次のステップへ……②
まさか、自分が役職者になるなんて……。
定時後、休憩スペースで缶コーヒーを口にしながら、お昼にした沖田さんとの会話について考えていた。
あの場では実際にやってみればなんとかなるだろうと思って返事したけれど、その後の勤務中には不安がぶり返してしまい、業務の最中に阪根さんと白川くんに対して適切な上司としての振る舞いができるのか、頭の中で何度もシミュレーションしてしまっていた。結局、何度もバッドエンドにたどり着いてしまったのだが。
やっぱり自分なんかに役職者なんて務まるのか……、いや、ダメだダメだ。ネガティブの沼へ入りかけたところでハッと我に返り、普段は手を出さないブラックコーヒーを口へ流し込む。舌の上で迸る苦みのおかげで脳みそがシャキッとリセットされた様な気分だ。
とりあえずやってみようと決心を固めた手前で、なに弱気になっているんだろう。今までも実際にやっていきながら仕事に慣れていったんだから、チームをとりまとめるのだってやりながら慣れていけばいいだけの話だ。もう何度目なのか分からない自分への言い聞かせ。そうやって決心を補強していかないと、これから先の仕事なんてままならないのだから。
「「「あっ、お疲れ様です」」」
もう一度缶コーヒーに口をつけようとしたところで、実月の背後からやたら賑やかな挨拶をかけられた。振り返るとそこには阪根さんが立っていて、更にその背後にはふたりの女性社員が立っていた。確かふたりとも阪根さんと同じ今年の新入社員で、それぞれ総務と法人向け事業部の子だったと思う。
「お疲れ様」
てっきり阪根さんはもう会社を後にしたと思っていたけれど、同期の子たちとこのあとご飯にでもいくのだろうか? そんなことを考えていたら、彼女たちは各々自動販売機で買った飲み物を手に丸テーブルのひとつを占拠して何やら話し込み始めてしまった。
……これはお邪魔かな? 休憩スペースには阪根さんたちと実月しかいないので、必然的に彼女たちの話は筒抜けだ。自分がいたら話しづらい事だってあるだろうし……。そう考えて、そーっと休憩スペースを出て行こうとしたところ、
――ピロリン♪
聞き慣れた電子音が自分の腰の辺りから鳴った。自分のスマホがメッセージを受信したようだ。スーツのポケットからスマホを取り出し確認すると、メッセージの主は双葉さんだった。
『お仕事お疲れ様です! 今日、仕事が立て込んでいて帰りが遅くなると思いますので、先に夕飯を済ませておいてください』
……双葉さんも頑張ってるんだな。入社一年目だから覚えることもたくさんあって大変だろうに。帰ってきたら労いの言葉でもかけてあげようかな。それはいいとして、今日の夕飯はどうしよう?
「……双葉ちゃんからのメッセージですか?」
背後からいきなり声をかけられた事に驚きながら振り返ると、阪根さんがニヤニヤと実月の顔を覗き込んでいた。
「な、なんでわかったの?」
「スマホの画面見てる時の顔、すごく緩んでましたよ。なんか、好きな子を見守るような目っていうんですかね。だから、もしかしたらと思って双葉ちゃんの名前を出したんですけど、正解だったみたいですね」
カマをかけられたっていうことか。なんか似たようなことが前にもあったような気がするけど、どうして阪根さんはそっち方面での観察力がこんなにも鋭いんだろうか? もう笑うしか無いというかなんというか……。
そんな阪根さんの背後では、彼女の同期ふたりが苦笑しながらこっちに目を向けていた。
「もう、なにやってんの深雪ちゃん?」
「いつもそうやって野中さんを困らせてるの?」
「そんなことしてないよ~。でも、野中さんに初めての彼女ができるかも知れないわけだし、応援したくなっちゃうでしょ?」
「だからって阪根ちゃんが首突っ込むことじゃないでしょ? そんなことばっかりしてたら、そのうち馬に回し蹴り入れられて死んじゃうよ」
あのふたりも阪根さんと同じノリの持ち主だったらどうしようかと思ったけれど、彼女をたしなめているところを見るにそうでは無さそうでホッとした。なぜ回し蹴りなのか気になるところではあるけれど……。
しかしたしなめられた本人はというと、そんなの関係ないと言わんばかりに実月へと向き直る。そして見るからにウキウキな表情で、こっちにグイグイとにじり寄ってきた。
「それでどうなんですか?」
「な、何が?」
「何って、双葉ちゃんですよ。実際のところ、どこまで進んでるんですか?」
どこまで、と訊かれて実月は明後日の方へ目線を向けた。関係自体が進展しているのか、実月としては微妙なところ。だがそれよりも、一時的とはいえ自分のアパートで住まわせているなんてバカ正直に言ってしまったら要らぬ勘違いを生み出しかねない。
「ま、まあそれなりに」
そう目を逸らしながら答えると、阪根さん不満げに目を細めた。
「なんですかそれ。それじゃあ、野中さんが双葉ちゃんと付き合い始めたのかわからないじゃないですか」
「つ、付き合うとか、流石にまだ早いでしょ」
「でも、双葉ちゃんと知り合ってもう二ヶ月くらいじゃないですか、お互いを知るための期間としては長くないですか?」
「そんなこと、無いと思うけど……」
もしかしたら、阪根さんくらいの年齢ならそう感じてもおかしくないのかも……、いや、やっぱり人それぞれじゃないか?
