(8)

 私は快に手を引かれて、少しずつ歩みを早めていき、いつの間にか走っていた。目の前の快の姿以外、何も見えない暗闇がしばらく続いていたが、気が付くと、視界の右手に僅かな光を伴って見えてきたものがあった。


 暗闇の中に静かに佇んでいるそれは、蒼く光る湖だ。その湖底の方から何かの電灯で照らされているように、その湖面がぼんやりと光っている。


三葉留湖さばるこ——)


 ふとそう思った。そうだ、それに違いない。しかし、そこにはただ湖面が光っているだけで、その周りを取り囲む山も、空も、そこにある筈の太陽や月や星も、何一つとして見えない。しかも、すぐ先にその湖が見えているのに、どれだけ走ってもそこにたどり着けない。本当に前に進んでいるのかどうかすら分からなくなってきたが、晴彦の声が聞こえなくなったことだけは救いだった。


 その時、突然息苦しさを感じ始めた。


「待って……何か、苦しい……」


 私は思わず快の手を放して、闇の中に座り込んだ。その途端、その場に嘔吐してしまう。何度も何度も、胃の奥の方から不快なものがこみ上げてくる。気が付くと、快の手が私の背中を静かに撫でていた。


「美里——」


「ハアハア……私、もう……ダメかも」


 ようやく嘔吐が終わって、咳込みながら言った。両手をそこについているのに意識がフラフラとして、気を抜くとその場に倒れてしまいそうだった。さっきまであんなに走っていたことが信じられないくらい、急激に体が弱っている。


 すると、快は私に背を向けてその場に座り込んだ。意味が分からず、地面に手を突いたまま、その様子を見つめる。


「早く乗って」


 やせ型である彼の細い背中。しかし、真っ白い装束を着ている彼の背中は、まるで大きなベッドのように見えた。


「うん——」


 私はそれにすがるように体を預けていく。すると、快は私の体をしっかりと背負って立ち上がった。そして一歩ずつ、前を向いて進んでいく。背負われてみると、彼の細い背中が信じられないほどに力強く感じられてきた。


 彼の足取りは普通に歩いているように軽々としていて、安心感がある。一体どこにそんな力があったのだろうと不思議に思う。しばらく歩いてから、快が明るい口調で言った。


「美里、少し重くなった?」


(何言ってるのよ……バカ)


 そう思って、彼の背中を叩こうと思ったが、手を動かす力さえ無くなっているのに気付く。その時、快が静かに口を開いた。


「どうして、あの世界から出ちゃったんだよ」


「……だって、快が、死んじゃうって……お母さんが」


「母さんが? ……そうか。母さんから、それを……。全部、分かっていたんだ」


 そして快は一度立ち止まり、大きく深呼吸をした。


「本当に、バカだ。美里は」


 彼は怒ったようにそれだけ言ってから、私の体を背負い直すと、黙って再び歩き始める。私は、彼の首元に頭を乗せながら、視界に見える三葉留湖の風景だけをぼんやりと眺めていた。ただ、それはさっきから全く変わらない風景だ。次第に目を開けているのも億劫になり、瞼が閉じる時間も長くなっていく。自分の体が弱り切っていることがはっきりと分かるような気がした。それでも、目を開けた時に見えるその三葉留湖の風景で、私はハッとして意識を取り戻していた。


「もう、元の世界の近くまで来ているんだと思う。きっと、美里が苦しんでいるのは、元の世界に近づいているからだよ。逆に、僕が美里を背負って歩けるほどに元気になってきたのもきっと同じ理由」


「うん……」


 私は元の世界に戻れば、きっと死ぬだろう。命の終わり。そんなことは考えたことも無かった。自分のこれまでの無数の選択の末に、私は自分の手でその人生に終止符を打つという結末に向かっている。それはもうすぐ目の前だ。


(私の人生は、一体、何だったのだろう?)


