(7)

 気が付くと、木々の向こうに青い空が見えていた。


 私はハッとして体を起こす。そこは公園の芝生の上だった。慌てて周りを見回すと、少し離れた芝生の上で2人の人間がもみ合いになっている。1人は晴彦で、馬乗りになって腕を振り上げ、もう1人の人間に殴りかかっている。それを必死に避けたり受けたりしているのは、白い装束に紫色の袴を履いた男だ。


「やめて!」


 大声で叫ぶ。すると、強い風が後ろから吹いてきたように思ったが、その先にいた晴彦の体がまるで何かに吹き飛ばされたかのように、宙を舞って地面に落ちた。それを見て、袴の男はさっと起き上がり、私の方に向かって走ってくる。


「美里——」


「快……」


 その名前を呼んだ。彼は快だ。市川快。その名をはっきりと思い出した。


 快は土埃にまみれ、顔にも痣ができている。それでも必死に笑顔を作って、私の手を握った。その手は、しっかりと温かい。


「ごめん、嫌なこと思い出させて。でも……アイツだけは許せなかった」


 下を向いて謝る快の前で、私は首を振る。私は、自分が生きてきた本当の世界のことをようやく思い出した。頭を下げたままの快の姿を見て、私の頬をゆっくりと涙が伝っていく。


「ありがとう。……あなたのおかげで、もう私、全部思い出したわ。これが、間違いなく私の本当の記憶」


 その時だった。快の後ろから、声が響いてきた。


「だからこそ、幸せな世界が欲しいんだろう?」


 快がハッとして後ろを振り向き私の前に立つ。見ると、晴彦が立ちあがり、土で汚れた自分の服を手で払っていた。


「この世界は、美里……君が望んだ世界なんだよ。僕と一緒に幸せな暮らしができる世界。僕達にはお金もある。やりがいのある仕事もある。何の不自由もない、幸せな生活。家族をつくり、笑い合って生きていける世界なんだよ。ここにいる、たくさんの家族たちと同じようにね」


 晴彦は芝生の広場の方を向いた。そこには、はしゃいでいる子供と、それを笑顔で見守っている両親がいる。親子で楽しそうに走り回っている姿も見える。彼らは私達の事が見えていないのか、そこでただ無邪気に笑い合っていた。


「違う!」


 すぐ目の前で快が大声を上げた。


「確かに……こういう世界もあったのかもしれない。だけど、ここにいる美里が生きてきた世界は、こんなに穏やかな世界では無かった。大切だと思っていたお前に裏切られ、それでも一人で子供を産み、育てようとしていた。だけど、そのささやかな夢でさえ叶わなかったんだ! お前にその気持ちが分かる筈がない」


「ハハハ! お前だって、何もできなかったじゃないか」


「そう……確かに僕も、何もできなかった。だけど、僕はまだ、これから美里を救うことができる」


「馬鹿な! 向こうの世界に戻れば、美里は死ぬんだぞ。死期が迫っているからこそ、彼女が望むこの世界に来ることができたんだ。彼女は、この世界と意識を同一化すれば、生きることができる。美里が生きることは、お前の願いなんじゃないのか」


「黙れ!」


 快が聞いたこともないような激しい声を出した。そして、私を守るように大きく両手を広げた。


「お前にだけは、絶対に美里を渡さない。この世界は、偽りの幸せの世界だ! ここにいる美里が生きる世界じゃない」


「フフ……じゃあ、実力で奪うしかないな」


 晴彦は一度そこで屈むと、地面から何かを手に持って、一歩足を踏み出した。その手にしたものが太陽の光の下でキラッと輝く。私は思わず息を呑んだ。何かの短刀のようなものだと思った。


 すると、目の前の快から、小さな声が聞こえてきた。


「美里、頼む。……扉を開けるんだ」


「扉を?」


「そう。君が望むのは、この世界なのか?」


 私はハッとする。快の向こうから、晴彦がニコニコと不気味に笑いながらゆっくりと近づいてくる。その後ろには、楽しそうに遊んでいる親子の姿。子供達の姿。そしてランニングをする大人達。穏やかな休日の公園。その周りにある、木々の緑。空の青さ。太陽の光……。


(違う——)


 この世界は綺麗過ぎる。私の生きていた世界は、もっと、もっと灰色の世界だ。そして、私が本当に望むことは……。


 無意識に、私は一歩足を前に出して、快の白い装束の背中にそっと手をつく。そして、その上に顔を付けた。


「お願い。私を……ここから出して」


 小声でそう言うと、まるで彼の心臓の音が聞こえて来るような気がしてきた。


「ありがとう——」


 快の声が聞こえたが、すぐに「死ね!」という晴彦の声が聞こえて、私は思わず快の背中からその向こうを覗き見た。晴彦が短刀をこちらに向けてすぐ目の前まで迫っている。その瞬間、快は大きく手を振り上げて、それを斜めに振り下ろした。すると目の前の世界に大きな亀裂が入り、その鮮やかな世界が塵のように粉々になっていく。その代わりに現れたのは、真っ暗な世界だった。さっきまで笑っていた親子の姿も、新緑の鮮やかさも、空の青さも、全てが見えなくなってしまう。気づくと、目の前の晴彦の姿も見えない。ただ、その声だけがエコーのように響いてきた。


「ハハハ……それがお前たちの答えなんだな! ならば、美里とともに行けばいい。美里の死は、すぐ目の前に迫っているぞ」


 晴彦の笑い声が響いていく。すると、目の前にいた快が振り返った。


「行こうか」


 彼は微笑してそれだけ言うと、私の手を握った。温かな、柔らかい手。私はしっかりと頷くと、彼と共に歩き出した。

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