次のステップへ……③

「ふう……。あそこのカレー、おいしかったなあ」


 自宅のベッドに身体を預けながら大きく一息吐くと、ほんのりスパイスを纏った吐息が鼻腔をくすぐる。それに、時間が経ったにも関わらずうっすらと舌に残るヒリヒリ感がまたなんとも……。

 双葉さんに『先に済ませておいて』と言われた夕食は、最近見つけたスパイスカレーのお店に入ってみることにした。スパイシーなルーに賽の目状の野菜を絡めて食べるカレーは、ザクザクした歯ごたえと刺激的な辛味のハーモニーがまさに『野菜を食べるカレー』を体現していた。スパイスの香りも感じられて刺激的だが攻撃的ではない程よく丸い辛さのおかげで、すごく気持ちの良い汗をかくことができたと思う。


 今こうして天井と向かい合っている自分の顔は、お腹いっぱいで満ち足りた表情というよりも清々しいという方が正確かも知れない。たまにはこういうのも悪くないな。機会があったらまた行ってみることにしよう。今度は双葉さんも連れて……、って双葉さんは辛いのは平気かな?


 そんなことを考えてから、急にはっとしてしまった。なんか自然な流れで双葉さんを連れて行くことを考えていたなあ。単純に一緒に過ごす機会が増えたからかもしれない。ただ、今までは外食もひとりですることが多かっただけに、自然とそういうことを考えようとした自分に驚いた。

 野中実月という男の日常に、双葉さんという存在が少しずつ浸食してきている。それは今までの自分には起こらなかったことだ。これがもしかして……? いや、そんな単純なものじゃ……。


 そんなことを考えながら天井とにらめっこをしていると、頭の先が向いている方から何やら物音が聞こえてきた。パタンと扉が閉まるような音。もしかして帰ってきたかな? 実月は身体を起こして玄関に向かうと、そこにはスーツ姿の双葉さんがいた。


「あっ、おかえり」


 脚を上げて靴に手をかける双葉さんにそう声をかけると、彼女は顔を上げて、


「……ただいま帰りました」


 その声色に思わず頬が硬直した。いつもより低い声のトーンに加えて、テンションは低いのに心なしか当たりが強い様に感じられる。そして実月に向けられた顔もいつものにこやかな感じとは程遠い。目つきは鋭く、眉間には力が込められて、唇は今にもムッと突き出さんばかりだ。


 え、怒ってる? なんで? 俺、何かやらかした?


 今日の朝から今に至るまでの自分の行動を思い返していると、靴を脱ぎ終えた双葉さんがこちらに向かって歩いてくる。双葉さんの手を見ると、彼女がいつもスーパーでの買い出しで使っている買い物袋が握られていた。


「あの、実月さん」

「な、何?」

「今からお風呂に入ってもいいですか?」

「う、うん。俺はもう入ったから大丈夫だよ」

「ありがとうございます」


 ……この様子だと自分の今日一日の行動を思い返す必要は無さそうだ。それじゃ、仕事で何かがあったんだろうか? そう考えていると、双葉さんは実月に買い物袋を突き出してきた。


「それと申し訳ないんですけど、これを冷蔵庫に入れておいてくれますか?」

「う、うん、わかった」


 双葉さんから差し出された買い物袋を受け取ると、その口を開いて中身に目を落とした。そこには数本の缶チューハイ。半分はいわゆるストロング系で残りは低アルコールのものだった。そしてほかに入っているものはポテトチップスやおつまみソースカツといったお菓子類。そんな内容物に思わず目を丸くしていると、双葉さんが口を開いた。


「それで、私がお風呂から上がったら、ちょっと付き合ってくれませんか?」



「こんなのおかしいと思いませんか!?」


 実月の方を向いてから度数強めのクレープサワーの缶からぷはぁと口を離す双葉さん。彼女の口が勢いそのまま溜め込んでいたものを吐き出すように回り出す。


「こっちが滅茶苦茶頭を捻って出したプランを『ダサい』の一言で無しにして、その上『こういうので』って資料を後出しとか、そんなの最初から出してくださいよって思いませんか!?」


