(2)

 平坦な大通りが市街地を抜けて真っすぐ南に向かっていく。郊外型のホームセンターやチェーン店などもチラホラと見えたが、それも過ぎると、田園風景が広がってきた。さらに進んで行くと、一時は3車線あった道路もいつの間にか対面通行になり、交通量も減っていく。海沿いまで来たその道は、やや狭い海峡のような場所に架けられた橋で海を渡り、その向こうの半島に続いていく。そこから先は、これまでの平坦な土地の風景がガラッと変わり、しばらく山道になったが、そこを超えると、下り坂の前方にキラキラと光る海が見えてきた。さらに進んでいくと、そこには小さな浜辺があり、その脇にあった駐車場で車は停まった。


 潮風が鼻腔をついてきた。実家は鎌倉とはいえ、湘南の海岸にもほど近い場所にあったので、私にとって小さい頃から海は身近な存在だった。だから、海に来ると何となく気持ちが昂る。あの山中の神社出身の快なら、さぞかし海が珍しくて興奮していることだろうと思って見ると、黙ったままいつものリュックサックを後部座席から出しているところだった。


「海って珍しいでしょう? 何となく楽しくならないんですか?」


「はあ……まあ、楽しいか楽しくないかと言えば楽しいですかね。あまり来ないので」


 快はそう言って、バタンと車のドアを閉めた。


(じゃあ、もっと楽しそうにすればいいのに)


 快があまり感情を出していないことにイラっとしたが、その気持ちを抑えて彼の後に続いて歩いていく。


 そこは山際に数十軒ほどの集落が密集している地域だった。快の後についていくと、さっき来た道路を渡って、集落内の狭い路地を進み、山に程近い1つの人家の前まで来た。門があり、表札に「片山」と書かれたその家は、平屋建ての古そうな家であった。


「こんにちは!」


 玄関の前で、快が意外と大きい声を出したので、私はビクッとした。「はーい」と女性の声がして、しばらくすると玄関の引き戸が開いて、中年の女性が姿を見せた。


「あの、市川と申しますが、充留みつるさんはいますか」


「市川? ……ああ、何かの雑誌の取材の人じゃろ? 充留はまだ港でバイトしよると思うんじゃがなあ。向こうを見てきてくれんやろか」


 女性はそう言って、さっき来た浜辺の方を指した。快は「わかりました」と言って、頭を下げると、その家を後にする。私もその後を追って行く。


「雑誌の取材って……どういうことですか?」


「だって、知らない大人がいきなり高校生を尋ねて来るなんて不審に思われるでしょう? だから、事前に彼と打ち合わせをした上で、雑誌の取材だということにしていました」


 無駄にそういうところは配慮しているのか、とやや感心して再び快の後に続いて歩いていく。しかし、よく考えると、このファッションセンスのなさそうな男が、雑誌の取材に来たという方が不審に思われるような気もする。まあ、母親は特に疑っている感じではなかったので、大丈夫だろう。


 先ほどの浜辺に戻って辺りを見回す。狭い浜辺には人影は無かったが、少し歩いて行くと、堤防を隔てた向こうにある小さな漁港の方で何人か人影が動いているのが見えた。


「充留さんはいますかー!」


 再び快が突然大声を出したので、私は体に鳥肌が立つ程びっくりした。思わず快に詰め寄る。


「ちょっと! 何でいきなり大声出すんですか」


「え……だって、聞こえないでしょう」


「だからって、いきなりは止めてください。間違ってたら恥ずかしいじゃないですか」


 そんなやり取りをしている時に、向こうの方の人影の1人が手を振っているのが見えた。


「ちょっと待っててください!」


 向こうも大声で返してきた。幸いにも、どうやらお目当ての人がいたようだ。


「少しここに座って待ちましょうか」


 近くの倉庫のような小さな建物の脇に、木製の長椅子が野ざらしに置いてあった。快はそれを少し前に出して、その中程に座る。私も間を空けてその端の方に座ってみた。海の方から、ザザーンという波の音とともに、心地よい潮風が流れてきた。


 海の向こうには小さな島がいくつも見える。その向こうから大きな雲が出てきていたが、まだ太陽の光で辺りは明るく、過ごしやすい気温だ。穏やかな空と波と島。初めて見た瀬戸内海は、湘南の海とは違って、人気も少なく、地味ではあるが落ち着いた海だと思った。


