人を好きになるということ②

 実月の腕をグイグイ引っ張る阪根さんの横顔がちょっと厳しめだったから、朝一から大きなトラブルでもあったのかと覚悟していた。ところが阪根さんはそのままオフィスから実月を連れ出して、そのままちょっと離れたところにある給湯室へ押し込まれてしまった。険しい顔をされながら給湯室に連れ込まれるということはいい話では無さそうだ。

 実月の腕をパッと放した阪根さんがこちらを振り返る。


「あの、さっき白川さんとは何の話をしていたんですか?」


 そんなことを訊いてくる阪根さんの表情は尚も険しい。


「え、えっと、昨日のデートの話だけど……」

「どこまで話したんですか?」

「えぇ……」


 彼女の突き刺すような目線に思わずたじろいだ。何か話したらマズいようなことでもあったのだろうか? とはいっても、起こったことをさらっと話した程度なんだけどな。


「どこまでって……。双葉さんを怒らせちゃったりしたこととか、阪根さんと沖田さんに鉢合わせたこととか……」

「それです」


 白川くんに話した内容を答えていると、その途中で阪根さんが割って入ってきた。


「野中さん、その、昨日の私のことを白川さんに言ってないですか?」

「へ?」


 昨日の阪根さんのことってなんだろう? デートで鉢合わせしたときの阪根さんのことを思い返すと、碧くんに無理矢理頭を下げさせられて「ふえぇ~」と情けない声を出したり、実月のデートを見守る目的だったことがバレて碧くんに叱られたり、主に碧くんがらみでの情けない姿が次々を浮かんでくる。


「えっと、それって碧くんに説教されて……」

「わーっ!」


 思い出したことを口に出そうとすると、阪根さんが実月の口を塞ごうと両手を伸ばしてくる。その手は実月の口元の手前でピタッと止まり、実月もそれに驚いて言葉が途切れた。ムスッとした阪根さんは耳まで紅くなっていた。


「恥ずかしいですから声に出さないでください」

「ご、ごめん。でもそこまでは言ってないかな」

「本当ですか?」


 阪根さんがさらに目を細めて実月を睨みつけてくる。そんなに情けない姿をさらしてしまったことを知られたくないのか。


「本当だって」

「……ならいいですけど」


 そう口を尖らせながら阪根さんは一歩身体を退いたが、その表情は未だに納得がいっていない様子だ。


「とにかく、へっきーが私のことを出不精とかズボラとか言って説教していたこととか、それでへなへなってなってたこととか、絶対に誰にも言わないでください」

「えっ、どうして?」

「恥ずかしいからに決まってるじゃないですか!」


 赤らめた頬を膨らませる阪根さん。確かに恥ずかしいだろうけど、実月としてはそこまで目くじらをたてて口止めするようなことでも無いような気が……。


「い、いや、そんなこと誰も気にしないと思うけど……」

「私は気にするんです! とにかく、あのことは他言無用でお願いします」


 ぐいっと前のめり気味で口止めしようとする阪根さんの目力に押され、実月は思わずうんと返事してしまった。あまりはっきりしない返事ではあったけど、阪根さんはそれで十分だったのか表情を緩ませながらのいてくれたので思わずため息が漏れた。


「それにしても、白川さんもなんだかんだ野中さんの話が気になってるんですね」


 さっきまでとは打って変わったトーンの声の阪根さんに目を遣ると、何やら面白いものを見つけたようにニヤニヤしていた。


「そうかな?」

「そうですよ。クールに振る舞って僕は興味ありませんよって素振りをしているのに、そうやって野中さんの話を聞いてくれているわけですからね。白川さんも野中さんを応援したいんだと思いますよ」


 そうなのかな? さっきまで話を聞いていた時の白川くんの様子は普段より表情多めだった気がしたが、あれは阪根さんの言うようなことなんだろうか? 彼の考えていることはよく分からなくて、ちょっと首を傾げてしまう。

 そうだ。せっかくだから、阪根さんにも白川くんに訊いてみたことを質問してみようか。そう思い立った実月は、給湯室から出て行こうと横を通り抜ける阪根さんに声をかけた。 


「あのさ、阪根さんにも訊いていいかな?」


 そう呼び止めると、阪根さんはこちらに振り返って首を傾げた。


「なんですか?」

「えっと……、阪根さんと碧くんの馴れ初めってどんな感じだったの?」


 さっきの白川くんに訊いてみたように「人を好きになること」とは何なのか、その意味を知りたくて出てきた質問。それを聞いていた阪根さんは給湯室の入り口の前で少しの間ぽかんと口を開けていた。


「え、どうしたんですか急に?」

「さっき白川くんにも似たような質問したんだけど、誰かのことを好きになるってどういうことなのかなって昨日からずっと考えてて、その参考として碧くんのどういうところが好きになって付き合い始めたのかなって」