 ……滅茶苦茶溜まってるなあ。アルコールのせいか、あるいは怒りのせいなのか、双葉さんの頬はずっと紅くなりっぱなしだった。話を聞くに今日はとある仕事で関わったクライアントに相当振り回されてきたらしい。怒濤の勢いで吐き出された愚痴に圧倒されっぱなしの実月は、彼女が買ってきてくれた低アルコールのチューハイに口を付けながらどんな返事をするか考えていた。


「まあ、確かに。そういうのは先に出してくれれば、こっちも余計な労力をかけずに済んだ訳だしね」

「そうですよねえ! 実月さんもそう思いますよねえ! うちの上司はそういうこともあるよって言ってましたけど、やっぱり納得いきません!」


 実月の同調する様な返しにものすごい勢いで食いついてきた双葉さんが、またグレープサワーの缶に口をつけてあおり始める。彼女は既にストロングの缶をひとつ空けているので相当酔いが回っているのだろうが、それだけ今日はやってられないと感じたのだろう。

 そんな双葉さんに対して、実月は彼女のようにお酒をハイペースで空けることができない。チビチビとアイスティーサワーを流し込むので精一杯だ。双葉さんもそれを見越して、自分用に低アルコールのものまで用意してくれたのだろう。


 それにしても、双葉さんは今までもこうした酒盛りをしていたんだろうか? それ自体を否定する気はないのだが、なんだか彼女の新たな一面を垣間見た気分である。まあ彼女も一年目とはいえ立派な社会人な訳だし、こうしてお酒に酔いたい時だってあるのだろう。自分もそれができたらなあ……。

 そんなことを考えながらテーブルの上のチーズ鱈を一本手に取ると、双葉さんの声が不意に途切れた。どうしたんだろうと彼女の方に目を遣ると、双葉さんがツンと口を尖らせながら膝を抱え込んでストロング缶を握りしめていた。


「どうしたの?」

「いえ。ちょっと……」


 何やら言い淀む双葉さん。ここまで怒濤の勢いだったのでしゃべり疲れたのだろうか。まあ眠気に襲われてもおかしくない時間だからそういうこともあるだろう。

 実月は次にテーブル上のおつまみソースカツを囓ろうと手を伸ばそうとして、視界の端で双葉さんがこっちをトロンとした瞳で見つめていることに気がついた。思わずその目線に合わせてみると、


「実月さん……」

「な、何?」

「隣、いいですか?」


 唐突にそう訊かれ、その意図がわからず返事もできずに固まってしまう。すると、双葉さんは実月が何か言うよりも早く立ち上がり、ベッドを背にして床に座っていた実月の隣にやって来て座り込む。その様子に呆気にとられていると、彼女は間を埋めるように実月へと寄りかかるのだった。


「えっ?」


 いきなり距離を詰めてきたと思っていたらそのままピトッとくっついて来たので、これから何が始まるんだと思わず身構えてしまう。お風呂上がりだからか、あるいはお酒のせいなのか、身につけたパジャマ越しに伝わってくる体温がやけに生々しかった。


「ちょ、ちょっと……」


 思わず双葉さんの顔に目を遣るのだが、実月の予想に反して彼女の表情はどこか物憂げだった。


「……どうしたの?」

「いえ、その……。さっき、うちのクライアントさんのこと悪く言い過ぎたかなって思いまして」


 これは今までの怒濤の勢いからの反動ってやつかな。お酒を飲んでいて、それまで酔いに任せて楽しんでいたら急にふっと冷静になるタイミングがやって来たってやつ。実月も数少ない酩酊経験の中でもそれを感じたことはある。


「確かに私はその人について言いたいことや思うことはたくさんあるんですけど、その、思っていたよりも滅茶苦茶溜まっていたんだなって。でもその……、流石にこれはよくないんじゃないかって思ってしまったので……」

「……別にいいんじゃないかな?」


 実月がそう返すと、双葉さんが「えっ」と口にしながら実月の顔を見上げた。


「だって、今ここにはそのクライアントさんはいないからね、好き勝手に言っても誰も怒らないよ。まあ、双葉さんの言うことに筋が通っていないなら話は別だけどね。それに……」


