これって同棲ってやつでは?①

 ……なんだか悪い夢を見たような気がする。


 瞼を開くと、頭の先にあるカーテンが向こう側の光をせき止めているのが見えた。その明るさからして、太陽がだいぶ昇ってしまっている様子だ。

 ……頭がぼーっとするな。顔中の熱が頭の方に流れて脳みそが融解し始めた様な感じだ。マットレスに沈み込みそうな程にのしかかる全身の重みも相まって、もうしばらくこのままでいたい気分だ。

 だけど長時間仰向けのままだったせいなのか、身体の至る所が凝り固まっている感じがする。寝返りを打ちたい。そう思いながら身体をゆっくり横に向け――、


「……へ?」


 思わず目を見開いた。すぐ目の前――丁度鼻先が触れそうな距離で瞼を閉じて寝息を立てる顔がそこにあったからだ。


「っ!」


 反射的に身体が仰け反る。その勢いで後頭部を背後の壁に突っ込ませてしまった。


「いたっ!」


 じわじわと滲みてくる痛みに実月は歯を噛みしめる。っていうか、前にもこんなシチュエーションが無かったっけ? 確か、合コン終わりで双葉さんに介抱された時だったような……。

 後頭部を摩りながら目を開くと、すぐ目の前で双葉さんがこちら側に顔を向けながら寝息を立てていた。合コンの時の様に壁に頭をぶつけた音で彼女が目を覚ましてしまうかと身構えたが、双葉さんの瞼が動くことは無くホッと胸を撫で下ろした。


 ……そうだった。双葉さんがしばらくの間、うちにお邪魔することになったんだっけ。

 双葉さんを起こさないようそーっと身体を起こした実月は、昨夜……ではなく、つい数時間前のやりとりを思い出していた。





 ……どうしてあんなことを言い出したんだろう?


 警察と病院から解放された後、実月は自分のマンションの部屋のリビングのど真ん中で正座をしていた。目線の先では、実月と向かい合わせになるような形で双葉さんがちょこんと正座している。


『あの、しばらくお世話になりますっ!』


 赤い頬を強張らせながらお辞儀をする双葉さん。それに釣られる様に実月も慌ててお辞儀を返す。


『えっと、こ、こちらこそよろしくお願い……します?』


 そう返事をするも、これだとなんだか同棲を始めるカップルの初日にする挨拶みたいだなんて考えが頭に過ったせいで、語尾が疑問形になってしまった。


『それで、できるだけ早く新しい部屋を見つけるようにしますので……』

『そ、そんなに焦らなくてもいいからっ。じっくり探してくれて全然構わないからね』

『いえ、そういうわけには……。それに、実月さんの邪魔にならないように過ごしますので』

『いやいや、そんなの気にしなくていいからね。こっちも肩身狭い思いをさせるつもりはないし』


 お互いがお互いに気を遣うようなやりとりが続く中で、実月の頭ではなんだか自分がいけないことをしてるんじゃないかって錯覚が生まれていた。自分から言い出したこととはいえ、深夜に自身のマンションに若い女の子を連れ込むという状況は、その字面だけでも何となく犯罪臭を感じざるを得ない。双葉さんの見た目が幼い事がそれに拍車を駆けている。

 そうやってしばらく続いた言葉の投げ合いもついには言葉が無くなってしまい、互いに顔を逸らしてしまう。自分から言い出してしまったことではあるけれど、やっぱりよくないよなあ。同じ部屋に男女がふたりきりって……。


『ふあぁ……』


 不意に口が大きく開いた。この気まずい空気を読まずに漏れ出た欠伸に、思わずその口を手で覆い隠す。それと同時にくっつきかけた瞼の目尻から涙が絞り出され、視界が一瞬潤んでいた。


『眠いですか?』


 正面へ向き直ると、双葉さんが実月の顔を見つめていた。考えてみれば、警察とのあれこれや病院での検査などがあって、ようやく解放されたのが日付を越えてだいぶ経った頃だった。そこから双葉さんが自分の部屋から必要な荷物を持っていったり、更にタクシーで移動したりしたので、あと二時間ほど起きていたら太陽が拝めそうな時間になってしまっていた。流石に欠伸の一つや二つ零れてもおかしくは無い。


『そうだね。流石に寝た方がいいかも』


 実月はふらつきながら立ち上がると、ベッドの掛け布団をめくり上げて敷きパットを剥がす。


『あの、実月さん?』

『敷きパットを交換するから、双葉さんはベッドを使っていいよ』

『えっ、いいんですか?』


 戸惑う様子の双葉さんに、実月はうんと頷いた。実月の部屋は誰かが泊まりに来ることを想定していなかったので、来客用の布団といった類いの物が一切用意されてない。だから自分が使っていた敷きパットを交換して、双葉さんにベッドで寝て貰おうと考えたのだが、


『で、でも、そうしたら実月さんはどこで寝るんですか?』

『俺はここで寝るよ』


 実月が指差したのは自分の足下にあるカーペットだ。今までも何度か床で寝落ちした事があるので実月としては案外平気だったりするのだが、人差し指の先を追っていた双葉さんがパッと顔を上げて、


『そんなっ。床で寝たら腰を悪くしますよ!』

『でも、俺の部屋でほかに寝る場所なんて無いし……』

『だからといって、家主を押し退けて私がベッドを使うなんて恐れ多いです』


 双葉さんの言いたいこともよくわかるが、何も無い床で双葉さんを寝かせるのも気が引ける。布団を買いに行くにしてもこんな時間に開いているお店なんて無いから仕方ないと思うのだけど……。どうすれば丁度いい落としどころが見つかるのか考えていると、


