彼女が東京に来た理由①
さて、一体どうしたものか?
自身の眉間にしわが寄る。実月は今、自宅の机の上に置かれた一台のヘッドホンと対峙していた。耳をすっぽり覆うほど大きい白地に紫色のエッヂで彩られたハウジングは、従来のヘッドホンの無骨な印象よりも近未来感を受けるデザイン。それともうひとつ特徴的なのは、左側のハウジングの下からは弓形の棒状のものが飛び出しており、その先端は丸く膨らんでいる。
これは『EAT(
いつものようにSNSレビューするために、会社から持って帰ってきたこのヘッドホンを普段から試聴に使っているポータブルアンプに繋いでいろいろと聴いてみたところだった。だがその方針について引っかかることがあり、つい難しい顔をしてしまっていたのだ。
少し使ってみた音の感想は、ドンシャリ気味の音のバランスだが全体的に派手になりすぎないような印象だ。解像感ははっきりしている方だがカリカリになりすぎず、低音域のパワー感も重みを持たせつつも丁度いい迫力といったところ。何より音場の広さと定位感が抜群で、オーケストラのどの楽器がどの辺りから鳴っているのかが手に取るようにはっきりしている。流石「ゲーミング」を名乗るだけある。
そうなると実際のゲームプレイはどうなんだ? という話になるのだが、そこでひとつの壁にぶち当たることになってしまった。眉間にしわができてしまったのもそれが原因だ。
詰まるところ、それを確かめるためのゲームを実月は持っていないのである。
こういうゲーミング製品は主にFPSやオンラインRPGで使う人が多いというのが実月の勝手なイメージなのだが、そういうよく名前を聞くゲームソフトをプレイしたことも無ければ、それを動かすためのPCも持ち合わせていない。一応ゲーム機はあるのだが、持っているソフトがテキストゲームばかりである。
それ以外のゲームソフトも机の側にある本棚にあるにはある。文庫本に紛れて並ぶそれは、本よりも明らかに分厚くて背の高い箱。そのどれもが凝ったフォントのタイトルとともに、触りたくなるような可愛らしい美少女のイラストがあしらわれている。中には、女の子が晒しちゃいけないような場所を大露わにしたものまで含まれている。要するにエロゲーというものだ。シナリオに興味を惹かれたのがきっかけでいくつか購入し、時には本来の用途にも使ってみたりして、一応全て最後までクリアはしてある。
しかし最近は全く手を付けておらず、新しいタイトルを買ったりもしていない。単純に興味が薄くなったというのもあるけど、自分が経験したことないことを自分よりも年下の学生主人公が経験する描写を目にする度に虚しく感じられるようになってきて……。
流石にこれで確かめてみるのは違うよなあ。そうなると、やっぱり自分もFPSデビューするべきなんだろうか? レビューのためにソフトを買うのはやぶさかではないが、残念ながらゲームの腕に自信が無い。だが、今後もゲーミング製品を新規に扱う可能性もあるので、手を出して慣れておくべきなのかもしれない。
眉間にしわが寄ったまま、実月は大きくため息を吐く。すると、そのタイミングで机に置いてあったスマホが音を立てて震えだした。天板の上で震えるけたたましい音に驚きながらスマホを手に取ると、そこに映っていた名前に心臓が飛び跳ねた。
『名雪双葉』
どうして? とは一瞬思ったが、お互いの連絡先は交換済みなので掛かってきても不思議じゃない。続けてこんな時間にどうしたんだろうと、スマホを手に取ったまま固まってしまった。だけどそんな中でも鳴り続ける着信音で我に返ると、実月はおそるおそる通話ボタンを押した。
「もしもし」
『こんばんは、実月さん』
スピーカーから聞こえてきた双葉さんの声は、どこかほんの少し硬い印象だった。
「あ、うん、こんばんは……」
そう返事をしてみるものの、双葉さんから電話が掛かってきたということに戸惑っていて言葉が続かない。それは向こうも同じようで、そのせいでスマホ越しに沈黙の時間が生まれてしまった。
「え、えっと、今お電話差し上げても良かったでしょうか?」
沈黙を破ったのは双葉さんからだった。緊張のせいなのか妙に畏まった言葉遣いで実月の様子を伺ってくる。
「うん、全然大丈夫だよ」
そう返事をすると、スピーカーからホッと息を吐く音が聞こえてきた。
