彼女が東京に来た理由⑤

「野中さん、今いいですか?」


 声を掛けられた方へ振り向くと、隣の席に座ってパソコンと向き合っている阪根さんと、その側に立ってこちらを見ている白川くんがいた。


「阪根さんがページを作り終えたので、確認の方をお願いします」


 実月たちEC担当は個人向け製品の紹介などを掲載するウェブページを作成する業務も行っている。というより、元々ウェブページ作りを行う部署に営業の人間を加えてECを始めようという話から始まったことなので、実月たちからしたらこちらの方が本業といった感覚だ。その仕事を阪根さんにも覚えて貰う目的でひとつのウェブページの作成をお願いしており、白川くんにはページの作り方を教えるよう指示していた。


「うん。ちょっと待ってね」


 書類を手に取って阪根さんのパソコンの画面を覗き込む。彼女にお願いしたのは画像が無いテキストのみのページだ。阪根さんが緊張の面持ちで見守る中、実月は画面のテキストと印刷したメールの文章を一文字ずつなぞるように見比べる。文章自体は営業担当が事前に作成したものをメールからコピペするだけだ。ただ、広く人の目に触れるものなので作った本人以外によるチェックを怠ってはいけない。


「うん。文章もメールの通りだし、これで大丈夫だよ」

「あ、ありがとうございます!」

「じゃあ、もうこれで公開しても大丈夫ですか?」


 白川くんにそう尋ねられてメールの文面にもう一度目を落とすが、どこを探しても公開タイミングについての指示が書かれていなかった。新製品の取り扱い発表みたいなリリースなら公開する時間が決められているのだが、今回作って貰った物はそういう発表の類いでは無い。なので今すぐ公開しても問題ないと思うのだが……。

 これは沖田さんに確認してみるか。そう思ったところで背後から声が掛かった。


「それ、出来上がったならすぐ公開していいって三枝さんが言ってたぞ」


 振り返ると、すぐ後ろで沖田さんが実月たちを見下ろしていた。どうやら役職者会議から帰りたてようだ。


「わかりました。じゃあ、アップの仕方なんだけど……」


 沖田さんの指示を受けて、白川くんが早速パソコンの画面を指差しながら公開のやり方を教え始める。彼は阪根さんより年下で派遣社員という立場なのだが、一年先輩としていろいろと教える姿が板に付いてきている。しみじみした気持ちで白川くんを見守っていると、またしても背後の沖田さんから声が掛かった。


「野中、阪根ちゃんがこれを公開したらSNSにもこれのリンク出しといて」

「はい。わかりました」

「よし。それが終わったらもう十五時過ぎてるし、ちょっと休憩して大丈夫だぞ」


 沖田さんのその言葉に対して、はい、と返事するタイミングが実月と阪根さんと白川くんで被る。もうそんな時間なのか。壁に掛かった時計に目を遣ると、確かに短針は「3」を指していた。

 出来上がったページの公開もそこまで時間が掛からずに完了し、阪根さんと白川くんが揃って一息をついた。実月もコーヒーをもらいに行こうかななんて考えていると、阪根さんがぽつりと口を開いた。


「それにしても、製造不備で発売取り止めなんてことがあるんですね」


 彼女に作って貰ったリリースの内容は、この会社が今後取り扱う予定だった完全ワイヤレスイヤホンに関することだった。それは中国の新興メーカーが発売したもので、試聴会でもいろんな人から好評の声を頂いている。実月自身も六千円台でこれだけいい音を鳴らしてるのだからコスパ抜群だなと好印象を抱いていた。

 このイヤホンは既に中国で発売されており、日本向けの分も間もなく出荷されるところだった。ところが、初期ロットにおいて本来使用するはずだった部品と異なる物を誤って組み込んでいたことが発覚したとメーカーから連絡があったらしく、回収しようにも既に越境ECで多数販売されていることから困難と判断したのか、メーカーはこのイヤホンの製造を中止して廃番、既に購入した人に新作を無償で送付という対応を執ることにした。これを受けて、実月が勤める会社も取り扱いを止めるという対応をせざるを得なくなったのだ。

 良い報せとは決して言えない内容だけに、このイヤホンの国内展開に向けて尽力していた営業さんの表情が浮かない様子だったのが印象に残っている。そんな雰囲気を感じ取っていたのか、阪根さんの顔もどこか神妙だった。


「この会社に七年いるけど、こんな事態は初めてかも」

「俺も十一年目だけど初耳だな。まあ、今まで小ロットで作ってたメーカーが急に規模を大きくしたみたいだから、その拡大に現場が順応しきれなかったんだろうな」


 営業さんから聞いてきたであろう現場の内情を時々耳にするけど、その度にやっぱり現場は大変なんだなと感じてしまう。阪根さんもそうなんですねと頷いていた。すると、何かに引っかかったのか阪根さんは突然首をひねりながら実月の方を振り向いた。


「あれ? 野中さんって七年目なんですか?」

「そ、そうだけど……」

「でも、沖田さんとは歳が三つ違うだけなんですよね?」


 不思議そうに首を傾げている阪根さんの奥で、白川くんもそういえばと言いたげに実月を見ている。ああ、気づいてしまったか。まあ別に隠していた訳じゃないし、訊かれる分には全然構わないんだけど。


