彼女が東京に来た理由④

「おおー、こんな所に本屋さんがあるんですね」


 双葉さんが目を大きく開いて感嘆の声を上げる。ついさっきこれから本屋に行きませんかと双葉さんに言われて、連れてきたのは日比谷からちょっと歩いた所に有る丸の内のビルに入居する大型書店だ。


「うん。俺も初めて知ったときは驚いたよ。ビルの中にこんな大きな書店があるなんて思わなかったから」

「あの、ここってこの上の階も同じ本屋さんなんですか?」

「確か四階まであったはずだよ」

「マジですか!」


 双葉さんが目を見開いて実月の顔を見上げるが、そんなリアクションをしたことの方が実月にとって驚きだ。


「双葉さんの地元にはこういう大きな本屋って無いの?」

「いえ、あるにはありますけど、ここみたいにビルのフロアを跨がっているような所は初めてでして」


 物珍しさからなのか、彼女の目の周りでたくさんの光の粒が煌めいてるように見えた。確かにこんな感じの大型書店は大都市特有のものかもしれない。実月の地元である北海道でもこんな書店があるのは、実月の知る限り札幌ぐらいだろう。むしろ、地方なら車で行くような所にドンと大きな建物を構えているイメージが強いかもしれない。


 双葉さんと一緒に自動ドアをくぐるとガラッと空気が変わる。それまでの至る所から様々な音が反響していた空間とは打って変わって、耳へ飛んでくる音が限りなく少ない空間に思わず口元にぐっと力を込めて結んでしまう。ここにいる誰もが余計な音を出さないよう意識しているような、一種の緊張感を孕んだ雰囲気。それを全身で受け止めることで自分が書店に来たんだという実感を味わえるような気がする。

 双葉さんを連れてエスカレーターで文庫本が並ぶ階まで上がる。大きな書店ということもあって人の数が多めだが、静寂さがそれに比例していないのはここでも相変わらずだ。


「さっきの映画の原作本なら、この辺にあるんじゃないかな?」


 ふたりで観た映画の原作を読んでみたいという双葉さんを連れてやってきたのは、映画やドラマなど映像化した作品が並ぶコーナーだ。そこは手書きのポップやその映像化作品に出演する俳優のイメージ写真を使ったフライヤーが貼られていたり、映画仕様のカバーを纏った本が並んでいたりと、周囲の棚と比較せずとも明らかに浮いた存在だ。

 そんな映像化コーナーの棚を指先で追いながら探していると、お目当ての本は棚の一番下で平積みされていた。


「これだね」


 そう手に取って双葉さんに見せた『マコとアキラ』の原作本は実月が以前買った時と同じカバーだったが、大きく「映画化決定!」の文言と共に主役ふたりがそっぽを向きながら並ぶ写真が印刷された帯が巻かれていた。


「あれ? タイトルが映画のものと違いますけど」

「それはシリーズの総称みたいなものだからね」


 実月が手に取った本はシリーズの第一巻に当たる。基本的に連作短編の形を取っていて、本のタイトルは収録作の中のひとつが表題作となっているようだ。一緒に棚へ並べられている続刊でもそのルールは同じのようだ。


「そうなんですね。ありがとうございます。帰ったら早速読んでみますね」


 実月から本を受け取った双葉さんがにっこりと微笑む。


「それじゃレジに行こうか……」

「あ、待ってくださいっ」


 レジへ向かって動き出そうとしていた足が、双葉さんによって呼び止められる。


「せっかくなので、もうちょっと見ていきませんか?」

「えっと、俺は全然平気だけど。ほかに何か気になる物とかあった?」

「そういうわけでは無いんですけど、その、実月さんのおすすめの本とかも教えて欲しいなあって」

「お、俺のおすすめ?」


 思わず出てしまった変な声にも、双葉さんは真剣そうにはいと返事をしてくれた。そんなことを訊かれるとは思っておらず、咄嗟に目線を上げて頭の中を総ざらいしてみる。最近読んだ本から遡って思い出してみるものの、双葉さんに勧める本となるとうっかり変な物を紹介できないので悩ましい。


