(2)

 車は大通りを北に走り、そこから学生向けのマンションやアパートが立ち並ぶ地域に入っていく。その辺りは、私が学生だった頃は、遅れて開発された比較的新しいアパート街だったが、その頃よりも様々な店が増えていて、既に成熟した街になっている感じがした。その街の外れの方にある4階建てのマンションの近くで車は停まった。


 その入口の壁には、「パープルマンション」と看板が掲げられていた。快は、入口のオートロックの前にあるインターホンを鳴らす。何度か呼び出し音が鳴ってそれが途切れた。


『はい』


「市川と申しますが、清野せいのさんのお宅ですか」


『市川……? ああ、あの占い師さん?』


 今回は快のことを「占い師」と言った。一体、みんなどのように快のことを知っていくのだろうか。その点はまだよく分かっていない。


 入口のオートロックが開いて、私達はエレベーターで3階に上がる。快は部屋番号を確認しながら歩いていき、行き止まりの角部屋でインターホンを鳴らした。ドアの鍵がガチャと開く音がして、中からドアが開いた。


「ああ、どうぞ。散らかってますが」


 顔を出した男は眼鏡をかけた中肉中背の男で、私より少し年齢は上だと思った。口の周りの髭も剃っておらず、一見して普通のサラリーマンではなさそうだ。


 男は玄関にスリッパを2組出して、私達を中に案内した。狭い廊下の向こうに15畳程のLDKがあり、その隣にも部屋があるようだ。リビングの黄土色のソファの隣に座布団が並べられ、その上に小さな布団が敷いてあり、そこに赤ちゃんが寝かされていた。ベビーベッド替わりなのだろう。


「どうぞ椅子に座ってください。……あ、ご挨拶が遅れましたが、清野寛です」


「市川快と申します。こちらは……アシスタントの大戸美里さん」


 彼の紹介を受けて私は黙って頭を下げた。


 キッチンのシンクの裏の辺りにダイニングテーブルが置かれ、そこに4つの椅子が置いてあった。そのテーブルの上にはモバイルパソコンが置かれ、周りに紙が散らかっている。寛は、「少し待ってください」と言って、それを壁際の棚の上に移動した。


「もうすぐ妻も帰って来ると思います。飲み物はコーヒーか紅茶、どっちにします?」


 じゃあコーヒー、と私が先に言うと、快も「同じで」と言った。寛はキッチンに立ってコーヒーメーカーの前に立って準備をしながら、こちらに尋ねてきた。


「あのう……こういう仕事の依頼って、多いんですか? 失礼ながら、私は占いとか宗教とかは、あまり信じない方なんですが……」


「はあ……まあ、多いとは言えないですかね」


 ねえ、と快は私の方を向いて同意を求めてきた。


(いやいや……私が聞きたいくらいだから!)


 そう思いながらも、「そうですね」と当たり障りなく返す。


「ただ、自分で言うのも何ですが、あんまり期待しない方がいいです。僕は一応、神主ではありますが、見ての通りの若造ですから。その分、報酬もいただきませんし。まあ、気軽にお話ししていただいて、何か一つでも良いアドバイスがあればいいくらいに思ってください。あっ、それからもちろん、宗教的な勧誘もしませんので」


 快はさらりと言ったが、それは確かに自分で言ってはダメだろうと私は思った。


 しばらくして、コーヒーメーカーがボッボッ、と音を立てるにつれて、良い香りが漂ってきた。ほどなく寛がカップを2つ持ってきて、私達の前に置く。それから、彼は自分用のコップを持って、テーブルに戻ってきた。


「前にもメールでお伝えしていると思いますが、私は大学院を出てそのまま研究室に残っています。だから収入もまだ少ないのですが、妻は産後数か月程で職場復帰して働いてくれているんです。妻はこの近くにある民間の研究所に勤めています。ただ、保育園の空きがまだ無いので、一時保育制度も使いながらですが、私も家事や育児をできる限りやっていまして」


「そうなんですか。育メンですね。すごいです」


 私は正直に思ったことを言った。寛は恥ずかしそうに「いえ、そんなことは」と言って頭をかく。夫の方がまだ学生の延長のようなものだとしても、妻が働きながら生活を支え、夫も家事や育児を分担しているという生活に、素直に称賛したくなる。


 その時、スマホが鳴る音が聞こえた。寛がすぐに席を立ち、隣の部屋に行って何か話を始めた。しばらくして、戻って来た寛が尋ねる。


「あの……ちょっと急ぎで研究室に行かないといけないのですが、お話は後でも構いませんか?」


「そうですか。ではちょっと出直しましょうか」


 快がそう答えたところで、ガチャ、とドアが開く音が聞こえた。そして、「ただいま……あ、もう来てる?」という女性の声が聞こえる。「おかえり」と寛が答えると、すぐに女性がリビングに入ってきた。


