(10)

 私は、ハッとして飛び起きた。


「何、これ——」


 視界にあるのは、真っ暗な世界だった。夜、というのとは違う。私はザラザラとした土の上のような場所に座り込んでいた。周りを見回したのだが、何一つ見えない。そして、何の音も聞こえない。ただ、私だけがそこに存在している。


「ウッ——!」


 突然、それに気づいた。息が苦しい。まるで、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、息を吸えばよいのか、吐けばよいのか分からなくなる。苦しさで地面に倒れると、頬に微かに冷たい感覚があった。ただ、それは一瞬のことで、すぐに意識が遠のいていく。


(そうだ……私、睡眠薬をたくさん飲んだんだ)


 車の中で一人、それを大量に飲んだことを思い出した。もはやこの世界に未練はない。私の命はここで終わり、永遠の眠りにつこうとしている。私が最後に選んだのは、死という選択だった。そうすると、この苦しさは死の間際の感覚なのだろうか。


 その時だった。


(……さと。……美里)


 どこか遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声は、本当に小さかった。いや、小さく聞こえるのは、私がこの世界から遠ざかっているためなのかもしれない。既に聴力も失われようとしているのだろう。


(サバルコを……思い出すんだ)


 もう一度、その声が聞こえる。


 サバルコ——?


 その言葉を変換するのも億劫になる。サバルコ、サバルコ……


(ああ……三葉留湖さばるこだ)


 そうだ。それは山の上にある小さな円い湖。そこは、私が睡眠薬を飲んだ場所。遠い意識の底に、蒼い湖がぼんやりと浮かんだ。その湖面は、僅かに輝いている。するとその輝きが増してくるにつれて、その周りの景色が少しずつ露わになっていった。その周りを取り囲む山の形。そして、その上には、輝くたくさんの星と、大きな満月。


(綺麗……)


 私はその光景を見たことがある。そこは間違いなく私の思い出の場所だ。私はそこで、大切な人と空を見上げていたのだ。


 ただ、その大切な人が誰だったのか。今は、その名前さえ思い出せない。


(……ごめんね)


 必死にそう言おうとしたが、既にその力もない。ただ、遠のいていく意識の中で、その三葉留湖の風景だけははっきりと見えた。死を前にすると、大切な思い出が走馬灯のように過ぎると言われるが、たぶんこれがそうなのだ。


 瞼が重く閉じそうになったその時、私の頭の奥に響くような声が聞こえた。


「美里! 君が見た三葉留湖は、あの時、僕と見た夜の湖じゃない。昼の湖だ。綺麗な桜の木が周りに咲いている湖だ!」


(えっ——)


 ハッとして瞼を開ける。すると、どこか遠くの方に点のような何かの光が見えた。暗闇に慣れた私の目に飛び込んできたその小さな光。すると、まるでそこから空気が入ってきたように、突然呼吸ができるようになった。大きく吸って思い切り吐き出す。それを何度か繰り返すと、ようやく意識がしっかりとしてきた。


 すると、今度は前よりもはっきりとした声が聞こえてきた。


「僕達はそこで花見をする。美里は、僕の好きなサンドイッチやから揚げを持っていく。僕はレジャーシートをうまく引けなくて風に飛ばされる。それを見て美里は笑う。……いや、君だけじゃない。そこにいる、子供も笑うんだ」


 ふと、その光景が頭を過る。いや、私は桜の季節に、あの湖に行った事はない。それに私はまだ結婚していないし、子供もいない。しかし、その声が言うような光景を、私ははっきりと思い出した。まるで、ついこの前、経験したことのように。


(どうして……?)


 不思議に思いながら冷たい地面に顔を付けていた私に、大きな声が届いた。


「それは、僕達の未来の姿なんだ! 結婚した僕達と、僕達の子供の姿なんだ!」


 その瞬間、強い光を感じて思わず瞼を閉じた。しばらくして、ゆっくりと瞼を開けると、点のような光が見えた辺りから、暗闇を大きく切り裂いて、そこから眩いばかりの光が差し込んでいた。


(快だ——)


 そうだ。彼の名前は、市川快。私はその声の主のことを、突然思い出した。私が大好きだった人。あの夜の三葉留湖で私に告白してくれた人。彼の細い体、優しい眼差しが、今ははっきりと思い出せる。


 私は腕に力を込めて、上半身を起こした。再び大きく深呼吸する。顔を上げると、正面から差し込んでくる光が、私のいる場所まで、まるで道を作っているように見えた。


 すると、その光が弱まっていき、代わりにその場所に長方形の窓のようなものが現れた。そこに蒼い色と薄いピンク色が見えている。目を凝らすと、それは昼の三葉留湖の風景だ。蒼い湖の周囲にピンク色の桜の花が咲いている。決して派手な桜ではない。10本くらいしかない、地味な桜だ。私は、快がビニールシートを敷いた小さな桜の木の下に向かって、お弁当を持って歩いて行く。穏やかな春の風を受けながら。


「ずっと連絡が途絶えていた美里から、突然僕に電話があって、その話をしてくれたんだ。『快の夢を見た』って」


 そうだ。私は、睡眠薬を飲む前に、少しだけウトウトと眠っていた。その時にその夢を見たのだ。そして、それをどうしても快に伝えたいと思った。それで、数年前に別れてから、全く連絡を取っていなかった快に、思い切って連絡してみたのだった。もう、彼と話すこともそれで最後だと思うと、自然と勇気が湧いた。