 そこまで説明すると、阪根さんは実月の知りたいことの意味を理解したように「あー」と口を開きながら天を仰ぐ。かと思ったら、何かに気がついたのかはっと実月の方へ振り向く。


「って、白川さんにも似たようなことを訊いたってことは、白川さんの恋バナを聞けたってことですよね。どんなことを言ってたんですか?」


 もう何度も見慣れたいつもの輝きを目に宿しながら実月へぐいっと迫ってくる阪根さん。


「い、いや、それは俺の口からは言えないでしょ」

「むー、それはそうですよね……」


 そう口にしながらも、彼女はどこか不満そうに頬を膨らませている。さっき彼から聞いた話を無許可でペラペラ喋るほど実月は無神経では無いが、阪根さんもその辺りはわきまえているようでホッとした。


「まあ、それはいずれ私が白川さんの口から吐かせてみるとして、要は私がへっきーのどこを好きになったのかって話ですよね?」


 実月はこくりと頷く。すると、阪根さんは人差し指を唇に当てながら何かを考える素振りを見せる。やっぱりいきなりこういう話は馴れ馴れしいだろうか? しかし、すぐに彼女の口から「まあいっか」と声が聞こえてきた。


「私がへっきーを好きになった理由は、私のことを叱ってくれたから、ですね」

「……え?」


 彼女の口から出た「叱ってくれた」という言葉に、思わず驚きの声が出た。すると、阪根さんは咄嗟に実月の方を見て、


「叱ってくれたって、別に変な意味は無いですからね」

「そ、そうだよね」


 反射的にうんうん頷く。まさかこの一瞬の間で頭の中に縄で複雑に縛られて恍惚の表情を浮かべる阪根さんが浮かんできたなんて、口が裂けても言えるわけが無い。


「私とへっきーの馴れ初めって結構普通ですよ。元々大学のサークルの先輩後輩って所から始まったんですよ。まあ実際に付き合い始めたのは、私が大学を卒業するちょっと前なんですけどね」


 大学の先輩後輩。この前のやりとりなんかもまさにそれだったし、阪根さんみたいな人が先輩になった碧くんがなんだか羨ましく思えてくる。

 すると、阪根さんはいきなりすーっと実月の許へにじり寄ってくる。


「で、野中さんもこの前へっきーと会ったから分かると思いますけど……、へっきーってめっちゃ可愛い顔してますよね?」


 上目遣いで内緒話をするような仕草でズイズイと迫られ、思わずたじろぎながらもうんと頷く。すると、分かってくれたことが嬉しかったのか、


「あの女の子みたいな顔が本当に可愛くって、今は大学院にいる友達と一緒にへっきーをよく可愛がっていたんですよ。こんな弟がいたらいいなあって感じだったんです」


 思わず「あー」と唸ってしまった。なんだか碧くんを弟のように可愛がる阪根さんの姿が簡単に頭へ浮かんでくる。阪根さんによしよしと頭を撫でられて、碧くんが頬を赤らめながら止めてくださいと抗議をするんだけど表情は案外満更でも無さそうで……。


「でもそれだけでしたよ。ちょうどその頃は私にも付き合っている人がいましたし。でも……」


 すると、それまで明るく碧くんとのことを語っていた阪根さんの目元に陰が生まれた。言葉に詰まったその一瞬で、この給湯室に溢れる空気の重さが変わったような気がした。


「その人に浮気された上に、お前とは身体だけのつもりだったってフラれちゃったんですよね」


 瞬間、ズキリと胸に亀裂が入ったような痛みを覚えた。阪根さんの表情は明るいままだったが、なんだかとんでもない話をさせてしまっているんじゃないかという気がして、心の奥底から申し訳なさが芽を出していた。


「私は本気だったんですごくショックだったんですよ。でも、その話を聞いてくれたへっきーが私以上に怒ってくれて、なんかもう、元彼に殴り込みに行くんじゃないかって勢いで」


 そう苦笑いする阪根さんの話に、なぜか背筋に悪寒のようなものが走る。


「その直後くらいからへっきーに僕と付き合ってくださいって言われるようになったんです。僕は先輩にそんな悲しい思いを絶対にさせません、僕が先輩を幸せにしますって。すごく真剣な表情で。でもフラれた理由がアレだったので……、男性不信っていうんですか? 元彼以外にも私に近づいてくる人も下心が見え見えだったので、何となくへっきーも私の身体が目当てなんじゃないかって、しばらく返事は保留にして貰っていたんですよ」


 そりゃそうだよな、と話を聞きながら唇を噛みしめた。実月は女性では無いが、本気だった相手にはっきり身体目当てと言われてフラれる辛さは容易に想像できるし、そこから男性不信に陥る気持ちも理解できる。

 でも、いま阪根さんは碧くんと付き合っているのだから、その気持ちが変わるきっかけがあったはずだ。そのことへ興味を抱き始めていると、それを察したかのように阪根さんは話を続けた。