 双葉さんが見つめる中で、実月はアイスティーサワーの残りを飲み干す。


「世の中に自分と馬が合わない人なんて一人や二人くらいいてもおかしくないし、普通に働いててもストレスを感じることなんてしょっちゅうだから、どこかで溜まったものを発散しないと人はどこかで壊れちゃうからね。だから、こういう時くらい大丈夫じゃないかな」


 そう語る中で、実月の脳裏にひとりの顔が浮かぶ。自分のせいで壊れてしまった、大切な家族の悲しむ顔……。瞬間、ズキリと胸が痛んだ。その痛みを誤魔化すように、実月は手に取ったおつまみソースカツに齧り付いた。


「実月さんにもいるんですか?」

「ん?」

「その、馬が合わない人とか」


 双葉さんのそんな質問に、実月の頭の中にひとりの会社の人の顔が浮かんでくる。


「馬が合わないというか……、この人ちょっと苦手だなって感じる人はいるね」

「じゃあ、実月さんがその人とどうやってやりとりをしてるんですか?」


 そう訊かれて、実月の目線は宙を仰いだ。その苦手と感じる人とは書類の受け渡しくらいで一言二言やりとりする程度だし、苦手な理由も常に怒っているのかと思うくらい語気が荒いからというものだ。なので、双葉さんの求めているだろう答えを出せる自信が無かった。


「そうだなあ……。まずはその人のことを我の強い人なんだって一旦受け入れてみて、その人に合わせる行動パターンを考える、くらいしか言えないなあ。ほら、ガラス同士をぶつけると両方とも割れちゃうけど、片方がクッションなら割れないって聞いたことあるかな。それと一緒で、こっちがクッションという名の大人に成るしかない……とか」


 なんとか答えているうちに、自分の中で元々小さかった自信が更に萎縮していくのを感じる。こんなフワフワした答えしか与えられない自分にいたたまれなくなって、テーブル上の手つかずだった白いサワーのプルタブを開けて口へ流し込む。ぷはぁ、と一息。いたたまれなさはなんとか喉の奥まで引っ込んでくれた気がしたが、どこか遣る瀬ないような気持ちが残った。


「……大変だよね、社会人って」

「……はい」


 ……なんだかしんみりしちゃったな。それが自分のせいに思えて、また白いサワーを口へと流し込む。口の中をパチパチと叩く炭酸の刺激がいつになく気を紛らわせてくれていた。

 自分の肩に尚も頭を預けている双葉さんはというと、伏し目がちになりながらグレープサワーの缶の口を唇で食んでいた。求める答えを出せなかったからだろうか? それなら、何かフォローしてあげるべきだろうか? 


「……でもさ、双葉さんはよくやってると思うよ」


 そう口にすると、双葉さんがもう一度実月の顔を見上げた。


「そうですか?」

「うん。まだ社会に出て一年も経ってないのに、ちゃんとお客さんと向き合って仕事を頑張ってるんだから。少なくとも俺の一年目と比べたら大したことだと思う」

「そんな、恐れ多いです」

「俺なんて新卒の頃は何というか、そこまで仕事に本気になれなかったって言ったらいい……のかな」


 実月が新卒で入社した頃はこの会社でやりたいことが明確にあった訳では無く、大学で学んだ情報系の知識を活かして働き自立することを優先していた気がする。自社で扱うオーディオ製品の素晴らしさを伝えたいと感じるようになったのは、いま所属しているECチームが始まった頃だった。


「双葉さんが今みたいに仕事のことで熱くなれるのは、それだけ自分の仕事に誇りや情熱を持っている証拠だと思う。もうその時点で当時の俺を越えてる訳だから、双葉さんは十分偉いよ」


 そう伝えながら双葉さんの方に目を遣る。すると、頬を紅くしながら自分の顔を見上げる彼女と目が合った。惚けているようなその眼差しに、なんだか柄にも無いようなことをした気分で頬が段々熱くなっていく。たまらず目線を外して白いサワーを口の中へ流す。既にぬるくなってしまっていたが、それでも今の自分には有り難いと感じられた。

 その瞬間、双葉さんが何かを口走る。


「……らいですか?」


 その声がボソボソとしたものだったので、至近距離でも聞き取れずに思わず「えっ?」と聞き返した。すると、双葉さんは実月の肩からパッと離れたかと思ったら、四つん這いになって実月の方へと迫ってくる。