「そうだなあ……。じゃあ、ちょっとついてきて」


 とりあえずパッと頭に浮かんだ本を探しに行くために足を動かし始めると、双葉さんも返事をしながら後をついてきた。そこからフロアをエスカレーターでひとつ下って向かったのはコミックコーナーだ。といっても用があるのは漫画が並ぶ棚では無く、その近くに並べられていることが多いライトノベルの棚だ。

 一般の文庫本よりも目がチカチカする色使いの背表紙とポップなキャラが描かれた表紙が並ぶ棚の中から目的のレーベルを探し当てると、実月はその棚を人差し指でなぞりながらひとつひとつタイトルを確認していく。時々見かける頭の悪そうなタイトルに目を細めたりしていると、その中から目的のタイトルを見つけた。


「あったあった。これは最近読んで印象に残ったやつだよ」


 棚から引っ張り出したのは『透明な僕らのゆくえ』という作品だ。深い闇色の空と高層ビルを背景に線が細く儚げな女性キャラが描かれた表紙を見せながら差し出すと、双葉さんはそれに一瞥してから顔を上げる。その顔は虚を突かれたような表情をしていた。


「……どうしたの?」

「あ、いえ、なんでもないです。これはどういうお話なんですか?」

「えっとね、主人公がある日突然誰にも認識されない透明人間みたいな存在になっちゃって、同じような状況のヒロインと一緒に自分たちの居場所を求めて東京の街を彷徨うって話。切ない感じの現代ファンタジーで、雰囲気がすごく良かったなって」


 差し出した本の内容のざっくりした説明を、双葉さんは口を細く開けながら静かに聞いている。今の説明で内容が伝わってくれたらいいけれど……。そう考えていたら、双葉さんがパッと顔を上げた。


「実月さんって、こういうファンタジーな作品が好きなんですか?」

「いや、別に何か特定のジャンルで選んでいる訳じゃないよ」


 実月は手に持っている本を裏返し、そこに書かれている文章を双葉さんに向けて指し示してみた。


「こういうあらすじとか読んでみて、面白そうって思ったら買って読んでみるって感じかな。あ、でも、ラブコメとか読むことが多いかも」

「ラブコメが好きなんですか?」

「好きっていうか、手に取っちゃうことが多いかも。ラブコメで最近読んだやつだと……」


 もう一度本棚に向き直ると、また指でなぞりながら目的の本を探していく。そしてその中から引っ張ってきたのは「プリズムの向こう側」というタイトルの本だ。


「これも良かったよ。今まで幼なじみだと思ってた人に彼女が出来て、そこで自分の気持ちに初めて気がついて戸惑う様子が切なくて良かったなって」


 そんな簡単な説明と一緒に本を双葉さんに差し出すと、彼女は不思議そうな顔で本の表紙と実月の顔を見比べていた。


「……どうしたの?」

「あ、いえ。ラブコメと聞いたので、てっきりこういう物をおすすめされるのかなって思っていたので」


 双葉さんが指差したのは、棚の中で表紙が見えるようにおかれていた一冊の本だ。まるで出オチのようなポップな長文タイトルの横で、金髪で巨乳のギャルみたいな女子高生がこっちに向けて誘うような目線を送っている。


「あー。まあ、こういうのも読むことはあるかな……」

「……読むことがあるんですね」


 ハッとして双葉さんに目を戻すと、彼女が頬をむくっと膨らませている。その瞬間、この前のグルメフェスでのことが頭に過った。


「で、でも、あくまであらすじを読んで内容が気になったら手を出すくらいだし。それに読んでみたら意外に面白いかもしれないからね」

「……それはそうですけど」


 そう呟く双葉さんだが、表情はまだ納得がいかないとでも言いたげだ。もしかして何か誤解された?


