(6)

 時間だけが残酷に過ぎていく。少し前に気づいたが、建物の横に開いた窓から見える外の景色は、知らぬ間に真っ暗になっていた。私が夢を見ていたのは、どうやら相当長い時間だったらしい。


 私は快の布団の隣に座り、彼の手をしっかりと握っていた。その手は、辛うじて温もりを感じるが、それは明らかに弱々しく、その瞼は相変わらず固く閉ざされている。白い装束を着た胸の辺りが僅かに上下していることだけが、まだ彼が生きていることを示しているが、それすらいつまで続くか分からない。


 涼子は、祭壇の前に正座して、さっきから祈りをささげている。自分の精神を集中させ、私達をできる限り元の世界に近い場所に送り届けるためだと言っていた。蛍光灯の明かりの下で、時々、彼女が榊の枝を振る音だけが聞こえている。その様子を、彼女の横に寝かされている快のすぐ傍から、ただ見守っていた。


 ようやく涼子の動きが止まった。彼女は正座したまま大きく深呼吸してから、私の方に体を向ける。


「あなたの見た夢の話から、何となく近い世界の場所は分かったような気がします。ただ、確実だとは言えません」


「そう、なんですか——」


「私達は別の世界に移動すると、すぐにそこで生きる自分と意識を同一化させようとします。その世界が、あなたにとって心地よいと思える世界なら尚更です。だから、元の世界ではないことに早く気づかないと、その世界から出ることが難しくなってしまう」


「そうすると、快は……」


 尋ねると、涼子は真面目な顔をして頷いたが、すぐに首を振った。


「大丈夫ですよ。あなたに本当の世界に戻りたいと思う強い気持ちがあれば、正しい道に進むことができます。それに、本当の世界に近くなればなるほど、快も生命力を取り戻してくれるでしょう。そうすれば快も正しい道に導いてくれます」


 私は快の姿を見下ろした。固く瞼を閉じている快が、すぐに元気になるとは信じがたいが、今はそれを信じるしかない。それまでは私が、快と私自身を正しい道に導くのだ。そう思って、快の手をギュッと握る。すると、横から涼子の声が聞こえた。


「美里さん。異なる世界に行ってしまうと、その世界で生きる自分と意識が同一化すると言いました。それはつまり……あなた達の世界に戻ったら、この世界での記憶は思い出せなくなるということなんです」


「えっ……。それじゃ、快は、お母さんのこと……」


「ええ、忘れてしまうでしょう。それにあなたがこの世界で過ごした記憶もね。……だけどそれでいいんです。本来であれば、重なることのない世界なんですから。それに、あの子の記憶の中にいる私の方が、きっと若くて綺麗でしょうからね」


 涼子はそう言って笑顔を見せた。しかし、しばらくしてその笑顔を消すと、静かに言った。


「たぶん、人間は皆、何かの役割がある筈なんです」


「役割?」


「亡くなった母がよく言っていました。その世界の中で自分が果たすべき役割、すなわち居場所、と言ってもいいかもしれません。それは、世界全体から見たら本当にごく僅かなものでしょう。私には長い間、その役割が分かりませんでした。快と、夫と、母を失った絶望の中で、何度も死んでしまおうと思いました。……でも、この仕事でたくさんの人達の心を救い、たくさんの感謝を受けて、逆にそれらの人達に私の心を救ってもらった。そして今、快と、あなたの役に立つこともできる。たぶんこれは、私の大事な役割だったんです」


 彼女は榊の枝を手にして、祭壇の方を見上げる。


「人間の人生は、死ぬまで選択の繰り返しです。ですが、きっとどこかで、自分の本当の役割、居場所を見つけることができると思います。……だから、美里さん。あなたもきっと、本当の世界で自分の居場所を見つけることができますよ」


 自分の役割、居場所なんて、考えたことも無かった。とにかく働いて、お金を稼ぎ、美味しいものを食べ、新しい服を買って、好きな事をして楽しんで、そしてまた働いて……。もちろん、その間に誰かと出会って、結婚して、子供を産んで、といったイベントもあるかもしれない。いずれにせよ、そうしたありふれた日々の繰り返しが続いて行くだけだと思っていた。しかし、そのありふれた日々さえ、私の前にはおそらく残されていない。


「でも、私にはもう、その居場所は……」


 呟くようにそこで言葉に詰まってしまうと、涼子は身を乗り出して言った。


「美里さん。思い出してください。あの高校生が語った、未来の話のことを。過去の選択でたくさんの世界が生まれるように、私達のこれからの選択で、無数の未来を思い描くこともできます。大切な人と共に描きたいと思う未来があれば、そして、大切な人がそれに応えたら、人間には信じられないほどの生命力が蘇る」


「でも、それが……どうしたと?」


「あなたの居場所は、意外に近い所にあるかもしれませんよ」


 えっ、と彼女の顔を見つめると、彼女は笑顔になって答えた。


「あなたも未来の世界を見た。そして、その世界のことを、誰かに……いいえ、快に話しているんじゃないでしょうか」


 ハッと息を呑んだ。


「私が、快に——?」


「あなたは睡眠薬で自殺を図ろうとした。でもその前に未来の世界を見て、それを快に話したんじゃないかしら? だからそれを聞いた快は、急いであなたの所にやって来たが、既にあなたは瀕死の状況だった。……それで、やむなく快はあなたをこの世界に連れて来た」


「でも……でも、分かりません。大学時代ならともかく、もう卒業して何年か経っていたし……私がどうして快に?」


 静かに涼子が頷いて続ける。


「そうですね。本当の所はわかりません。……だけどきっと、あなたの命を救うことができるのは、快だと思いますよ」


「そう、なんでしょうか……」


「美里さんは、どうして快に後悔が無かったと思いますか?」


 えっ、と思った。確かに、死に瀕した快から、その望む世界の話を聞こうとした涼子に、快は何も語らなかったという。つまり、後悔が無かったということだ。その理由は全く分からない。私が黙っていると涼子は笑顔で言った。


「それはつまり……この世界が、ある意味で快も望む世界だったのかもしれません」


「この世界が?」


「ええ。つまり、あなたと一緒に、この仕事をするということですね」


 ハッと息を呑んだ。 


「まさか……そんなことが」


 それに対して涼子は笑顔で頷いただけで、それ以上何も言わなかった。そしてゆっくりと快の方を見てから、再び私に視線を戻した。


「美里さん……本当に、ありがとう」


 涼子が深く頭を下げる。そして再び頭を上げると、祭壇の前に立った。


「それでは、始めましょうか」


 涼子が強く声を張って言った。彼女は、両手をしっかりと合わせ、目を閉じてしばらくすると、再びこちらを振り返る。そして、自らの指で私達の目の前の空間に大きな四角を描いていく。すると、そこに不思議に光り輝いた四角形の空間が現れた。


「さあ、この世界の出口はこの先」


 涼子の言葉に私は頷く。彼女が指を動かすと、その四角形の光の窓が、私と快の頭上に動いてきた。


「美里さん……快をよろしくお願いします。そして、あなた自身と、快を信じて」


 涼子はそう言って再び笑顔を向けた。次第に頭上にある四角形の光から、私と快の周りに眩い光が降り注いでくる。それが強くなるにつれて、彼女の姿が見えなくなってきた。


「お母さん! ありがとう」


 声に出して叫ぶ。それに彼女が静かに頷いたのが見えた。

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