-透明な記憶①-

 温かな陽射しの感覚があった。


 少しずつ瞼を開けていく。ぼんやりとした視界に、その風景が見えてきた。リビングダイニングの壁側の大型のテレビの前に、ガラスのテーブルがあり、その上に茶色の木製のカップが置かれている。中には何かの液体が入っているのが見えた。


 体を起こすと、隣に大きなグレーのクッションが置いてあった。そこにもたれかかって寝てしまっていたらしい。やや頭が痛く、右手で思わず頭を押さえる。すると、右側の視界が明るくなってきた。


 思わずそちらの方を振り向くと、大きな窓の向こうに、青々とした空が見えた。私は立ち上がり、窓際に歩いていく。見上げた空には僅かに雲が出ているが、ほとんど晴れている。陽射しの眩しさに思わず手をかざした。


(温かい——)


 体に温かな感触が広がっていく。ようやく体が眠気から覚めていくような感じがした。私はそこで大きく深呼吸する。


 改めて窓の外の様子を見ると、窓の外に1台の黒いワゴン車が停められていた。その向こうはすぐに細い私道のような道路で、向かいにも建売住宅のような同じような家が見える。


「おっ。起きたか?」


 急に後ろから声を掛けられて振り向いた。


「ああ……壮太」


 彼は、キッチンに行き、食器棚からカップを取り出して、ティーポットにお湯を注いだ。


「どうだ? まだ具合悪いのか?」


 そう言われてみると、やや体が重い気がする。ただ、さっきまで寝ていたためなのか、具合が悪いとまでは言えないように感じた。


「ううん……大丈夫」


 それだけ答えると、ソファに座り直した。やや硬いそのソファに座り、テーブルの上の木製カップに口を付けた。中身はハーブティーのようだ。


 何気なく正面に視線を向けた時、そこにあるテレビの隣に置いてあった写真立てに気づいた。そこには私の結婚式の二次会の時に撮った写真が入っている。壮太は、私より1つ上の大学の先輩だ。私が彼と付き合い始めたのは大学3年生の時の事だった。私が大学4年の就職活動の時期に、彼の二股が発覚して一度別れたが、私が就職してからしばらくして、彼から連絡が来たのをきっかけに、再び付き合い始めたのだった。それから数年を経て、1年程前に結婚した。


 私はコップをテーブルに置いて、テレビの近くまでくると、その写真立てを手にした。写真の中の壮太とその隣の私は、その周りのたくさんの人々に囲まれている。壮太は顔の彫りの深い精悍な顔立ちをしている上に、何かとセンスも良かったので、昔から女子には特に人気があった。その上、話も面白く、男子の中でも一目置かれる存在で、常に皆の中心にいた。だから、その写真にもたくさんの人が写っている。


 すると、後ろからカップを持った壮太が近づいて来て、その様子を覗き込んだ。


「あの二次会の時は、俺も騒ぎ過ぎたなあ。この写真の後、どうなったかほとんど記憶に無いんだよな」


 ハハハ、と笑いながら彼はソファに戻ってそこに座った。私はその時のことを思い出そうとした。しかし、なぜかその時の記憶が曖昧だ。


「あっ、そうだ。そろそろ出かけるから。夜は適当に食べといてよ」


 えっ、と思って彼の方を振り向く。彼はこちらに目もくれずにカップに口を付けていた。


「またなの?」


「仕方ねえだろ。これだって仕事みたいなもんだから」


 彼はシステムエンジニアであるが、営業関係の付き合いが多く、平日はもちろん、土日も構わず不在にすることが多い。特に最近ではその頻度も多くなっていた。


「あのさ……。私、少し具合悪いんだけど」


「なんだよ。そんなこと言われても……困るんだよな。付き合いなんだよ」


「本当に、そうなの?」


 じっと彼の顔を見つめた。


「……どういう意味だよ」

 

 彼はそれだけ言うと視線を逸らせてカップの中身を飲み干して、立ち上がってそれをキッチンの方に持って行った。


「とにかくもう行くから。じゃあな」


 それだけ言うと、彼は不機嫌そうに部屋を出て行った。


 彼が出て行くと、リビングに静寂が戻る。私は茫然とその場に立ち尽くしていたが、先ほどの写真立ての前につかつかと歩いていく。そして、その写真立てを手にすると、それを思い切り振り上げて床に落とした。


 ガシャン——!