 しばらくそうして待っていると、堤防の向こうから人影が近づいてきた。坊主に近い短髪で、快より身長もやや大きく、筋肉質の少年だった。


「こんにちは。片山充留です。あなたが市川さんですか?」


「ええ、初めまして。市川です」


「良かった! まさか本当に来てくれるなんて。ダメ元で頼んで良かったっす」


「いえ。こちらこそ、前から連絡を貰っていたのに来るのが遅くなってすみませんでした。……あっ、彼女は僕の仕事を手伝ってくれている、大戸さんです」


 よろしくお願いします、と充留は私にも丁寧に頭を下げてきた。こちらもそれに応えて頭を下げる。見た目と違い、結構礼儀ができている少年のようだ。


 充留はその長椅子に座る快の隣に腰を下ろした。


「何から始めたらいいんスか?」


「そうですね……何か今、悩んでいることがあれば、教えてくれませんか」


「それなら、あの……中学生の妹の早紀が、白血病なんです」


 充留は海を眺めながら話し始めた。波は静かに、しかし同じようなスピードで繰り返し寄せてきている。


「分かったのは結構前だったのに、最近どんどん悪くなっているみたいで。岡山市内の病院に入院しているんですが、なかなかドナーも見つからなくて、最近生きる気力が弱っている気がするんです。俺も登録したいけど、まだ年齢が若いから対象にならなくて」


 充留は下の砂浜を見つめていたが、快の方を向いた。


「それでお願いです。早紀の話を聞いてあげてください。自分がやりたかったことを思い出して、少しでも元気になってほしいんです。市川さんは、催眠術みたいなことができるんでしょう?」


 そう言う充留の視線を避けるように、快は何も答えずに海の方を見た。


「無理……ですか」


 それに対して、快は下を向いてただ首を振った。


「いえ……お兄さんとして、本当に妹想いで頭が下がります。でも、僕もどうすればよいかわからない時もあります。今回のお話は難しいかもしれません」


「ダメ元で一度、早紀に会ってみるだけでも……」


 身を乗り出した充留を快は見つめた。


「妹さんに会っても駄目だと思いますが……。それより、1つ聞いてもいいですか?」


「何ですか?」


「あなた自身はどうしたいと思っているんですか」


 俺、と充留は言って、快の顔をしばらく見つめる。そして、海の方に顔を向けた。


「俺は……早紀に早く元気になってもらって、みんなと同じように学校にも通って欲しいし、とにかくアイツを支えていきたい。……ウチは、父がもういないんです。内航船の船乗りだったのですが、事故で俺が小学生の頃に亡くなりました」


 真っすぐに海を見つめている充留の話を、快はじっと聞いている。


「それからは母さんが1人で働き、妹の医療費も含めて家計を支えてくれています。俺は今はまだ高校に通っているので、この辺の漁港のバイトくらいしかできませんが、早く高校を卒業してもっと働きたい。そして、しっかり早紀を、そして母さんを支えていきたいんです」


 充留が必死な顔でそう言うと、快はしばらく黙っていた。そして充留の方を向いて、「分かりました」というと、彼の顔をじっと見つめて静かに言った。


「では、あなたにとって一番望ましいその世界を、想像してみてください」


「望ましい世界?」


「そう。そして、その世界の話を、あなたが話したいと思った誰かに伝えてください」


「それって、一体……?」


 充留が不思議そうに快を見つめていた時だった。


「みーつーるー!」


 女の子の声が聞こえてきた。3人が一斉にそちらの方を見ると、1人の体操服姿の女子が手を振って、こちらの方に歩いてくる。充留は手を上げて応えてから、「友達の美嘉です」と言った。


 美嘉は、グレーのブレザーの制服に黒っぽいリュックを背負っていた。私と同じようにショートに揃えた髪に、ぱっちりとした瞳を持つ可愛い子で、女の自分から見てもいわゆる陽キャ女子として人気がありそうな部類の子だ。


「何しとるん?」


「ああ、前に話しよった市川さん」


「ああ! おまじないの人じゃな。——ふうん。意外と怪しくなさそう。若そうやし」


 その「おまじない」という言葉がストレート過ぎて、私は思わずクスッと笑ってしまった。その私を彼女はチラッと見てから、充留に対して、「この人、おまじないの人の奥さんなん?」と言うので、


「違います。私は単なるアシスタントです」


 とはっきりと答えた。


「それで、相談には乗ってもらえそうなん?」


 美嘉が充留の隣に立って聞くと、彼は首を振った。


「いや、早紀の話をお願いしよったんじゃが、難しいみてえなんじゃ」


「そらそうじゃろ。無料相談なんじゃろ? 仕方ないやろな」


 さらっと言う美嘉に対して、快も頭を下げた。


「ごめんなさい。力になれそうになくて。ただ、少し考えさせてもらえないでしょうか。折角ここまで来たので、この辺を観光してみたいと思ってもいるので。もしよければ、また明日にでも改めて来てもいいですか」


 えっ、と私は思わず、快の方を見た。


「ああ、それはもちろんです。明日は土曜日なんで、朝のバイト以外は空いてますから。どうぞ来てください」


 充留は笑顔で答えた。

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