-透明な記憶②-

 鳥のさえずりが聞こえてきた。


 ゆっくりと目を開ける。目の前に緑色の芝生が広がっていて、その周りには木々の緑が青々と広がっている。


(私は——)


 そこは木製のベンチの上だった。私はそこに座って、いつの間にか少しウトウトしていたようだ。芝生では、たくさんの大人と子供がいて、ボールや縄跳びなどで、思い思いに遊んでいる。子供たちが大声で笑ったり叫んだりしている声が聞こえる。その周りの遊歩道では、ランニングやウォーキングをしている人達も見えた。


 上を見上げると、木々の葉が生い茂り、そこから木漏れ日が注いでいる。その時、静かに後ろから風が吹いて、被っていた麦わら帽子が飛んだ。私は慌ててベンチから立ち上がり、帽子の行方を追う。帽子は公園の芝生の上にゆっくりと落ちた。すると、私の目の前で1人の人物がその帽子を拾い上げた。


「美里。ここにいたの?」


 その相手から、声を掛けられてハッとした。そこには、ランニングウエア姿で、息を上げながら立っている長身の男性がいた。


「ああ……晴彦」


「はい、これ」


 そう言って私の前に立つと、私の頭の上に麦わら帽子を乗せた。


「あっ……ありがとう」


 私は彼を見上げる。彼は長身で、確か身長が180センチ以上あった筈だ。私を見て彼はニコッと笑う。


「どこに行ってたんだよ? スーパーまで買い物に行くってフラっと出かけた割に、何時間も経っても戻ってこないから」


「ああ……そうだった。ごめんなさい」


 振り返ったベンチの上に、私がよく使っている紺色のエコバッグが置いてあった。近くのスーパーで食料品を買って帰る所だった筈だが、どうしてベンチに座っていたのだろう。


 私はベンチの方に戻ってそのバッグを取ろうとした。すると急にめまいがして、その椅子に手を突いた。後ろから肩の辺りを支える手を感じる。


「美里、大丈夫?」


 晴彦の声を聞きながら、私はそのベンチに座り込んだ。何となくフラフラとする感じがする。


「もう少し、休んでいこうか」


 彼はそう言って、私の隣に座った。俯いた私の視線に、彼の左手が見える。その薬指に、銀色の細い指輪があり、そこに小さな花のような形が作られている。ふと、自分の左手を見ると、その左手にも同じような指輪がある。私はその手を自分の顔の前まで近づけて見つめた。


「それ、いい指輪だよね。美里のセンスが光ってると思う」


 隣から晴彦が言う。


「なかなかデザインの意見が合わなかったけど、結局、最後に決めたのは美里だった。でも、それで正解」


「うん……」


 私はその時の事を思い出す。都内の専門店まで何度も通ったのだが、なかなか意見が合わなかった。それで少しだけ険悪になった事もあったが、一番最初のイメージに戻って、そのデザインに決めたのだ。


「大丈夫?」


 横から彼の声が聞こえてきた。私は正面を向いたまま小さく頷いた。広場では、相変わらず子供がはしゃぐような声が聞こえている。


 ふと、頬を何かが伝う感じがした。


 私は慌てて指で目をこする。そこに湿った感触がはっきりと残っている。晴彦はそれを見て、ポケットから紺色のハンカチを取り出すと、私の頬を拭いた。


「美里……大丈夫だからね」


「うん——」


「本当に美里は辛かったと思う。だけど、もうそれは忘れないといけない。またきっと、僕達には機会が巡って来るから」


 彼の言葉に頷きながら、涙を拭いて行く。


 私が流産したのは、つい2週間程前だ。妊娠4か月の頃だった。胎児の心拍が確認でき、悪阻の症状も少し落ち着いてきたと思っていた矢先だった。初めての妊娠の喜びは、たちまち悲しみに変わっていく。妊娠するということ、そしてそれを出産まで繋げることが決して簡単なことではないということを身をもって知った。


「会社だって、ちゃんと配慮してくれてるから。ウチの会社は、同じクラスの商社の中でも、特に女性活躍に凄い力を入れてるからね。まだしばらく在宅勤務でも全然問題ないし、むしろ美里は頑張り過ぎくらいだから。中野課長もこの前、美里の提案書の出来の良さを凄い褒めてたよ」 


「うん……ありがとう」


 そう答えると、晴彦はそっと笑って、私の髪を撫でた。晴彦は、私が新卒で就職した商社の『パートナー』、いわば指導役だった。彼は私より4つ年上で、今では中堅社員の中でもかなり仕事ができると評価されている。パートナーだった入社後2年間で、私は夜遅くまで彼と共に様々な仕事をした。長い時間を共に過ごしているうちに、気が付いたら彼が一番身近な存在になっていた。パートナーが終わる頃には、既に彼と同棲し始め、そこから数年経った1年ほど前に、私達は結婚したのだった。