『あの……、私は実月さんと一緒のベッドでも全然構いませんよ』


 双葉さんの提案に一瞬言葉を失う。絶句というよりも、眠気でまともに反応するのが億劫という意味で。


『いや、さすがにそれはマズいでしょ。恋人同士でも無いのに……』


 そう返すと、双葉さんはムスッと口を尖らせた。


『でも、合コンの時は一緒に寝たじゃ無いですか』

『それはそうだけど、あれは不可抗力みたいなものだったよね?』

『だったら今の状況も不可抗力みたいなものじゃないですか?』





 ……という流れで双葉さんに言いくるめられ、今の状況に至ったという訳だ。抵抗する意思もどうしようもない眠気の前では無意味なんだと解らされたような気分。思わずため息が零れてしまった。


 自分の隣で子猫のように丸まって眠る双葉さんを起こさないように足下からそっとベッドを降り、実月はそっと洗面所へと向かう。洗面台の灯りを点け蛇口の栓をひねり、両手で掬い上げた水を思いっきり自分の顔へと浴びせる。皮脂と一緒に顔中を覆っていた気怠さが洗い流されていくようで清々しい。

 栓を閉めて頭を上げると、鏡に映った自分の顔の有様に言葉を失った。髪の毛があっちこっちに向かって跳ね上がり、中途半端に開いた瞼が野暮ったい。半開きの口元は涎の跡がひとつくらいあってもおかしくないだらしなさに、思わず「誰だ、このおっさん?」と罵りたい気分にさせてくれる。

 拳をモロに受けてしまった右頬は、左と比べてわかりやすく赤く腫れ上がっているように見える。試しに手を当ててみると、肌のすぐ下をスパークが駆け巡るようにチリチリと痛むので思わず目を細めた。


 それにしても、まさか自分の人生に誰かのストーカーと対峙する日がやってくるなんて思いもしなかった。たまたま他の人が通りかかったから結果として大事には至らなかったけれど、運が悪かったら自分はあのまま呼吸も出来ずに死んでしまっていたのかも知れない。そう思うと、全身の毛が逆立つ勢いで悪寒が走り抜けていくのを感じた。

 自分の胸の真ん中に手を当ててみると、心なしか未だに動悸が激しいままの気がしてならない。それが双葉さんを守り切ったことへの高揚感なのか、あるいは我武者羅だった時の興奮を引きずったものなのか定かじゃないが、出来ることならあんな場面にはもう二度と遭遇したくない。


 ふうっと大きくため息を吐く実月。すると、自分の脳裏に暗がりで浮かぶ双葉さんの元彼の顔が過った。警官に取り押さえられてもなお、実月の胸の中で泣く双葉さんの背中に向かって叫び続ける元彼の表情は狂気的で、呆れを通り越して哀れに思えてくる程だった。このふたりの間に何があったのか詳細は知らないが、別れようと言われたのに付きまとい続けた末路としては当然だと思う。

 だが実月には、そう思うのと同時にあの元彼の姿がどこか他人事のように思えない気持ちが芽生えていた。

 それは実月にも同様の経験があるからという訳ではなく、付きまとい行為を始めた動機を想像したからだと思う。相手の気持ちを考えず一方的に自分の気持ちを押しつけるその姿が、かつての自分と重なって見えた気がしたのだ。もしひとつ何かを間違えたら、自分も双葉さんの元彼のようになっていたかも知れないな。


 そんなことを考えながら鏡とにらめっこをしていると、背中の方からカチャリとドアが開く音がした。振り返ると、ドアの隙間から双葉さんが顔を覗かせていた。


「あ、おはようございます」

「おはよう。もしかして起こしちゃった?」

「いえ、今さっき目を覚ましたら実月さんがベッドにいなかったので……」


 洗面所に入ってくる双葉さんは自分のアパートから持ってきた明るい黄色の寝間着姿で、実月と同様にまだ眠気を捨てきれない様子だ。


「双葉さんも顔を洗う?」


 そう尋ねると、双葉さんははいと返事をした。洗面台を譲ると、彼女は自分の顔に数回水を浴びせて蛇口の栓を閉める。そして、すぐ側にあるタオルへと手を伸ばそうとする。その様子が目に入って、実月はハッとした。


「あ、待って。双葉さん用のタオルを今持ってくるから」


 バタバタとリビングに戻り、タオル類が詰められたケースからできるだけ新品っぽいタオルを選び、それを双葉さんへと差し出した。


「ありがとうございます」


 双葉さんはそれを受け取ると、ポンポンと自分の顔に数回タオルを押しつけていた。


「ところで実月さん。朝ご飯なんですけど……」


 タオルから顔を離した双葉さんが実月の顔を見つめてきた。


「ん? もうお昼ご飯かな……? とにかく、ご飯を今から用意しますので、少し待っててください」


 そう切り出され、タイミング良く実月のお腹が鳴り始める。実質朝食を抜いたような状態なので、自分の胃の空腹具合が強烈に感じられた。だけど実月はあることを思いだし、いそいそとキッチンへ向かおうとする双葉さんを呼び止めた。


「あの、それなんだけどさ。朝ご飯になりそうなものが家に無いんだよね」

「あっ、そうなんですか?」

「うん。だからさ、今からご飯食べに行かない? 電車で一駅移動しなきゃいけないんだけど、おいしいコッペパンのお店があるんだよね。どうかな?」


 彼女も空腹だろうし寝起きから電車移動とか嫌かなと思ったけど、双葉さんは満面の笑みではいと返事をしてくれた。

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