習慣を取り戻す朝

 気がついたら自分の目は勝手に開いていて、窓の方を見るとカーテンの向こう側が青みを取り戻しつつあった。

 今は何時だろうと枕元の電波時計を手に取ると、もうすぐで朝の五時半になるところだった。双葉さんはまだ隣の布団にくるまって寝息を立てている最中だろう。身体をゆっくり起こしてみると瞼がまだ少し重いけど頭はすっきりしている。目覚めとしては最高なはず。

 だけど、気持ちがどこか晴れた気がしない。それは双葉さんと宅飲みした金曜日の夜から……、いや、もっと前から自分の中に住み着いたものだと思う。思えば最近は考えることが多すぎて、ふとした拍子にそれらのために思考領域を持っていかれてしまう。


 ……久しぶりにあれをしてみようかな。


 そう思い立って音を立てないように掛け布団をめくり、ベッドから足をゆっくり下ろした。


「おはようございます」


 まだ薄暗い部屋の真ん中から声が聞こえてきて、実月は思わず両足を跳ね上げてベッドに尻もちをついてしまった。声のした方に目を遣ると、布団の中で横になったままの双葉さんが実月のことを見つめていた。


「お、起きてたんだ……」

「はい。実月さんも、いつもこの時間に起きてますよね」

「もしかして、双葉さんのことをいつも起こしちゃってたりする?」

「あ、全然気にしなくていいですよ。私も六時前には目を覚ます方ですし」


 布団から上半身を起こしながらそう答える双葉さん。それを聞いて実月はホッと胸を撫で下ろしながら、シーリングライトから垂れ下がるの紐を一回引っ張る。


「それにしても、実月さんって早起きですね」

「ま、まあね。ちょっと前までは五時くらいに起きて、朝の運動というか、ちょっとジョギングするのが日課だったから」

「そうなんですか?」


 ぱっと明るくなった部屋の中で、双葉さんが意外だと言わんばかりに目を丸くする。かなり前だが、沖田さんにこのことを話した時も同じリアクションをされたことがある。まあ、自分は見た目通りちょっと鈍くさいから仕方がない。

 すると、双葉さんが実月のお腹の辺りをまじまじと見つめながら、


「なるほど。だから実月さんっていっぱいご飯を食べる割に体型がスリムなんですね……」

「そ、そうかな?」

「はいっ。すらっとした見た目で素敵だと思います」


 まさか自分の体型を褒められるとは思っていなかったので、実月は思わず双葉さんから顔を逸らした。むしろ最近はちょっとお腹が出てきている気がするので、食べる量をちょっと減らすべきか悩んでいたところだ。


「ま、まあ最近はいろいろあって全然できてなかったから、久しぶりに行ってみようかなって」

「そうなんですね。それなら私はその間に朝ご飯を用意しますので、行ってきていいですよ」


 双葉さんが布団の中から立ち上がる。そのままキッチンへ向かうのだろうと思ったのだが、彼女はその場に立ち止まったまま実月のことを見つめ続けている。なんでそこから動かないのかと思わず彼女を見つめ返していると、同じことを考えたのか双葉さんがキョトンとした表情で首を傾げた。


「あの、行かないんですか?」

「い、いや、行ってくるよ。行ってくるけど、その前に着替えなきゃいけないから……」


 そこまで口に出すと双葉さんがハッと息を呑んだ。実月がベッドから動かない理由を上手く察してくれたようで、途端に頬を紅く染めながらガバッと頭を下げ始めた。


「す、すみません! あの、じゃあ私は今から顔を洗ってくるので、実月さんはゆっくり着替えて頂いて結構ですのでっ」


 そう言い残すと、双葉さんはそそくさとキッチンの扉を開けて部屋から出て行ってしまった。間もなくその奥からバタンと扉が閉まる音が聞こえてくる。変に慌てさせてしまっただろうか? 若干の申し訳なさを感じながら、実月はチェストの中からジョギング時にいつも身につけるウェアを取り出す。そして、双葉さんがいつ戻ってきてもいいように手早くパジャマを脱ぎ始めた。


 もう十月も終わり頃なので、外の空気は十分に冷え切っているはず。流石にシャツだけじゃ寒いだろうから、その上からパーカーを羽織りジッパーを上げる。これで良し。一息吐いてからキッチンへ入ると、双葉さんがちょうど同じタイミングで洗面所から出てきたところだった。


「あっ、もう行きますか?」

「うん。顔洗ってからすぐ行ってくるよ」

「わかりました。その間に朝ご飯を用意しておきますので、気をつけて行ってきてください」


 双葉さんはそう言い残すと、実月と入れ替わるようにリビングへと入っていった。



 いっち、にー、さん、しっ……。次は横曲げの運動……だったかな?

