(5)

 静まり返った建物に、どこからか風が入ってきた気がした。


「美里さん——」


 涼子が私に静かに声をかけた。ハッとして彼女に尋ねる。


「その話は……一体、どういう事ですか」


「快はその時に死んだんです。夫も、一緒にいた何人かの地元の人達もみんな。私の母も、酷くショックを受けて、それからしばらくして病気が悪化して死にました」


 え、と私は声を上げた。一気に体に鳥肌が立つ。


 快は、死んでいた——?


 涼子は祭壇の方に顔を向けた。そこには真ん中に大きな鏡が置いてあり、私達の様子を映し出している。


「この世界には、異なる選択をした世界が実在すると言いました。その世界は本当に無数なんです」


「無数、ですか……」


「そう。快が倒れていた向こうにはトイレがありました。きっとあの子は夜中にトイレに起きて、その帰りに急に火か煙が回ってきて逃げられなくなったのです。あの時、私がもう少しだけ早く火事に気付いて、走り回って快を抱えて炎の外に逃げる選択。私が快より先にトイレに起きて、火事に気付いて逃げた選択。快が自分で火事に気付いて私を起こして逃げる選択。——快自身が生き残るための、そうした無数の別の選択ができなかった。だから……快は死んだ」


「でも彼は……快は、ここにいます」


 そこに横たわる快の姿を確認して言う。涼子も彼の方を見つめながら静かに頷いた。


「この世界の快は死んだ。しかし、あなたの世界では快は生き残った。きっと、私か誰かが、もしくは快自身が生き残る選択ができたのでしょう。……でも、この世界には確かに彼は存在しないのです」


 静かに快を見つめている涼子は、そこまで言って黙ってしまった。


(私の世界で生きていた快は、この世界では死んでいる——?)


 その時ふと、少し前に、同じような違和感があったことに気づいた。


『僕、小学生の頃に両親死んじゃって』


 そうだ。私の世界の記憶の中で、快の家に泊まらせてもらった時、彼は確かにそう言った。その言葉に妙な違和感があったのだ。あの時は快の母に会ったことがあるような気がしたのだが、それはこの世界で涼子に会った記憶と混同してしまっていたのかもしれない。


 私の世界では、涼子は死んでいる。この世界では彼女は生きている。


 私の世界では、快は生きている。この世界では彼は死んでいる。しかし、目の前には


 その2つの事実に頭を巡らせた時、ふと1つの仮説に行きついてハッとした。


「もしかして……快はこの世界では死んでいる存在だから、生きることができないんじゃないですか?」


 涼子を見つめて静かに言うと、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その表情は、何とも言い難く苦しそうに見えたが、しばらくして、彼女は頷いた。


「存在しない世界にやって来た人間が生きられるのは、1か月が限界だと言われています」


「1か月——」


 3月末で、あのIT企業を辞めて、その日の夜に彼と出会った筈だ。思わずスマホを見ると、今日の日付は4月30日を示していた。


「どうして……どうして、その事を黙っていたの?」


 涼子ではなく、快の方を見て咎めるように言った。


「快は、この世界に存在しない人間だから、自分の世界の記憶を全部持っていた筈なんです。快がここにやって来たのは、この世界であなたと後だと思います。私も彼が本当に快であるのか、全く信じられませんでしたが、あの子は小さい頃の記憶を全部私に話してくれました。小学5年生の時に、私と父が火事で亡くなったという事も……。でも、どうしてこの世界に自分がやって来たのか、その理由だけは話してくれませんでした。そして、あなたの存在もひた隠しにしていた。だから、あなたから電話が来なければ、私はあなたの事を知らないままだった」


 私は涼子の声を聞きながら、快の方を見つめたまま呟いた。


「何よ——もう」


 涼子がこちらを振り向く。それを視界の端で捉えながら、快の姿を見つめる。

 

「あなたは私を知ってたんじゃない。……だから、何の迷いも無く三葉留湖さばるこで私に声を掛けたのね。……でも、どうして、私なんかをその仕事に誘ってくれたの? いいえ……どうして、自分の命が犠牲になると分かっていても、私をこの世界に連れて来てくれたの?」


 寝かされている彼は答えない。相変わらず固く目を閉じたままだ。


「美里さん——」


 涼子が懐から白いハンカチを取り出して私に差し出した。私は、涙が止まらなかった。視界の中の快の姿は、さっきから涙で滲んでいる。私は涼子に頭を下げて、そのハンカチで涙を拭いた。


「私も、同じことを知りたかったんです」


 目の前の涼子から声が聞こえた。ハッとして彼女の方を向くと、彼女は自分の懐に手を入れた。そこから出てきたものは、小さく折った1枚の白い紙だった。


「本当に、大人になった快の姿が見られるなんて、夢のような話でした。この世界ではあの子は10歳で死んでいますから。だから、本当に私はこれ以上の事を望む権利はない。……それは分かっていました。でも私は、あの子の母親としてその欲望を抑えることができなかった。この夢を、終わらせたくなかったんです」


「それは、どういう……」


「快に、暗示をかけました」


 そう答えた涼子は、まっすぐに私を見つめた。


「あなたも覚えているでしょう? あの高校生が語った、未来の話を。死に瀕した人間を救うのは、自分自身と大切な人が共に求める未来。……だから、快に自分が求める未来の姿を語るように暗示をかけた」