 彼は自分の方に私を抱き寄せる。私は彼の胸板を頭の後ろに感じながら、その安心感に浸っていた。


「私ね……。何か、夢を見ていたみたい」


 公園にいる人々の姿を遠目に身ながら口を開いた。


「どんな夢?」


「よく分からないんだけど……神主みたいな人がいてね。その人に連れられて、色んな人の話を聞きに行くの。そして、その聞いた話をメモして、それを私達が話してあげたら、みんな喜ぶのよ」


「ハハハ……何それ。全然意味分からないね。美里って、そういうスピリチュアル系って好きだったっけ?」


「ううん。そんな事ないんだけど……。確かに、変な夢ね」


 夢を見て目が覚めた時、普通なら瞬間的には記憶に残っているが、すぐにその内容はあやふやなものになる。私が見ていた夢もきっとそういうものなのだろう。話題を変えようとして無意識に、自分で要点だけを伝えようとしたが、確かに改めて自分で口に出してみても意味が分からない。


「まあでも……そういうスピリチュアルな場所に行ってみるのもたまにはいいかもしれないね。僕もあんまり神社とか寺とか行かない方だから。田舎の方に行ったら空気も美味しいだろうし、気分もスッキリするかもね」


「ええ……そうね」


 私は空を見上げた。そこには雲一つない青空が広がっている。私は目を閉じて深呼吸すると、ゆっくりと立ち上がった。


「ありがとう。もう、大丈夫だから。さあ、帰りましょう」


 隣で晴彦も頷いて立ち上がる。背の高い彼が、私の紺色のエコバッグを持ち上げた。 


 その時、私の少し先にコロコロとボールが転がってきた。青色のビニール製のボールだ。私はそこに近寄り、体を屈めてそのボールを拾い上げる。すると、私から2メートル程離れた先に、1人の男の子が立っていた。


「それ……僕のボール」


 その子はそこから私が持ったボールを指差して小声で言った。まだ小学校3、4年生くらいの子だろうか。知らない大人と話すのが恥ずかしそうに、俯いたままそこにいる。慌ててその子に近づいて、体を屈めて笑顔でその子の前にボールを差し出した


「はい、どうぞ」


「ありがとう。お姉ちゃん」


 私が笑顔を見せると、その子は私を見上げて小声で言った。


「ねえ、お姉ちゃん。……僕のこと、分からないの?」


「えっ——」


 誰だろう。白地にパンダの絵が書かれた地味なTシャツに短パンの子供。その顔をもう一度見つめるが、やはり記憶にない。すると、その子が続けた。


「お姉ちゃんのいるところは、ここじゃないよ」


「えっ……どういうこと?」


「ここはただ、穏やかで、そして裏切りと欺瞞でできた世界だから」


 その言葉にハッとする。その瞬間だった。後ろから近づいてくる足音に振り返ると、晴彦の長身の体がその子の小さな体を芝生の上に押し倒した。


「な、何やってるの!」


 思わず叫んで彼の腕にすがりつく。しかし驚いてすぐに手を放した。彼の腕が信じられないほどに冷たかったのだ。彼はただ、鬼のような形相でその男の子の体を押さえつけて、首を絞めようとしている。


「やめて!」


「美里に近づくな! 死にぞこないのくせに。もう少しで、美里は——」


 さっきまでとは別人のような晴彦の様子に一瞬で背筋が凍った。彼は全く私の方を見ることなく、その男の子の体を押さえつけていく。男の子は顔が赤くなり苦しそうな表情だ。その時、彼の後ろに私の持っていたエコバッグが置いてあるのに気付いた。中には南瓜と1.5リットルのペットボトルがある。私はそれを手に持つと、後ろから勢いをつけて、その中身ごと彼の頭に思い切り投げつけた。


「イテエ!」


 彼は叫んで、芝生の上に横に倒れた。その瞬間、私はその子を抱き上げて必死に走り、彼から少し離れた場所でその子を地面に降ろす。そして、両手を目一杯広げてその子を守るように彼の前に立った。


「何なの! あんた正気? 子供相手に、一体何やっているの!」


「子供じゃない……そいつは」


 晴彦が頭を押さえて睨んでくる。その時、後ろからそっと私の手を誰かに握られた。不思議と、温かな、懐かしいその手。


「そう——僕は、子供じゃない。美里を連れ戻しに来たんだ」


 その声の方を振り向こうとすると、急に眩しい光に包まれた。

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