「なら良かったです。いま実月さんは何をしてるのかなって気になったので」
「そ、そうなんだ」
こんな時間に双葉さんが自分のことを考えてくれていたなんて、そんなことがあるんだ……。まだお風呂に入った訳でもないのに頬がボッと熱くなるのと同時に、鳩尾の奥辺りがくすぐったくなった。
「えっと、今は音楽を聴いてたところかな」
「どんな曲を聴いてたんですか?」
「いろいろかな。ちょうど新しい製品が届いたから、そのレビューのためにいろいろ聴いていたんだ」
「もしかして、お仕事を持ち帰ってきたとか……」
「全然そんなんじゃないよ!」
そこの所ははっきり否定しておいた方がいいかもしれない。実月が勤める会社は決してブラックではないと思いたいが、今の話の流れだとそんな誤解されそうな気が……。
「あ、そうだ」
せっかく双葉さんがこうして電話してきたのだから、ちょっと訊いてみようか。
「どうしました?」
「双葉さんって普段ゲームとかする人?」
さっきは自分がFPSをしないからレビューのしようが無いということで詰まっていたが、もし双葉さんがそういうゲームをしていたなら彼女に教えて貰って始めてみようか。そう考えて訊いてみたのだが、
「いえ。私は全くそういうのはしないですね」
「あ、そう……」
まあ彼女にFPSをプレイするイメージが無かったのだが、案の定イメージ通りだった。すると、双葉さんはちょっと慌てたような声で、
「あの、もし何かやりたいものがありましたら……」
「あ、大丈夫だよ。今度うちで取り扱う製品がゲームで使うことが前提のやつなんだけど、俺はFPSとかさっぱりだからレビューをどうしようかなって考えてただけなんだ。だから、双葉さんは何も気にしなくていいからね」
双葉さんは実月のためならなんでもやりかねないような勢いの持ち主だったことを思い出す。試聴会の時だってそうだったし。でも全くやらないものを強要するのも気が引けるし、そこまで切羽詰まったようなことでは無い。この件は社内でFPSをやるような人を探してみることにしよう。
「それにしても、実月さんって家でもレビューのお仕事とかするんですね」
「まあね。家の方が落ち着いてじっくり試聴できるっていうのもあるし」
「レビューというのもやっぱり大変ですか?」
「最近はそうでも無いかな。仕事のひとつではあるけど、なんか半分趣味みたいになってるし」
営業の人に押しつけられてSNSでのレビューを始めた頃はレビューなんてどうしたらいいのか分からなくて、いろんなオーディオブログをたくさん読み漁ったし、自社で取り扱うもの以外のイヤホンやヘッドホンを聴いてきたりもした。特に、自分の耳で聴いた音を言葉でどう表現するのか、そのイメージと言葉の照合が一番大変だった気がする。正直、よくオーディオレビューで見かける音の表現というのがどういうものなのか、未だに曖昧だったりすることもある。
でも、そうしているうちにいろんな製品を使って曲を聴くのが段々と楽しくなってきており、今では寝る前の読書と並ぶ趣味のひとつへと成り果ててしまった。もちろん仕事の一環だというのはいつも念頭に置いているし、レビューの文章を作るのは未だに苦労する。でも、そういうのが楽しいと思えているのだからそれでいいと実月は思っている。
「なんかいいですね。そうやって仕事も楽しめるっていうのが」
「そう……なのかな。双葉さんはどうなの? まだ社会人になって一年も経ってないけど、仕事の方は慣れてきた?」
自分のことばかり話すのもアレなので、今度は双葉さんにも話を振ってみる。
「私はまだまだですね。もう毎日覚えることがいっぱいで大変です」
スピーカーから聞こえてくる双葉さんの声にそうなんだと返事をする。双葉さんの会社は広告関連の業種だと、ふたりで飲みに行った時に聞いたことがある。実月の会社とは全く異なる業界なのでイメージすることしかできないが、何となく大変だろうなというのは容易に想像できる。
「特にお客様とのやりとりとか上手く意思疎通できればいいんですけど、イメージが伝わらなかったり、逆にお客様が求めるものを私が上手く汲み取れなくて落ち込むことが多いです」
「やっぱり大変なんだね。それでもちゃんとやりとりを頑張ってる双葉さんはすごいと俺は思うよ」
そう言ってあげると、スピーカーの向こうから息を飲むような音が聞こえた。