 大きな音が響いて、写真立てにはめられていたガラスが粉々になった。ハアハアと肩で大きく息をする。


 この結婚は間違っていた。彼は浮気をしている。最近、あまりに家を不在にすることが多いので、少し前に、調査会社に依頼して、彼の行動を調べてもらっていた。すると、確かに仕事上の付き合いのような飲み会もあったのだが、ほとんどは合コンに行っていたり、女性とホテルに入って行く姿も証拠写真に残されていた。彼は、大学時代に私に二股をかけた時から全く変わっていないのだ。


「どうして……」


 うう、と私は床に座り込んでしまった。手で顔を覆ってしばらく嗚咽する。彼が憎いというよりも、自分自身の愚かさがただ情けなかった。彼の見た目や他人からの人気ばかりに惹かれて、彼と生きる道を選んでしまった。


(……片付けなきゃ)


 しばらく嗚咽してからようやく我に返ると、近くに置いていたラックから古新聞を取り出して広げ、そこに飛び散ったガラスを拾い上げた。その時、その写真の後ろに、もう一枚の写真があるのに気付いた。不思議に思って、そっとその写真を取り上げる。


 それは学生時代の写真のようだった。ワンゲルのメンバーで、カヤックに行った時の写真だ。加代と何人かのメンバーの姿がそこに写っている。


「あれ——?」


 私の後ろの方に立っている人間。それは、壮太と違って体も細く弱々しい感じではあるが、こちらを見て楽しそうに笑っている男だ。彼は、誰だったのだろうか。


「快……?」


 その名前をそっと呟いた。すると、私の頭の中に、彼の姿がはっきりとした姿で浮かんできた。そうだ。私は彼を知っている。いや、彼と一緒に仕事をしていたのではなかったか。彼の神社の仕事で、人間の心を救う仕事だ。私はその仕事を続けたかった。しかし、快はその仕事をしばらく休もうと連絡してきた。それは、どうして……?


 思わずハッとして立ち上がる。


(ここじゃない!)


 そうだ。瀕死の状態の快の命を救うために、私と快は、本当の世界に戻らなければならなかった。私は壮太とは結婚していない。彼とは、大学4年生の就活中に二股をかけられ、何度か向こうから連絡してきたのだが、私は二度と彼には会わなかった。だから、この世界は私達の世界ではない。早く本当の世界に戻らなければならない。


 急いでリビングの引き戸を開けて廊下に出た。目の前のドアを開けると、そこはトイレだ。廊下の奥の方の引き戸を開けると、その先は脱衣所で、その向こうが浴室だった。そこにあるのは、普通の新築の一戸建ての家だ。


(どうやって、ここから出ればいいの?)


 とりあえず、外に出てみようと思った。再び廊下に戻り、玄関のドアを開ける。その時だった。ドアノブから手を放そうとした私は、ドキッとして慌ててその手に力を入れた。


 ドアの先は、真っ暗な世界が広がっていた。しばらく見ていたが、ただ暗闇が広がっているだけで、その先がどうなっているのか見当もつかない。それは奈落の底に落ちていくような深い穴のような感じがした。


 その時だった。


(あれは——)


 よく見ると、その暗闇の少し向こうに、ぼんやりと何かが見えている。小さな、丸く、蒼く光る場所。その風景には見覚えがあった。そして、そのほとりに、誰かが仰向けに寝転んでいるように見えた。


(三葉留湖……。それに、快だ!)


 そう思った瞬間、私は夢中でその暗闇に一歩足を踏み出した。すると、体が浮き上がるような感じがした。


 いや、違う。それはただ、真っ逆さまに落ちているのだとすぐに気づいた。



******



 私は固く目を閉じていた。ずっと落ち続けているような感じがしたが、それが次には浮いたような感じに変わり、やがていつの間にか体が安定し、何かにしがみついているような気がした。


 ゆっくりと目を開けてみる。体が小刻みに揺れている。アパートのような建物と薄暗い街灯が目に入った。


「あれ……私……」


 頭がガンガンとしている。とにかく気持ちが悪い。大きな声を出すと吐いてしまいそうな気がした。


「全く……飲みすぎだよ」


 すぐ近くで聞き覚えのある誰かの声が聞こえる。声は怒っているように感じた。


「加代も優美も飲みすぎだ。あいつら、僕の話を全く聞いてない。今日は僕も飲み会だったから行けないって言ったのに、車で迎えに来いなんて、無理に決まってる。勝手に電話も切って、全然話を聞いてないんだから」


 うん、と私は呟く。私は誰かに背負われている。どうして私が背負われているのか、よく分からない。何時なのかも分からない暗闇の中を、誰かに背負われたまま、ゆっくりと、しかし一歩ずつ前に進んでいる。


「快……?」


 私は精一杯の声で言った。


「どうして……あなたが……」


 私は無意識に口を開いた。視界には、飾り気のない短髪で、細身の体にヨレヨレのシャツを着て、しかし精一杯私を背負っている人物が見える。彼は何も答えない。ただ、そのハアハアという息遣いだけが顔のすぐ近くで聞こえている。私はどちらかというと小柄で体重もそこまで重くはないはずだが、快のような細身の人間が背負って歩くことは、簡単なことであるとは思えなかった。


 ただ、細身で頼りないはずのその背中が、今はたまらなく心地良いことだけは確かだ。


「あのさ、美里——」


 快が何か言ったような気がしたが、その声ははっきりと聞こえない。私は彼の背中に顔をしっかりと押し付け、そっと目を閉じた。

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