「ま、まあでも、最近は主人公がいきなりモテモテみたいな既にお膳立てが済んでいるような作品よりも、ヒロインとの関係が深まっていく様子だったり、自分の気持ちに戸惑ったり、そういうのを丁寧に描いてくれる作品が好きだなって自分でも思うようになってきてるんだよね」


 もう歳なのかな、と付け加えながら誤魔化すように口から笑いをこぼす。そうしてチラッと双葉さんに目を遣ると、むっとしていた表情が徐々に緩くなっていくのが見えたのでホッと胸を撫で下ろした。すると、


「じゃあ、実月さんが今まで読んでみて面白かったラブコメも教えて欲しいです」

「へ?」

「せっかくですから、実月さんがどういう恋愛ものが好きなのか把握しておきたいので」


 そんなことを満面のニコニコ顔で言い出す双葉さん。その顔に悪寒を感じたのは気のせいだと思いたい……。





「実月さん、今日はありがとうございました!」


 書店からの帰り、千代田線のシートにふたりで並んで座っていると、双葉さんが実月の顔を見ながらお礼を口にした。その膝の上には書店のロゴが入った紙袋が乗っかっている。


「実月さんに教えて貰った本、帰ったら早速読んでみますね」

「うん。でも、夜更かしはしないようにね」


 結局、双葉さんは映画の原作本も含めて六冊の文庫本をお買い上げしていた。一冊一冊の値段はそこまで高くはないものの、映画のチケットを含めると今日だけでそこそこの出費になったと思う。だけど、双葉さんの顔はほくほくという擬音が聞こえてきそうな程の満足感に満ちあふれていた。


「はい。流石にそこまではしませんよ。私もいい大人ですから」


 得意げにそう口にするがどうなんだろう? 今まで彼女を見てきた感じから、実月のためなら平気で突っ走っちゃうようなイメージがついてしまっている。だから、今日買った本を全て読み切ろうと夜更かししてしまうんじゃ無いだろうか?

 でも、もし彼女が今日買った本を読んでくれたら、そのうち感想を聞いてみたりする楽しみが増えていくんだろうな。これが誰かと楽しみを共有するってことなんだろうな。


「読み終わって、よかったら今度感想を聞かせてね」

「はい」


 双葉さんがそう返事をすると、そのすぐ後にふふっと嬉しそうに含み笑いをこぼす。


「どうしたの?」

「いえ、今日は実月さんのことをもっと知れて良かったなって思ったので」

「そ、そんなことで?」


 そんなことでそこまで嬉しそうに出来るものなんだろうか? なんだか照れくささがこみ上げてきて顔が段々と熱くなっていくのを感じた。


「はい。実月さんがラブコメ好きというのはちょっと意外でしたけど。何かきっかけとかあるんですか?」

「ええっ?」


 いきなり振られた質問に、つい困惑の声が出てしまう。ラブコメを好きになるきっかけとかあんまり訊かれることじゃないから、どんな風に答えればいいのか困るんですけど……。


「きっかけ……とはちょっと違うんだけど、ラブコメで描かれるような恋愛に憧れがあったって言うのかな」

「憧れですか?」

「うん。さっき膳立てが済んでいるような作品はあんまりみたいなことを言った手前なんだけど、そういう作品の主人公のことが羨ましいと思う時期があったんだよね」


 こんな話を双葉さんにしたら、また頬を膨らませて怒り出すんだろうな。そう思って双葉さんをチラッと見ると、彼女は首を傾げながら実月に目線を送っているだけだった。


「それって、あの頃に戻りたい的なことですか?」

「いや、そういうのとは違くて」


 多分だけど、今の自分が高校時代に戻ったとしても、きっとラブコメのような羨ましいことが起こるとは思えないし、上手くいくとも限らないし……。


「なんて言うんだろう? 学生時代って地位とかお金のこととか、そういうのに縛られない自由な恋愛がしやすい時期だと思うんだよ。俺はそういう経験が今まで一切無かったから、そういうのが羨ましいのかもね。大人、というか俺みたいな歳になると結婚するためには収入とか立場とか、そういうものも重要になってくるからこそ尚更なのかな」