「それでも、二ヶ月もそうしているなら双葉ちゃんのこと多少は知れたんじゃないですか? 例えばこんなところが可愛いとか、野中さんの中でグッときたとか……」
今の回答で納得がいかない様子の阪根さんが、もう一歩こちらにぐいっと迫ってくる。徹底追求して自分が求める答えを引き出すつもりだったのだろう。しかし、
「もう止めなって。野中さんが困ってるでしょ」
法人向け事業部の子が阪根さんを背後から羽交い締めにして、ジタバタする彼女をあっという間に自分たちが座っていたテーブルまで引きずっていってしまった。その様子を呆然と眺めていると、もうひとりの総務の子が実月に話しかけてくる。
「すみません。この子には悪気なんてないので」
「あ、うん」
「もしかして、深雪ちゃんはいつもこうやって野中さんに迷惑をかけてるんですか?」
そんなことを上目遣いで訊いてくる総務の子の声が聞こえたのだろう。テーブルまで引き戻された阪根さんが「ちょっと!」と彼女の背中に向かって叫んできた。
「それじゃ、私が野中さんを困らせてるみたいじゃん!」
「いやいや、実際困ってたでしょ?」
「あの、深雪ちゃんはそういう話に対してちょっとせっかちなので。でも私は、自分のペースで全然いいと思いますので、どうか深雪ちゃんのことはお気になさらず」
「あっ、私も野中さんのペースで進めていったらいい派でーす」
「でもっ、私は野中さんには早く幸せになってもらいたいし……」
「だからって深雪ちゃんの考えを押しつけるのもよくないでしょ」
なんかわちゃわちゃしてきたな。丸テーブルで言い合いを始めた後輩たちを苦笑しながら眺めていると、自分はもうここから退散した方がいいんじゃないかと思い始めてきた。飲んでいた缶コーヒーもちょうど飲み終えたし。実月は空になった缶をゴミ箱に入れると、
「じ、じゃあ、先に失礼するね」
「「あっ、おつかれさまでーす」」
「みんなもあまり遅くならないようにね」
「「はーい」」
後輩ふたりの返事をもらってから、実月は休憩スペースを後にした。出て行く間際、阪根さんが何か言おうとして同期ふたりに阻まれ不満そうに頬を膨らませているのが目に入った。
エレベーターホールでボタンを押し、下りのエレベーターの到着を待つ。タイミングが悪いことに、エレベーターはついさっき実月のいる階を通り過ぎていったようで、少し待ち時間が生まれてしまった。
『双葉ちゃんのこと多少は知れたんじゃないですか? 例えばこんなところが可愛いとか、野中さんの中でグッときたとか……』
双葉さんのこと、か……。ふと、阪根さんが口にしていたことが頭の中で反芻する。彼女の言うとおり、双葉さんとお互いを知る期間を設け始めてからもう二ヶ月くらいだ。双葉さんとはその間に何回か会うことで、多少は彼女のことをより知ることができたのは確かだ。
阪根さんからすれば、それだけの時間を重ねたならもう十分って考えなのだろう。世間一般の考えはよくわからないけれど、実際手が早い人は本当に早いだろうし、スピード結婚なんて言葉もあるわけだし。それはそれで、本人がいいなら別にいいんじゃないかと実月は思う。
これまでの付き合いで、双葉さんは悪い子ではないだろうなと思う。料理が上手だし自分によく気を遣ってくれるし、むしろ自分にはもったいないくらいにいい子で、結婚を前提に考えるなら十分すぎる相手なのは間違いない。
だからといって、仮に今すぐ双葉さんとの本格的に付き合い始めてしまったら? きっと凝りのようなものが生まれて、いずれ交際は上手くいかなくなるだろう。そんな気がしてならない。具体的に言うなら「付き合う」のニュアンスの違いで、相手に「買い物に行くから付き合って」とお願いされて付き合う様なもののように思うのだ。
何かが足りない。でもそれが何か、今の実月にはわからない。
「人を好きになるって何なんだろうな……」
そんなことを小声で呟きながら、実月はやって来たエレベーターに乗り込むのだった。
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