「それである時、私の友達がへっきーをうちに連れてきたんですけど……」


 そこで急に言葉を詰まらせた阪根さん。チラッとこっちの様子を伺う様子を見せたが、すぐに何かを吹っ切るように大きく息を吸った。


「野中さんには聞かれちゃったのではっきり言いますけど、私、実は家事全般が苦手でして、とくに掃除とか整理整頓とかできなくてすぐ部屋が散らかっちゃうんですよね」

「え……」


 阪根さんのカミングアウトに思わず口から声が漏れ出てしまい、ハッと自分の口を手で塞いだ。しかしそれを聞かれてしまったようで、すぐに阪根さんが顔を真っ赤にしながら針のような目線を向けてきた。


「……何ですか、その反応?」

「い、いやなんでもないよ……」

「こっちは知られてると思って恥を忍んで話してるんですから、止めてくださいよ」


 思わず変な反応をしてしまったのは、職場ではテキパキと完璧に仕事をこなしているにも関わらず家事が苦手というギャップに驚いてしまっただけだ。実月自身も苦手なことがあるわけだから、別に阪根さんが家事が苦手だったとしてもそれを責めることなんてできない。

 ごめんと一言呟くと、阪根さんはツンと口を尖らせていたが、すぐに話を続けてくれた。


「友達は私が家事が苦手って知ってたんですけど、へっきーは私の部屋が散らかっているのを見て目を丸くしちゃってたんですよね。でも、私としてはそれで幻滅するなら、へっきーの気持ちはその程度なんだなって割り切っていたんです」

「でも、そうじゃなかったんだよね」

「はい。文句を言いながらでしたけど一緒に部屋を片付けてくれて、その後に「先輩はいい大人なんですから、僕の手を借りなくても片付けできるようにならないといけませんよ」って叱ってくれたんです」


 ちょっと恥ずかしそうによそへ目線を流す阪根さんの話を聞いているうちに、実月の碧くんに抱くイメージがちょっとずつ固まりつつある。それってなんだか後輩や彼氏っていうより……。


「その時はどうして叱られたんだろうと思ってたんですけど、ああ言ってくるってことは私と真剣に向き合う気持ちがある証拠じゃないって後で友達に言われて、そこからへっきーのことを意識するようになって。で、へっきーといろいろあるうちに彼の私への真剣さに触れて私もへっきーならいいかなと思って、最終的には私がいいよって返事したんです」


 そううっとりとした表情を浮かべる阪根さん。


「で、今はへっきーと同棲してるんですけど、相変わらず世話を焼かれっぱなしなんですよね。でも私もへっきーに言われたダメなとこを直していかなきゃって思うようになってきて、最近はできるだけ自分で部屋を整理するようになりましたし、簡単なものだけど料理もちょっとずつできるようになってるんですよね」

「……なんか、碧くんってお母さんみたいだね」


 そう呟いた途端、阪根さんの顔がどんどん赤くなっていった。


「や、やめてくださいよ。まあ、私もいま話しててそう思いましたけど」


 目を閉じてぷいっと顔を逸らす阪根さん。


「で、でも、へっきーは付き合ってからも私のことをすごく大事にしてくれてますし、ちゃんとアルバイトをして家賃と生活費を半分出してくれるので、今はへっきーと付き合ってよかったって思います」


 碧くんってあんな見た目だけど結構なやり手なんだな。でも、そういう男らしいところが男性不信気味だった阪根さんに「付き合ってもいいかな」と思わせる理由になったんだろうな。

 満面な笑みを浮かべる阪根さんを見ていると、自分も双葉さんのことをこんな風に思う日がやってくるんだろうかと考えてしまう。今はお互いを知る期間として返事を保留にしているが、その判断をするためにはもっと彼女のことを知らなきゃいけないな。


「お。こんな所で何してるんだ?」


 そんな声が給湯室の入り口から聞こえてくる。阪根さんと一緒にその方へ目を向けると、沖田さんが入り口から顔を出してこちらを覗き込んでいた。


「もう始業時間過ぎてるぞ。今日は朝礼があるから早く戻ってこいよ」


 わかりました、と返事をする声が重なって、実月と阪根さんは給湯室を出た。沖田さんの背中を追って歩いていると、隣にいた阪根さんが突然顔を寄せてきた。


「野中さん、さっきの質問を沖田さんにもしてみてくださいよ」

「あ、うん。でもそれはまた今度ね。今はそんな時間が無いし。それに……」


 一瞬言葉に詰まってしまうと、阪根さんが首を傾げる様子を見せた。


「沖田さんのそういう話って、何となくだけど、お酒がある場じゃ無いとキツい気がして」

「あー……」

「野中、なんか言った?」

「な、なんでもないです!」


 明らかに笑ってない笑みで振り返る沖田さんに、背筋をピシッと伸ばしてそう返事を投げたのだった。

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