 生きることは幸せな事だと思っていた。家族の愛情を受けて育ち、友達を作って、、遊んで、勉強して、働いて……。もちろん、その中には多少の辛い思い出もあったが、自分自身で、或いは誰かに支えられながら、全部乗り越えてきた。そして再び幸せな人生が続いていく。乗り越えられない壁なんてないのだと思っていた。


 しかし、私は突然、深く暗い谷底に落ちてしまった。そこから見上げる青い空は遥か遠い。誰かが助けようとする声は、もう私には届かない。それに私自身にも、そこから這い上がろうとする気力すら無かった。そして私の目の前には、優しい刃がある。


 怖いものだと思っていた死は、意外にもあっけなく選択できる。それよりも、今の私にとっては、生きることの方がずっと重い。


(もう……終わりなのね)


 快の背中に背負われながら、瞼がゆっくりと閉じていく。今度こそ、それは永遠の暗闇になるのだ。


(さよなら——)


 その時だった。風が私の髪をさあっと撫でていく感覚があった。


「見て……美里」


 耳元の快の言葉で、私は少しだけ瞼を開けた。


(えっ——)


 私のぼんやりとした視界に、はっきりと光の姿が見えた。次第に焦点が合っていく。それは、三葉留湖に映し出された月の光だ。さっきまでとは違って、はっきりとしたその輝きが見える。それだけではない。そこには、湖を取り囲むように佇む山の稜線と、木々の影と、そして真っ暗な空には、輝く満月と、数えきれないほどの星の海が広がっている。


 私は次第に目を見開いていく。その美しい風景には記憶があった。


(そうだ、あの時……)


 私が大学時代に快の家に泊まりに行った時だった。地域の人たちへのインタビューが終わり、帰る日の前の晩に、快が夜の三葉留湖を見に行こうと言い出した。その時に見た、山と、月と、その光を受けて輝く湖。暗闇の中で、静かに虫の音が響き渡る、ありのままの自然の姿だった。


 今、その時と同じ風景が目の前にある。あの時のように、私と、快との前に。


「ごめん、快……降ろして」


 私が囁くと、彼は止まって、そこにあった大きな木の根元に私を降ろした。その木に寄り掛かるようにして三葉留湖を見渡す。夜空の大きな満月と満天の星の光を受けて、湖面がキラキラと輝いている。湖の周囲を取り囲む山でさえ、その光で輝いて見えるように思えた。


 快が私の隣に座り込んだのが分かったが、体が重くて顔も向けられない。木に寄り掛かっていても体が支えられないような感じがした。


「ここは、元の世界との狭間だと思う。今日が終われば、きっと元の世界に戻る。……あと少しだけ」


 快の声が聞こえた時には、私は無意識に彼の肩に頭を乗せ、体を寄せていた。細く、頼りない筈の彼のなで肩も、今は安心してそこに自分の身を預けることができる気がする。


「綺麗だね」


 快が静かに呟いた言葉に、私はハッとした。


(そうだ——)


 私の中に突然、一つの記憶が蘇ってきた。


「どうして、忘れていたんだろう……」


 えっ、と快が私の方を向いた。


「ここで、あなたから……告白されたこと」


「美里——」


 快がそっと私の背中にその腕を回してきたような気がした。


 円い湖面に映し出されて輝く月と、無数の星。それは、まるで幻想世界の中の、決して人間が作ることができない舞台装置だった。あの時、私達は長い間、そこに2人だけで隣り合って座り、その世界に浸っていたのだ。その舞台の上で、快は突然、口を開いた。


 はっきりと、「好きなんだ」と。


 私はその時、初めて気づいた。大学で出会ってから、ワンゲルの仲間として快とはたくさんの時間を過ごしていた。何をするにしても、彼がその中にいるだけで、不思議と私も楽しかった。特に格好いい訳でもないし、服のセンスも良くない。運動もできないし、面白い話ができる訳でもない。しかしその存在が、その優しさが、彼の醸し出す全ての人間性が、私にとっては心地よかった。たくさん甘えて、何でも気軽に話せる関係だった。


 そう。私も間違いなく、快の事が好きだったのだ。


 私達は、あの夏から卒業までの半年間、付き合っていた。しかし、その関係は卒業を契機に少しずつ変わって行く。快はあの神社の仕事を継ぎ、私は東京で就職することになり遠距離恋愛になった。私は指導担当だった晴彦の下で、全力で仕事に打ち込んでいく。まだ初めの頃は、快の神社やこの三葉留湖にも度々遊びに来ていたが、やがて仕事が忙しくなるにつれて、頻度が減っていく。それと反比例するように、私の目には、快のような自由な仕事が羨ましく映るようになってきた。そしてある時、「しばらく一人でいたい」と言ってしまった。それ以降、私は快と連絡を取らなくなり、一緒に過ごす時間の長かった晴彦に惹かれて行った。


