(6)

 私があの病室のドアを開けると、小杉は点滴と鼻からチューブを付けられた状態でベッドに寝ていたままで、その脇の椅子に母が座っていました。そしてベッドを挟んだ反対側には、もう1人、頭髪の薄い、痩せた中年男性が座っていて、私の方に眼鏡を掛けた顔を向けました。小杉の顔色はこの前よりずっと悪いように見えましたが、私が近づくとその目が私を真っすぐに見つめているのが分かりました。


「さあ、ここに座りなさい」


 母がその隣の椅子を示して私に促しました。近づいて分かりましたが、母の手にはハンカチが握られていて、その目が泣いた後のように赤く充血しているようです。不思議に思いましたが、ふと見ると、ベッドの向かい側にいる中年の男性も、眼鏡の奥の目が赤くなっているように見えました。


「どうしたの。こんなに急に呼びだして」


 私が尋ねると、母は「すまないね」とだけ言って、黙ってしまいました。すると、向かいの中年男性が声を掛けてきました。


「寛子さん。……この子が、あの時の?」


 その質問に、母は黙って頷くと、私に白い紙を何枚か差し出しました。


「すまないけど……これを、読んでおくれ」


 母は少しだけ手を震わせているようです。私は戸惑いながらもそれを受け取ると、黙ってその文字を読み始めました。


 外は小雨が降っていました。少しだけ開けていた窓から、その僅かな音が聞こえる程、部屋の中は静まり返っています。私はざっと目を通して読み終えると、ゆっくりと顔を上げました。


「お母さん……これは、一体……」


 すると母がゆっくりと口を開きました。


「昔ねえ。私は小杉工業という会社で働いていたんだよ。まだ今のお前よりも若い頃だった。東京の下町にあった会社でね。そこで一緒に働いていたのが、社長だった小杉さんと、向かいにいる中尾さんだったんだ」


「えっ……」


「だけどね。その会社は、大丸物産という大きな会社に買収されてしまったんだ。そして、私も含めて従業員は全員クビになり、私は伊豆の方の旅館の住み込みで働き始めた」


「そんな……それで母さんは僕と」


「そう。それでね。……この小杉さんは、今はその大丸物産の役員なんだよ」


 母がゆっくりと答えるのを聞いて、ハッとして思わず小杉の方を見つめました。彼も私の方をじっと見ています。


「ちょ、ちょっと、どういうこと? ……この人は、小杉工業の社長だったんでしょう? それが自分の会社の従業員はクビにして、自分だけは買収した会社の役員になったってこと?」


「そうだ」


 小杉が初めてガラガラの低い声で答えました。


「俺は……ここにいる中尾君と一緒に開発した、耐久性の高い小型モーターの特許を持って……会社ごと大丸物産に売ったんだ。……従業員を見捨てて」


 小杉はゴホゴホと咳をしながら、ゆっくりと続けます。


「その上、俺は……婚約していた女性と、その妊娠中の子供まで捨てて……大丸物産の社長の娘と結婚した。だから、役員にまでなれたんだ」


 息を呑んで思わず母の方を見ましたが、彼女はただ俯いて黙っています。


「母さん……まさか」


「もう、いいんじゃないですか。寛子さん」


 中尾が母に向かって言いました。


「この子の父親が、誰であるかを教えてあげてください」


 彼は母を真っすぐに見つめていました。痩せて、皺も目立ってはいますが、眼鏡の奥の優しそうな目を見ると、彼は心の底から母にお願いしているように見えました。


 すると母はこちらを向いてはっきりと言いました。


「そうだよ。……私は、小杉さんと婚約していた。だから、間違いなく、お前の父親はこの人なんだ」


 そう言って彼女は頷きました。私は母から、父は同じ会社で働いていた人だったが、私が生まれる前に事故で死んだと聞いていました。それで伊豆の方に引っ越したのだど。


「そんな……馬鹿な」


 思わず小杉の顔を見つめました。彼は咳をしながら、血色の悪い顔をこちらに向けています。


「今更……今更、そんなことを言われても……母さんがどれだけ苦労してきたか。あんたには分からないだろう!」


 私は気持ちが抑えられずに、立ち上がって叫んでしまいました。住み込みで働きながら、母子家庭で必死に働いて私を育て、東京の大学にまで進学させてくれた母。その母を裏切り、バッサリと捨て去った小杉に対して怒りがこみ上げてきました。


「この人は、私達を助けてくれていたんだよ。私の口座に、毎月少しずつ送金してくれていた。お前が大学を卒業するまで、ずっとね」


 そう言う母の顔を思わず見つめ返しました。


「それに私は、このメモを見て思ったよ。私達は、きっと良い家族になることができたんだと。だけど、たった一つだけ、この人が違った選択をしてしまった。ただ、それだけの事なんだ」


 母はそう言ってこちらを見つめました。


「母さん……一体、何を……」


「このメモにある内容は、小杉が見た夢を文字に起こしたものらしいんだ」


 その時、中尾が声をかけました。


「いや……それだけじゃない。私も、寛子さんも、少し前に同じ夢を見たんだ。そして、小杉がここに入院していることも夢に見た。だからこの病院にやって来た。しかし、ここに来てみると、小杉も私達もなぜかその夢の話は忘れていた。だから、どうしてここに来たのかを思い出せずにいたんだ」


「どういうこと……ですか」


「このメモを読んで、その夢のことを思い出したんだよ」


 母が横から言いました。


「私達は、それぞれの目線で、全く同じ夢を見ていた。本当に信じられない事だけどね。小杉は大丸物産の社長の娘との縁談を断り、私は小杉と結婚し、お前とお前の妹を産んで、ここにいる中尾さんたちと小杉工業を続けている。私は厳しい家族経営をやりくりしながら、小杉と中尾さんは小さい町工場の中で大きな誇りを持って働いている。……そういう、本当に、本当に幸せな夢だった」


 母の目が再び潤んでくるように見えました。


「でも……それは、単なる夢の話なんでしょう?」


「もちろん、そうさ……。だけどね。このメモを読んでいたら、自分が見たその夢の事を思い出しただけじゃない。なぜかその夢の世界の話が、まるで紛れもない現実のように思えてきたんだよ。目の前にありありとその世界が見えるような気がしてね。小杉と、中尾さんと、私と、お前とその妹と。みんなが笑い合っている姿が、本当にはっきりとね」


「俺は……安心したんだよ」


 急に小杉がガラガラの声で言いました。


「俺は……確かに大丸物産の社長の娘との縁談に応じて、会社も売った。だが……本当に、身勝手な話だが……俺はずっと後悔していた。寛子と、その子供を選ぶべきだったと。……だから、俺が小杉工業を続けていたら……きっと、こういう世界が待っていた。それが分かっただけで、本当に安心したんだ」


 再び小杉がゴホゴホと咳込み始めました。母は横向きになった彼の背中を撫でていきます。


「だから……寛子にも、中尾にも……そして、和樹。お前にも謝りたい。……本当にすまなかった」


 小杉はそれだけ言って、横になったまま頭を下げると、「すまんが少し寝かせて欲しい」と言って目を閉じてしまいました。

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