「うん。だって俺、高校を留年してるからね」


 そう口にすると、阪根さんと白川くんが揃って目を丸くした。


「そ、そうなんですか? なんかごめんなさい」

「ううん、気にしなくていいよ。もう昔の話だし」


 そのことで変に気を遣われるのは本意じゃない。だから気にしてないよという意味を込めて手を振りながら笑ってみせる。すると、


「そういえばさ、野中は双葉ちゃんと最近会ってるか?」


 いきなり双葉さんとのことを尋ねられてぎょっとしながら振り返ると、沖田さんが缶コーヒーに口をつけながら実月を見下ろしていた。


「な、なんですかいきなり」

「いや、普通に訊いてるんだからそんな身構えなくたっていいだろ」


 それはそうなんだけど、沖田さんから振られる双葉さんとの話題は大体冷やかし目的が多い。今だってどうせニヤニヤしているんだろうと、つい条件反射で身構えてしまった訳なのだ。

 ところが、振り返って見上げた沖田さんの目は普段通りというべきか? 少なくとも目を細め口角をつり上げているような様子では無くて、そんな様子が目に入って拍子抜けしてしまった。


「で、どうなんだ?」

「ち、ちゃんと会ってますよ。この前だってふたりで映画見に行きましたし」

「おおっ、やるじゃないですか」


 隣から阪根さんが割って入ってくる。彼女の方へ振り向くと、今にも脇腹を肘で小突いてきそうなにやけ顔で実月を見つめていた。真に身構えるべきは彼女に対してだっただろうか? その奥にいる白川くんは始まったと言わんばかりにそっと目を逸らしてしまった。


「で、双葉ちゃんとはどこまでいったんですか?」

「な、何が?」

「ふたりで映画を見た後ですよ。その後はどうしたんですか?」

「い、いや、カフェでおやつを食べて、その後は本屋に寄ってから解散したけど」


 そう答えると、阪根さんはどこか物足りなさそうに目を細める。どうやら期待されていた答えではなかったようだ。


「えー、もうそろそろちゅーとかしてもいい頃だと思うんですけど」

「いやいや。そもそも俺たちはまだ付き合ってもない訳だし」

「なんでですか? もういい加減告っちゃいましょうよ」


 告っちゃおうって……。双葉さんとはまだ数ヶ月程度の付き合いな訳で、まだまだお互いのことを知る段階だと思うんだけど。阪根さんにとってじれったいのかも知れないけれど、せめて自分のペースでやらせて欲しいところだ。

 ここでふと沖田さんの方に目を遣ってみる。いつもだったら阪根さんのノリに加わってあれこれ言ってくる頃合いなのだが、横槍が全然入れずに静かなのが気になったからだ。そんな静かな沖田さんはというと、何やら難しげな顔で実月のことを見ていた。


「あの、どうかしました?」

「……ちょっと双葉ちゃんのことで訊きたいことがあってさ。映画っていつ行ったの?」

「丁度この前の日曜日でしたけど」

「その時、双葉ちゃんの様子がなんか変とか、そんなことを感じなかったか?」


 その質問に思わず首を傾げた。映画に行ったときの双葉さんの様子なんて、どうしてそんなことを訊いてくるのだろう?


「……双葉さんの様子ですか?」

「うん。あ、気になったことが無いならそれでいいんだけど」


 何か気になったこと……。実月は双葉さんと映画に行った日のことを頭の中でプレイバックする。とはいえ、思い出せるのはニコニコした笑顔を見せたり、時々恥ずかしさの余り赤面してしまったり、そんな普段通りとも思える彼女の様子ばかりだった。


「そうですね。いつも通りだったと思います」

「本当?」

「はい。あ、でも、別れ際に戸締まりには気をつけてくださいって言われた位ですかね」

「なんですかそれ?」


 ふと思い出した戸締まりの話を口にした瞬間、阪根さんが横から食いついてきた。


「なんか双葉さんの実家に空き巣が入ったみたいで、それで戸締まりに敏感になってるんじゃないかな」

「そうか……」


 なんだか訳ありげに返事をする沖田さん。その煮え切らないような態度が気になって実月は口を開いた。


「あの、双葉さんがどうしたんですか?」

「いや、昨日俺の彼女が言ってたんだけど、双葉ちゃんの様子がおかしいって」

「え?」

「仕事中表情がずっと暗くて終始真っ青な感じがするって言ってた。それに仕事もいつもより手についてないみたいでミスも多くなってるっぽい。一度話を聞いてみようとしたんだけど『なんでもないです』って何も話してくれないみたいでさ、純がめっちゃ心配してたんだよな」


 沖田さんの口振りから、沖田さんの彼女さんが抱く心配が伝わってくるようだ。話を聞いているうちに、この前映画を見に行ったときの双葉さんの表情の一々が脳裏に浮かんでくる。いくら思い返してもいつも通りの可愛らしい笑顔しか浮かばないのだが、だからこそ何があったのかが気になってしまう。胸の内がチリチリと騒ぎ始める。


「野中さん」


 横から阪根さんに声を掛けられそっちを振り向くと、阪根さんが真剣な目で実月を見つめていた。


「ここは野中さんの出番ですよ」

「な、何が?」

「双葉ちゃんを飲みに誘って話を聞いてあげましょう。同性の会社の人に話しづらいことでも、男性の野中さんになら話せるんじゃないですか?」

「そ、そうかな?」


 真剣な眼差しの中に輝きを秘めた瞳の圧に思わずたじろぐ。むしろ異性だからこそ話せないことだってあるはずだと思うんだけど……。

 今の阪根さんの話を沖田さんはどう考えているのだろうと沖田さんの方に目を向けると、難しげな表情はそのままにうんうんと頷いていた。


「まあ、男だから話しづらいことだってあるだろうけど、話を聞いてやるってやるのもアリだと思うぞ」

「……そうですか」


 でも、仕事が手につかない程に様子がおかしいとしたら実月としても心配なことに変わりは無い。明日の仕事終わりに食事に誘ってみようかな?

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