは事実だろう。それを惜しんだ誰かが言い出したのかもしれないが、その彼がヘッドハンティングされたのは全て私の責任だというのは、全く事実無根だ。しかしその話は、まことしやかに社内に拡散され、1か月もすると、今度はいつの間にか私の方が陰口を叩かれる存在になってしまった。


 私は精神的に参ってしまい、心療内科にも通院し始めたが、なかなか回復せず、自ら城井に退職を申し出た。ただ、流石に城井はその話を信じていなかったので私に同情し、せめて私が働きやすいように、関連会社への出向を配慮してくれた。そこは社員10名程度で主に情報収集の業務を行う会社だったが、はっきり言って誰もが問題を抱えて飛ばされてきたような人たちばかりだった。


 しかし私は、黙ってその仕事をすることで次第に気持ちが楽になってきた。ここではお互いに興味がない。いずれも問題ある人たちばかりだから、それ以上、お互いに干渉しないことは暗黙のルールらしかった。それに「社長」はいるが、定年に近い大人しい男性で、指示も、評価も、反対も何もない。


 そういう生活がしばらく続いていたのだが、ある日突然、体に違和感があった。


(あれ……何か……)


 吐き気が続き、食べ物も喉を通らない。それが悪阻つわりだと気づいたのは、しばらく生理が来ていないことに気づいたからだった。その子は、間違いなく晴彦との子供だ。彼がしばらく家を出ると分かってから、彼は避妊したくないと言いだした。もう、その時が来たんだと。それで私は、完全に彼の言葉をそのまま信じて、それに応じてしまった。


 産婦人科で診察を受けると、既に妊娠3か月だった。私は迷わず産むことを決めた。別に晴彦に責任を取らせようというつもりは毛頭無かった。彼とのことは既に終わった事だ。ただ、自分のお腹の中に宿った新しい命は、間違いなく自分だけのもの。それを大事にしたいという想いだけだった。


 妊娠5か月が過ぎ、お腹の膨らみも分かるようになってきた頃。私は社長に、「実は妊娠していて、入籍もしたので、退職したい」という報告をした。もちろん入籍は嘘だったが、相手のことを詮索されるのも嫌なのでそう伝えた。社長は珍しく感情を表に出して喜んでくれた。孫が産まれるような気分だったのかもしれない。


 それから約1か月後。私はあの病院で、「死産の事実」を告げられたのだ。

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