 頭の中で流れるラジオ体操の曲に合わせて身体を曲げたり腕を伸ばしていると、寝起きで凝り固まった身体の節々が程よく解れていくのを感じる。その気持ちよさを感じながら、自分が住むマンションの入り口の前でジョギング前の準備運動を淡々とこなしていく。


 身体を動かしながらふと空の方に目を向けると、ちょうど向いている方角の遙か遠くから鮮やかなオレンジの光が差していた。真っ黒だった空がその光によって元々の青さを取り戻そうとすることで生まれるグラデーションは、何度目にしていても思わず見とれてしまう。

 これだけでも十分に早起きする価値はあるはずだよな。そう思いながらラジオ体操の行程を一通り済ませると、実月は一息空気を肺に入れてから通りへと足を踏み出した。


 早朝故に人の姿が無い静かな住宅街の道を程よい速さで走り抜ける。リズムよく息を吸ったり吐いたりを繰り返しながら、全身で澄んだ空気を受け止める。思った通り服を貫くほど風が冷え切っているので、自分の身体の芯が小刻みに震えているのがよくわかる。だけどしばらく走っていれば次第に身体も温まってくることだろう。

 一定の速さを維持しながら走っていると、道の突き当たりに緑色の壁がどんどん近づいてくるのが見えた。正確には低い草が生した斜面で、ここを登ると荒川を一望できる土手の上へ行くことができる。この辺りを往復してから来た道を戻っていくのが、実月がいつも行うジョギングのコースとなっている。


 土手の斜面の目の前まで走り、近くの階段から土手の上へと登っていく。登りきった先で荒川の向こう岸に目を向けると、そこにはいくつもの高い柱で支えられた首都高速の壁が視界の右から左へと横切っていた。こんな土手の上の更に高いところにまで高速道路が張り巡らされているその姿は、実月の地元ではまず見られない光景だ。

 北千住に住み始めてから何度も目にした景色ではあるけれど、実月はこれを見かける度に昔テレビで流れていたアニメ映画の終盤のシーンを思い浮かべてしまう。夕暮れ時の土手の上で、高校生のヒロインが未来からやって来た少年と再会の約束を交わして別れるシーン。そんな一幕が脳裏に浮かんでは自分の心の奥底で疼き出してしまうものがある。実月にとって青春の時期はとっくの昔に過ぎ去ったものだけど、やっぱりどれだけ時を重ねてもこのコンプレックスは消えることは無いんだろうな……。

 って、いけないいけない。思わず足を止めていたことに気がついた実月は顔を左右に振ってから再び走り始めた。


 リズムを作って息を吸って、吐いて、それに合わせて腕を振り、足を前へ動かす。単調ではあるけど、このペースを繰り返すことが大切。この単調さを一心不乱に続けることで、いま自分の頭を支配している様々な考え事を一時的に忘れることができるからだ。

 実月がジョギングを始めたそもそもの理由がこれだった。たしか、大学生になって一年目の秋頃だっただろうか。当時は身内のことで色々あり、そのせいで自分自身を責め続けるような日々が続いていた。そんな状態でも普通の人と同じように振る舞ってなんとか大学の講義に通い続けていたのだが、精神状態が顔に出てしまっていたのだろう。同期や先生達に心配される毎日だった。

 そんなときに、とある講義で知り合った先輩から「ランニングしたら気持ちは少しくらいスッキリするよ」とアドバイスをもらったのだ。運動が苦手だった当時の実月はちょっと抵抗があったのだが、ものは試しと朝早い時間に実践してみた。すると、その先輩の言ったとおりで、息を切らしながら走っているうちに頭の中が洗い流した様に清々しくなったのだ。

 それ以来、毎朝早めに起きてランニングを日課とするようになった。実際にそれが精神安定剤としての役割になっていたし、体力も付いてきて肥満一歩手前だったBMIも正常の範囲で収まるようになった。今では健康な一社会人として生活ができているので、始めて良かったし今後も続けていこうと思う習慣なのだ。



 走り始めは苦しいと感じていたにも関わらず、走り続けているうちにもっと身体を動かしていたいと思うようになるのがランナーズハイってやつなんだと実月は考えている。だけどそれにも限度があって、いつもの地点で走ってきた土手を折り返し上ってきた階段のところまで戻ってくると、実月は肩で大きく息をするようになっていた。