 もちろん大人だからこそ出来る恋愛というのもあるのは理解している。だけど、歳を重ねる毎に収入や立場といったスペックが互いの気持ちよりも優先されがちな気がして、今からでは純粋に恋愛を楽しむということができないのではという考えが生まれてしまったのだ。我ながら馬鹿馬鹿しい、もっと現実を見ろと言いたくなる考えだとは自覚している。

 気がつくと、高速で通り過ぎる蛍光灯ばかり映る窓を遠い目で眺めていてしまっていた。ハッと双葉さんの方に顔を向けると、彼女はどこかムスッとした表情で実月を見つめていた。


「い、いや、俺も流石に何言ってるんだろうとは思うよ。もう三十近いしそんなこと言ってられないって……」

「実月さん」


 ぴしゃりと名前を呼ばれて、実月は口を止める。そんな実月のことを双葉さんは真剣な目で見つめていた。


「な、何?」

「私はそういうのに年齢なんて関係ないと思います。もちろん収入とか立場とかも大事ですけど、それより自分が好きだと思う人と一緒に楽しく過ごしたいという気持ちに年齢は関係ないです。私はいくつになってもこの人と一緒に生きていきたい、楽しく過ごしたいって思える関係でありたいと思ってますので」


 いくつになってもこの人と一緒に楽しく生きていきたい思える関係。そういう人に出会えたら一番幸せなことなんだろう。そして、そのことを堂々と面と向かって言える双葉さんの姿が、その瞬間なんだか頼もしいと思えてしまった。


 やがて、ふたりが乗る列車の走行音が少しずつ落ち着いてきて、車内アナウンスがもうすぐ北千住に到着することを告げる。


「じゃあ、俺はこれで失礼するね」


 実月が下りる準備のためにシートから立ち上がる。ドアの方には、北千住で下りる人達が集まり始めている。


「はい、今日はありがとうございました。気をつけて帰ってくださいね」

「双葉さんも帰り道に気をつけてね」

「はい。あ、それと」


 ドアの方へ向かおうとした実月の足を双葉さんが呼び止める。まだ何かあるのかなと思って振り返ると、


「家に帰ったら、ちゃんと戸締まりしてくださいね」


 実月の目を真っ直ぐに見つめながらの戸締まりの話に思わず首が傾いた。そういえば、この前に電話したときも最後にそんなことを言われてたっけ。そんなことをいきなり言い出すようになったのはどうしてだろうか?


「あのさ」

「……はい?」

「この前も戸締まりのことを言ってたけど、何かあったの?」


 いきなりそんなことを言い出すのだから、泥棒に入られたんだろうかという心配が頭に過る。すると、双葉さんは自分の顔の前で手を振った。


「いえ、私の実家の話なんですけど、この前空き巣が入ったって弟から電話で聞いたので……」


 なるほど。彼女からしたらあまりよくないだろうけど、少なくとも双葉さんに直接被害が無かったということで、実月の口から安堵の息が漏れた。

 列車はすでに北千住駅の地下ホームに進入しており、プラットホームの流れていく速度が徐々に落ちていくのが見えた。


「そ、それじゃ俺はこれで」

「はい。実月さん、お気を付けて」

「うん。双葉さんもね」


 列車の扉が開き、実月はプラットホームへ下りる。ふと自分が乗ってきた列車の方を見ると双葉さんがこっちの方を見ており、窓越しに笑顔で手を振っていたので実月も手を振り返してみる。少ししてブザーと共に列車の扉がしまり列車が動き出すと、双葉さんの姿が見えなくなるまで実月は手を振り続けていた。

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