 その言葉に私はハッとする。彼女は先ほど広げた紙に視線を落とした。


「じゃあ……そこに、彼の望む未来が?」


「読んでみますか?」


 落ち着いた声で涼子が尋ねた。私は頷いて、その紙を受け取る。胸がドキドキと高鳴っていく。そこに書かれている、彼が望む未来の姿とは、一体何なのだろうか。


 折られた紙をそっと開いていく。そして、その内容が私の前に姿を現した。


「これは——」


 思わず言葉を失う。


 そこには、何も書かれていなかったのだ。


「それが、快の答えだったんです」


 ゆっくりと顔を上げる。涼子はじっとこちらを見つめた。


「どういう……ことなんですか?」


「快はこの暗示にかかる条件が揃っていなかった。死に瀕しているというのは確かなんです。しかし……自分の人生に後悔があるという条件に当てはまらなかった」


「そんな……そんな馬鹿な! だって、自分が存在しないこの世界に来れば、死んでしまうってことは、彼には分かっていたんでしょう? それで後悔がないなんて、そんな……」


「ええ……。でも、私は何となく分かる気がします」


 えっ、と涼子の方に顔を向けると、しばらくして彼女は首を振ってから、快の方に顔を向けた。


「本当は何も恐れることは無かったんです。快はもともとこの世界には存在しなかった。だから、死ぬといっても、快の体が自然に消滅するだけで、私や美里さん、そして快を知る人々の記憶から、彼が存在したという記憶が失われるだけだと言われています。美里さんは快と知り合うことの無かったこの世界のあなたと記憶が同一化し、私も10歳で快を失くした記憶に戻る。たぶん、たったそれだけの事なんです」


 涼子はそこでフフフと笑う。


「快がこの世界にやって来た時から、私は分かっていました。この子は誰か大切な人の命を救うためにここに来た。それならば、私はただ、母親として彼の望むことを手助けすべきだとね。だから、快が助けたかったのが美里さんであるなら、私はただ黙って快がこの世界から消えるのを待てばいいだけ」


「お母さん——」


「快はこの世界であなたの命を繋いだ。だから、美里さんは、もう快の事を色々と考えることはないんです。その代わり、精一杯この世界で生きて欲しい。一人でも、友人とでも、恋人とでもいい。とにかく自分の人生を謳歌してほしい。それが快の願いであるならね」


 涼子はそう言って私に背中を向けた。その姿に、泣いている、と思った。そうだ。彼女がここで快を失えば、それは2度も我が子を失うことになる。仮に彼女の言うように快の体がただ蒸発するように消え、彼のいた記憶が無くなるだけだとしても、それはあまりにも残酷な仕打ちだ。

 

 私は、涼子の向こうで仰向けになっている快を見つめる。もはや、私にできることは、何もないのだろうか。私もここで、この世界に存在しない快が黙って消えるのを待つしかできないのだろうか。


(この世界——)


 私はハッとして涼子の背中に呼びかけた。


「お母さん! もしかして……快がこの世界に私を連れて来たように、私が快を本当の世界に連れて帰ることもできるんじゃないですか?」


 涼子が体を少し向けて振り向く。その目を見つめて続ける。


「快は、本当の世界に戻ったのなら、死ぬことはないんじゃないですか」


「——あなたが、導かないとならないんです」


 涼子が静かに答えた。


「私はこの世界を出る道を示すことはできます。でも、最後に扉を開いて元の世界に戻る選択をするのは、あなたにしかできません。この世界は、あなたが生きることができる世界。でも元の世界は、あなたが死に瀕している世界。だから、あなたが本当に望まない限り、最後の扉は開かない」


 涼子は真っすぐに私の目を見ていた。


「それに、私達が選択できた世界は無数にあります。もし、あなたも快も存在している世界に移動したならば、元の世界ではなくとも、そこにいる自分の意識と同一化し、その世界で生きていける筈なんです。しかし、それには一定の生命力が必要です。快は既に体が相当に弱っているから、自分が元いた世界に戻らないと、おそらくもう生きていくことはできない。その上、もしあなた達がどちらも存在していない世界に留まってしまったら、快だけでなく、あなただって生きられない」


「でも——」


「それに、快の願いは、あなたが生きること。もし、仮に本当の世界に戻ったのなら、あなたは死んでしまうかもしれない。それでは、快の思いとは違う」


「私は、快に生きて欲しいんです!」


 涼子の顔を見つめて強く叫んだ。


「私はあの時、薬を飲んで自殺することを選んだんです。でも快は、そんな私なんかのために自分の命を失うことを覚悟した上で、この世界に私を連れてきてくれた。……もう、その気持ちだけで十分なんです。私はただ、快に……生きて欲しい」


 涼子の装束の裾を握って、それにすがるように頭を下げた。すると、嗚咽する私の背中を、温かな手がそっと撫でていく。私は顔を上げる。そこには、涼子が涙を目に浮かべていた。


「美里さん……許して」


「お母さん——?」


「あなたが快に電話をかけてくれた時、私はそれに応答しない選択もできた。……でも、私にはそれができなかった。私の目の前で再び快を失うことに耐えられなかったから。だから、あなたからの電話に出て、あなたをここに呼んでしまった」


 本当にごめんなさい、と言って、涼子は私の前で土下座のように床に頭を擦り付けた。それを見て、慌てて手で目頭を拭うと、明るく答えた。


「大丈夫です。私は、絶対に快を連れて、元の世界に戻ります」

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