 自分の部屋へ転がり込んできた双葉さんに気を遣って二週間くらいジョギングを控えていたのだが、いつもならまだマンションまで走って帰れるくらいの余裕があったはず。なのにちょっとサボっただけでこんなになってしまうとは……。


 土手を降りて近くにあった自動販売機でスポーツドリンクのペットボトルを買う。空気が冷たい中で触れたボトルはそれ以上にひんやりしていたが、走って火照った身体へ流し込むのに丁度いい温度だった。

 スポーツドリンクを喉へ流し込み、ボトルから口を離して大きく息を吐く。ふと目線を上に向けると、空はすっかり十分な明るさを取り戻していた。目に留まるものが何も無いけど、なぜかぼーっと見続けることができる空だった。


 思えばこの二週間くらい色々なことが起こりすぎて、その分考える事も多かった気がする。双葉さんの元彼が突撃、それをきっかけに始まった双葉さんとの一時同居。最初は生活習慣やルールの摺り合わせなどで互いに気を遣い合っていたが、今ではなんとか上手くやることができている。

 元彼が起こした件について、向こうのご両親から謝罪を受けたという話を双葉さんから聞いた。ご両親も息子が起こした騒動に酷く憔悴していたようで、今後は監視の目を厳しくしていき、場合によっては精神科のお世話になることも考えていると言っていたようだ。双葉さんの引っ越し費用も出してくれるとのことで、ご両親は気の毒ではあるが双葉さんはこれでようやく肩の荷が下りたのかも知れない。そういえば、双葉さんは新しい部屋の検討は進んでいるんだろうか?


 それと沖田さんが異動して自分がECチームのリーダーになる話。これまでも沖田さんがしていたリーダーとしての仕事を慣れる目的でこなしたことはあったが、自分の一存でチームを引っ張っていくことに、正直まだ覚悟ができたとは言い切れない。その分責任も大きくなるしリーダーとして白川くんや阪根さんを上手く引っ張っていけるのか、考え出すと胃がキリキリ痛む気がしてならない。


 ふと実月の頭に「変化」の二文字が浮かんでくる。自分の身の回りが着実に変化しようとしている。こんなにわかりやすい変化なんて就職の時以来かも知れない。これまでが不用意に波風を立てないような生き方だったのだが、もしかしたらこれから多少の荒波なんて当たり前になっていくんだろうか……。


 ――俺はこれから上手くやれるのかな?


 ぽつりと心の中で呟いた。さっきまではすっかり青くなってしまった空が目に映っていたのに、今はゴツゴツしたアスファルトを見つめている。こんな心配なんてしても仕方が無い。わかっているはずなのに、頭が勝手にちょっとした隙を突いて考えようとする。そのせいでせっかくジョギングで頭がスッキリしたばかりなのに、またしても頭に暗雲が立ちこめようとしていた。

 ……っと、いけないけない。実月はそんな思考を洗い流すように、手に握ったスポーツドリンクを一気に飲み干した。全て飲み込んでから大きく一息吐くと、多少は清々しい気になることができた。

 よし、走るか。流石にまた土手を行って来いできる時間は無いから、ここからマンションまで全力疾走しよう。そうすればまた頭もスッキリするはずだ。

 実月は空になったペットボトルをゴミ箱へ思い切り良く放り込むと、さっきここに来るまでに通った道に向かって駆け出すのだった。地面から反発するように足を上げ、リズム良く腕を動かしながら白い息を吐く。そして部屋に戻った頃には、双葉さんが朝ご飯を用意して待っているはずだ。



「……で、調子に乗って思いっきり走ったら、今頃になって足を攣った、と」


 沖田さんが呆れたような目線でこちらを見下ろしている。ジョギングを終えていつも通りに出勤した実月は、土日で承った注文の確認や在庫チェックで机へ向き合っていた。その最中に何気なく足を動かしたら、突然右のふくらはぎに衝撃が走った。やばいと思った次の瞬間には、脚の筋が思いっきりピンと突っ張る痛みに思わず声を上げてしまっていた。

 阪根さんや同じフロアの同僚の目線を集めながら、談話スペースのソファで脚を伸ばしていると、沖田さんがため息を交えながら、


「あのさ、出勤前にジョギングするなとは言わないけど、そうならないように準備運動はちゃんとしておけよな」


 筋肉が脳の指令を無視して無理矢理縮こまろうとする痛みを必死に堪える実月には、引き攣った口からすみませんと呟くだけで精一杯だった。

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