「でも、実月さんと比べたら私なんてまだまだですし」
「い、いや、俺はお客様と直接やりとりするような仕事じゃないけど……」
「でも、この前の試聴会の時はちゃんと接客できてましたよ」
「あれはもう慣れっていうか、こういう風にすればいいって自己流のテンプレートみたいなものをなぞってるだけみたいなものだからさ。それと比べたらすごいことだと思うよ」
仕事の内容で優劣をつけるつもりは無いけれど、それでも双葉さんの仕事というのは実月よりも大変だというのは今の話で想像できる。そんな所に社会人一年目で飛び込んで向き合っているのだから、それだけでも十分立派だと言っていいと思う。
「あ、ありがとうございます」
電話口の向こうでぺこりと頭を下げる双葉さんが今の返事で頭に浮かんでくる。その様子があまりにも可愛らしくて、つい頬が緩んでしまった。
「あ、そうだ! 実月さんは来週の土日、予定が空いてますか?」
「えっ?」
唐突に来週の予定の話に切り替わり、つい呆気にとられてしまった。そのまま言葉を出せずにいると、双葉さんが続けて、
「あの、この前は実月さんからデートのお誘いを受けたので、次は私からです。それで予定の方はどうですか?」
「あ、えっと、特に予定は無いけど」
「じゃあ、一緒に映画を見に行きませんか?」
そう実月を誘う双葉さん。映画なんていつ以来だろうか? ここ数年くらい映画館に足を運んでいないどころか、今どういうものが公開しているのか全く把握していないレベルだ。
「うん、いいよ。俺、映画なんてしばらく見てなかったから」
「それなら良かったです。では、詳しいことは後でメッセージで送りますので、来週は予定を空けておいてくださいね」
あっという間に次のデートの予定が出来てしまった。なんだか双葉さんの勢いに押される形で簡単に決まってしまった気がして、その事実が半分くらい受け止め切れていないようだった。でもスピーカー越しの双葉さんの声はどこかウキウキとしていて、それを聞いていると抱いてしまった戸惑いが段々とどうでもよくなった、ような気がした。
「それじゃ、私はこれで失礼しますね」
「えっ、もういいの?」
「本当はもうちょっと実月さんと話していたいですけど、私、明日も早いので」
「そうなんだ」
やっぱり双葉さんの仕事は大変なんだな。そう思うと同時に、心の中で何かがむずむずとし出している。もしかしたら、俺も双葉さんと同じ気持ちなのかな……。
「……あ、あのさ」
もう通話を切ろうとしていたであろうところで、つい呼び止めてしまった。
「もし明日も余裕があったらさ、また電話かけてきてもいいからね。明日じゃなくても、何か話を聞いて欲しいことがあったらいつでも話し相手になるからさ」
ちょっとした照れくささで震えそうなのを抑えた声でそう伝えると、電話の向こうから息を飲む音が聞こえてきた。
「じゃあ、明日もまた電話してもいいですか?」
「うん、いいよ。あ、でも無理にかけてこなくてもいいからね」
「あ、ありがとうございます」
双葉さんの返事に、実月の心でざわついていた何かが段々と静まりかえっていくのを感じた。
「それじゃ、また明日、お互いに頑張りましょうね」
「うん。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみな……、あ、その前にひとついいですか?」
何かを思い出したかのように呼び止められて、スピーカーから耳を離そうとしてた手が止まった。
「何?」
「最近はいろいろ物騒みたいですから、ちゃんと戸締まりしてくださいね」
「う、うん。わかったよ。双葉さんも気をつけてね」
「はい。じゃあ、改めておやすみなさい」
そうして双葉さんとの通話は終了した。スマホの画面の時計を見ると、ヘッドホンとにらめっこしていた時間よりもかなり進んでいた。
終わってみると、プライベートでここまで人と話す機会というのも珍しいせいか、なんだか満ち足りた気持ちになっている。終わり際に名残惜しさからいつでも電話してきていいよと言ってしまったけど、これからこういう時間が増えていくんだろうか。なんだか悪くない気がするな。
それにしても、最後の戸締まりの話は一体何だったのだろうか?
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