「ただいま……あ、こちらの方?」


「ああ。市川さんだよ」


 寛が言うと、女性は買い物袋を床に置いて、「わざわざありがとうございます」と丁寧に頭を下げた。


「私、清野加代と言います。寛の妻です」


 彼女は私たちに頭を下げた。私もそちらを向いて頭を下げてから、その顔を見て、「おや?」と思った。


「あの——」


 私の声に、彼女が顔を向ける。


「もしかして……」


 私はその顔を見つめていると、彼女も私を見つめてから、突然、


「美里——?」


 ええっ、という叫び声がほぼ同時に私と彼女から出た。


「知り合いなの?」


 寛が聞いた。


「ええ。紫峰大の農学部の同級生で、親友だったの。よく昼ご飯を食べたり、買い物したり、旅行に行ったりしてね。でも卒業してから、ほら、私は関西に行ってたでしょ。あの頃から、同級生とも疎遠になって、それから会っていなかったけどね。まさかこんな所で会えるなんて」


 彼女は笑顔を向ける。


「まさか加代だったなんて。本当にびっくりしたわ」


 私も驚きと懐かしさで、声が大きくなってしまった。その時、赤ちゃんが急に泣き出した。加代ははっとしたように赤ちゃんの方に行くと、トントンと布団の上からその体を優しく叩いた。しばらくすると、赤ちゃんの泣き声が少しずつ収まり、再び部屋は静かになっていく。


「すっかりお母さんになったんだね。名前は何て言うの?」


 私が小声で言うと、加代はそっと足音を忍ばせながらテーブルの方に戻り、壁に貼られた1枚の紙を指さした。


「藍那って言うの。まだ5か月だから大変でね。お母さんになるのがこんなに大変だとは思わなかった。自分の母親の偉さが今になってよく分かる」


 加代はそう言いながら、キッチンに買い物袋を持って行き、その中身を冷蔵庫にしまっていく。すると、寛が言った。


「加代。悪いんだけど、急用で研究室に行かないとならないから、ちょっと相手をお願いしていい? 都合が分かったら連絡するから」


「いいわよ。何時くらい?」


 ええと、と考える寛の前で、快が言った。


「僕は、今日の夜は別の仕事があるのですが、今日は駅の近くに泊まる予定なので、明日の午前中なら時間があります。明日に変更しましょうか」


「すみません。助かります。じゃあ、また連絡させてもらいます」


 寛はそれだけ言って、モバイルパソコンをリュックサックにしまうと、すぐに部屋を出て行った。


「忙しいみたいね」


「次のステップに上がるための論文にかなり苦労しているみたいでね。結構、私も仕事を調整したりして藍那の面倒を見てるの」


 加代はそう答えてため息をついた。何となく無言になったところで、加代も気づいたように明るい声で言った。


「それにしても、本当に久しぶりよね。こんな形で美里と再会できるとは思わなかった。あなたがいるなら安心だわ。失礼な話だけど、私も少しだけ怪しさを感じながらお願いしてたから。……この仕事、長いの?」


「いやいや……ついこの前から始めたばっかり。前の仕事辞めてどうしようかと思っていて……。そんな時に見つけた単なるバイトよ、バイト」


 後半は加代の方を向いて小声で言ってから、そっと快を見ると、彼はボーっと窓の方を見ながらコーヒーを飲んでいて、こちらには関心のない様子だ。


「へえ、仕事辞めたんだ。私も辞めてはないけど、結婚してから関連の研究所に異動希望出して、市内の研究所に勤めてるの。美里は、確か前はIT系の会社にいたよね?」


「そうそう。かなりのブラックでね。残業も多いし、休みもなかなか取れないし。辞め時を悩んでいたくらいだったから全く未練なし」


 私は胸を張って言うと、加代はフフっと笑った。


「まあ、でもバイトとは言え、美里が見つけたくらいの仕事だから、市川さんも手広くやってるんでしょうね」


 ふいに加代が快に声をかけたが、彼はまだ窓の方を向きながらコーヒーを呑気に飲んでいる。私は思わず隣から「ちょっと」と言うと、快はえっ、と驚いたように顔を向けた。


「あっ……すみません。ちょっと考え事をしていて」


 そう言って、ハハハ、と軽く笑っている。


(何ボーっとしてるのよ。お客さんなんでしょう?)


 そう思いながら、あまり彼のことを悪く言って彼の評価が下がることは、私の評価も下がることになるので、思い直して微妙な笑顔を作った。


「それで、これからどうしますか?」


 加代が尋ねてきた。すると、快は少し首を傾けてから答える。


「お話は寛さんから聞きたいので、明日の朝にまた伺うことにします。今日は、僕はこれから別件があるのですが、大戸さんたちは折角の機会ですからお話しでもしてきたらどうですか?」


「分かりました。ありがとうございます。美里は今日どこに泊まるの?」


「ええと——」

 

 私は快の方を向くと、「このホテルです」とリュックからホテルの地図を取り出した。


「明日の朝は、9時くらいにロビーで待ち合せましょう」


 そう言う快から私は地図を受け取った。


「じゃ、思い出のファミレスにでも行こうか」


 加代はそう言って、私に笑顔を向けた。

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