「実月さんから見て、私は褒められるほど偉いですか?」

「う、うん。本当にそう思ってるよ」


 成果では無く頑張りを褒めたのは流石に出過ぎた真似だったかなと頭に過る。でも、それはリップサービスではなく本心から出たものだ。もし疑われてるのなら……、と考えを巡らせていると、双葉さんが更に口を開いた。


「じゃあ、私の頭を撫でてください」

「……へ?」

「双葉は毎日仕事を頑張ってて偉いって、頭を撫でて欲しいです」


 ……もしかして酔ってる? さっきからストロング缶ばかり空けていたし、顔も真っ赤になってるし。いきなり大胆なことを言い出す双葉さんに困惑したが、彼女は実月に迫ってくる体勢のままでおり退いてくれそうも無い。

 こんなことしてもいいのかという抵抗感はあったが、実月はおずおずと双葉さんの髪の上に手を置く。そして、その頭の上で手のひらを左右に動かした。以前満員電車に乗ったとき、至近距離で眺めた彼女の髪の毛は見るからにサラサラだろうなと思える程だった。そして実際に触れてみるとその通りで、自分のちょっとごわついたものと違って、手のひらに伝わってくる柔らかく繊細な質感が凄く心地よかった。


「ふふふ……」


 すると、双葉さんが嬉しそうに目を細めて笑う。なんだか猫みたいだなあ。ロシアンブルーだっけ? 実物は見たこと無いけど、雰囲気が何となくそれに似ている気がする。この髪の毛の下からぴょこっと猫耳が生えてきて、両頬に対となる髭が伸びてきても何の違和感が無いような……。

 そんなことを考えていると、不意に自分の瞼が重くなるのを感じた。それと同時に頭もカクッと頷くように前へ揺れる。


「……実月さん?」


 眠気に襲われた様子が目に入ったのだろう、双葉さんが声をかけてきた。自分は低アルコールのものを飲んでいたとはいえそれなりにお酒が入っている状態だ。仕事終わりの疲れも相まってそろそろ限界を迎える頃合いだったのだろう。


「ごめん。急に眠気が……」

「じゃあ、今日はもう寝ましょうか」


 すると、双葉さんは実月からパッと体を離すとテーブルの上に残る空き缶やお菓子の袋を手に取り始めた。俺も片付けを手伝おう。そう思って立ち上がろうとすると、


「片付けは私がしておくので、実月さんは先に歯を磨いてきていいですよ」

「え、でも……」

「いえいえ。私から宅飲みに誘った訳ですし、それに実月さんも相当眠そうじゃないですか」

「……じゃあ、そうさせてもらおうかな」


 ちょっと後ろめたさを感じたがさっきから頭がぼんやりしていたので、実月はお言葉に甘えて洗面所へと向かうことにした。そして、気を抜かないようにしながら歯磨きを済ませて部屋に戻る頃には、テーブルの上は既に空き缶や余った菓子類が撤収済みとなっていた。


 もう横になろう。そう思ってベッドに入りしばらく微睡んでいると、歯磨きを終えた双葉さんが部屋に戻ってくる音が聞こえてきた。


「実月さん」


 常夜灯が闇を照らす中で、双葉さんがこっそりと話しかけてくる。その声の方に顔を向けると、


「今日は話を聞いてくれてありがとうございます。その、実月さんに色々聞いてもらえてすっきりしました」

「……そう、それならよかったかな」


 そう返すと、双葉さんが暗がりの中でふふっと微笑んだ。


「私より大人な人に頑張りを褒めてもらえることって、凄く嬉しいことなんですね。それじゃあ、おやすみなさい」

「うん。おやすみ」


 そうして部屋が静寂に包まれる。しばらくすると、双葉さんが眠る布団の方からうっすらと寝息が聞こえてくるようになった。お酒が入っていることもあって、彼女にとって気持ちのいい寝入りだったかもしれない。

 一方、実月は双葉さんが直前で口にしたことが頭に引っかかっていた。


 大人、か……。俺ってそんな立派な存在なのかな……?

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