「美里は居場所を教えてくれなかったけど、きっと三葉留湖だと思った。急いで来てみたら、車の中で目を閉じている美里がいた。窓を叩いても全然目を開けないから、車のバールで窓を叩き壊したんだ」


 私は光る道についた手に力を入れ、もう一度深呼吸した。肺の隅々まで酸素が行きわたるような感じがする。それを何度か繰り返した。


「この世界は美里にとってどんなに辛かったかもしれない。だけど、僕はその辛いことも全て受け止める。そして、美里と一緒にずっと歩いて行くよ。だって……」


 快がそこで大きく深呼吸したような気がした。


「僕は美里のことをずっと好きだから」


 その声とともに、温かい風が光の窓から吹いてきたのが分かった。快の言葉が心地よい風になって、体の隅々まで伝わって行くような感覚があった。


(私だって、快のことが、ずっと好きだった……)


 それはまだ声にはならない。しかし、私は膝に手をついて、前を向いたまま必死に叫ぼうとする。


「僕は、その夢の世界を美里と一緒に生きたい。だから、生きるんだ、美里!」


 快の力強い声が辺り一面に響いて行く。


「美里は、僕と、一緒に生きるんだ! 生きろ! 生きてくれ! 美里っ」


 叫び声とともに、遠くに見えていた光の窓が再び強く輝いた。その光が、私の体の全てを温めるように差し込んでくる。その光の強さに思わず目を閉じると、私の中に信じられないほどの力が湧いてくるような気がした。私は地面についた腕と足に力を込めて一気に立ち上がった。


「快っ——!」


 私は声の限り叫んだ。さっきまでの自分には信じられない程、大きな声が出た。すると、まるで夜が明けていくように、私を取り囲んでいた暗闇が見る間に明るくなり、一つの風景がはっきりと姿を現した。蒼く輝く三葉留湖が目の前に見える中、その湖畔に咲く桜の木の下に私が立っている。春の穏やかな風が顔を撫で、ピンク色の花びらが雪のように舞っていく。


 その時、私の左手に、温かな感触があった。ゆっくりとそこに視線を落とす。私はハッと息を呑んだ。


 そこには、白いひだの付いた帽子を被った小さな子供がいて、私の手をしっかりと握っている。


「あなたは……」


 私は声をかけた。すると、その子が私の方をゆっくりと見上げた。


「ママ——」


 小さな顔に、大きな瞳の可愛い女の子が、私の方を見て笑った。そして、その高い声が、はっきりと聞こえてきた。


「私は、ここにいるよ」


 私は思わず、しゃがみ込んでその子をしっかりと抱きしめた。何度も頷く私の頬を、止めどなく涙が流れていく。それは、間違いなく私の子供だ。私と、快の、未来の子供。抱きしめた彼女の体はまだ小さい。しかし、その柔らかく、温かな体は、確実にそこに存在するのだ。


「大丈夫。私は生きるよ。あなたのために。快のために。そして、私自身のために」


 そう言って、その子を抱っこすると、思い切りその頬に擦り付けた。彼女がキャハハと楽しそうに笑う声が聞こえた。その小さな体は私の体をどんどん温めていく。さっきまでの苦しさが嘘のように、私の体に生命力が満ちていくのをはっきりと感じた。


 その時、どこからともなく、響くような声が聞こえてきた。


『美里さん……。最高の人生を思い出せましたね』


 優しい女性の声だった。私はハッとして周りを見回すが、誰の姿も見えない。


『過去の選択を後悔することはありません。そして、あなたはもう、最高の未来の人生を誤ることもありません。あなたと、そして快にも、それが見えていますからね』


 私は茫然としてその声を聞いていた。どこかで、同じような話を聞いたことがある気がしたが、どうしても思い出せない。その時、私が抱っこしていたその子が叫んだ。


「ばあば!」


 私はハッとした。すると、フフとそっと笑う声がする。そうだ。それは快の母だ。私は彼女に会った。そして彼女からその話を聞いたのだ。選択された世界、選択されなかった世界。そして、これから選択することができる未来の世界のことを。


「お母さん!」


 私も叫ぶ。すると、再び響くような声が聞こえてきた。


『行きなさい。あなたの、生きる世界に』


 声はそこで聞こえなくなった。私は抱っこした子供を見つめる。彼女はただ笑っている。それを見て私は一人で頷くと、光の窓の方に向かって走り出した。


(私の大好きな快の所に、戻るんだ——)


 最高の人生ベストライフ。それは、私達が選ぶ事ができた無数の選択の中で、自分の人生の最後に一番望ましいと思える世界だ。しかし、その選択ができなかったことを後悔することはない。それは、あくまで現時点での一つのゴールの姿でしかないのだ。


 私に見えた世界は、最高の未来の世界だ。私はここから、その未来への道を進んで行く。もう私はその未来への選択を間違うことはない。なぜなら、私と同じその未来を望む快が隣にいてくれるから。そして、私達の未来の子供がそこで待っていてくれるから。私達はその未来に向かって一つになって進んで行ける。


 私の生きる未来。快と、その子供と、その家族と生きる未来。その未来の世界こそ、私の最高の人生ベストライフだ。私はその未来を、生きたい。


 大きな光の窓は目の前だ。私はそこに向かって一気に跳んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る