「連絡を取らなくなってしばらく経った頃だった。僕が仕事で東京の方に行った時、美里の会社の近くを偶然通りかかったんだ。その時僕は、君とあの男が楽しそうに歩いている姿を見てしまった。……それで僕は、もう諦めようと思った」


「ごめんなさい——」


「ううん。僕がちゃんと美里の気持ちを考えてあげれば良かったんだ。そして、自分の気持ちをしっかり伝えるべきだった。君が今の仕事に満足できるまで、僕は待っているって」


 彼の言葉に私はそっと頷く。私は本当に目の前の自分の事しか見えていなかった。そして、そのすぐ傍にいた晴彦を選んでしまった。仕事も、プライベートも、彼となら全部うまくやれると勘違いしていたのだ。


「美里と会わなくなってからも、よく夜の三葉留湖に来ていたんだ。そこで美里と一緒に過ごしたことを思い出して。大きな月と、満天の星空と、それに輝く湖を、2人だけで見た記憶を、ずっと心の中で思い出していた」


 そう、それは私も同じだ。三葉留湖は、私たちの大切な思い出の場所だったのだ。


 だからこそ、その思い出を私の胸の中に永遠にしまっておくために、そこを私の最後の場所に選んだ。しかし、その最後の瞬間に、その場所で快は私を見つけ、彼は私を救うために、自分の命が犠牲になると分かった上で、こちらの世界に連れて来てくれたのだ。


「良かった……。最後にまた、あなたと2人で、この景色を見ることができて」


 フフと笑って、快の体に一層寄り掛かる。辺りは月の光が湖面に降り注ぐのが見える程の暗闇だ。私と快だけが、その風景の中にいる。この幸せが永遠であってほしい。しかし、それは絶対に実現できない願いだ。


 快の体の温かさがジンジンと伝わっている。しかしそれとは裏腹に、私の体の感覚が次第に失われていくような気がした。視界も暗くなっていく。それは月の光が弱くなったせいではない。私の体の限界だ。


「ダメだよ」


 隣で快が静かに言った。えっ、と思わず彼の方をゆっくりと向く。その瞬間、彼の体が私の体を抱きしめた。


「快……」


「ごめん……。でも、美里が死ぬなんて駄目だ。そんなの、酷すぎる」


「でも私は、自分で薬を飲んだ。……それは、自分の責任」


 私の顔のすぐ隣で彼が首を振るのが分かった。


「駄目だ! 美里が死ぬなんて、絶対に駄目なんだ!」


 快の体が小刻みに揺れる。彼は泣いている。私もいつの間にか、自分の頬も濡れていたのに気付いた。彼の細い背中に、私も精一杯、自分の腕を回していく。


「大丈夫。……お母さんが言ってたよ」


「母さんが……?」


「うん。……私は快に、私が望む未来の夢を、きっと話しているって。だからこそ、あなたは必死になって、私を向こうの世界に連れて行った。……だからね。元の世界に戻ったら、その話を聞かせて」


「でも……」


「大丈夫。……私が生きていた世界は、灰色の世界。私はあの晴彦の世界に留まりそうになったけど、それを私は選ばなかった。それ以外には、私が望む世界は、現在の世界には無いはず。……だから、きっと、私の望みは未来にある。そして、大好きな、あなたにその話を……」


 私はそこで再び咳込んだ。快が慌てて私の背中を撫でていく。しかし、もうその感覚さえほとんど分からない。


「お願い……。顔を……見せて」


 私は無意識に言うと、快は自分の腕を枕に私の頭を支えて横にした。彼は、痩せた顔の優しい瞳が、真っすぐに私の顔を見下ろしている。


「美里——」


 快の顔が少しずつ近づいてきた。そして、私の視界が彼の顔で覆われると、私の唇には、確かな温かい感触が広がっていく。長い時間だった。再び彼の顔が見えた時、私はその幸せを伝えるように、精一杯の笑顔で応えた。快も、涙で潤んだ瞳のまま笑顔で頷く。


 その時、どこからか不思議な光が現れた。それは蛍のように空中を漂っていると思ったのだが、それが地面の方から次々に湧き上がるように現れていく。その光が私達の体を包んでいく。


「時間だ——」


 快が呟くように言う。それがこの世界の出口なのだ。光の粒が次々に空に舞い上がっていくその様子は、正に幻想世界だった。快の腕に抱かれた私からは、その光がまるで暗闇に満天の星空を創り上げていくように錯覚する。


 手足の感覚は既にない。ただ、確かなのは、頬を流れる温かな感覚だけだった。

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