次のステップへ……①
「……ふう」
それまで齧り付いていたパソコンの画面から目を離して大きなため息を吐く。そのまま壁の時計に目を遣ると、あと少しで長針と短針が十二のところで重なるところだった。
「ふたりともそろそろお昼に行ってきてい……」
隣の席へ振り向きながら、行ってきていいよと口にしかけた実月の目に飛び込んできたのは、頭から湯気を立ち上らせていた美男美女の姿だった。白川くんは眼鏡を机に置き両方の目頭をぎゅっと押さえ込んでいて、阪根さんに至ってはぽかんと口を開けながら机に突っ伏している。
「ふ、ふたりともどうしたの!?」
「いや~、もう何が何だか……。しばらく頭を使いたくないです……」
朝の元気がすっかり抜けてしまったかのように呟く阪根さん。それに同意するように、白川くんも目をぎゅっとしながらブンブンと首を縦に振っていた。ふたりには今度新しく取り扱うオーディオ製品の商品説明の翻訳とページ作りをお願いしていたのだが、何かわからないことでもあったのだろうか? そう考えていると、今度は白川くんが口を開いた。
「その……、今まで見たことが無いような用語が出てきたのでどんな物か調べてみたんですけど、R2Rの仕組みとか全く理解できなくて……」
「何なんですか、PWMとかカスケード型回路とか⁉ ネットで探してもわかりにくい解説ばかりでもう訳わかめです……」
ふたりの口から出てくる単語に何となく察しが付いてしまい、実月は苦笑するしか無かった。すると、阪根さんが机から上半身を起こして実月の顔を見据えると、
「なので野中さん、今度でいいのでここに出てきたやつのがどういうもので、どういう仕組みで動いているのか教えて欲しいです!」
顔を突き出してそう訴えかける阪根さんの背後で、白川くんもうんうんと頷きながらお願いしますと口にしていた。まあその気持ちもよくわかるので後輩のために一肌を脱ぐ……と言いたいところだったが、
「あー、それね……。実は俺もあんまりわかってないんだよね」
実月が目線を逸らすと、後輩たちは一瞬の間を置いてから「えー!」と声を上げた。
「だってその辺の話は理系の領域だし、何となくそういうものっていう程度には理解してるつもりだけど、それで合ってる確証は無いからね」
「じゃあ沖田さんは……」
「あー、俺もその辺は野中と一緒でさっぱりだから。もし詳しく知りたかったら、営業の三枝さんに訊いたらいいよ。あの人は電子工学とか囓ってたみたいだし」
「……売り手側なのにそれでいいんですか?」
白川くんの呆れながら口にしたことはもっともだと思う。でも、こう言っては難だがそれは買い手側も一緒で、メーカーがどういうこだわりを持っているのか説明したところで、工学系を囓っていなければ「なんだかよくわからないけど、とにかくすげー」としか思わないはずなんだよなあ。
「俺は別に気にしなくていいと思うけどな」
そう切り出したのは沖田さんだった。
「こういう説明っていうのは、あくまでメーカーが自分たちの理想の音を作るためのこだわりであって、それをいくら説明したところで買う側の求めてる音と一致するとは限らないからな。こういうスペック部分を見て選ぶ層も一定数はいるだろうけど、大体のお客様は試聴して自分にそれが合うかっていうのを重視するものだよ」
沖田さんの話に実月はうんうんと頷いた。お客様に合った商品を提案するという考えはこの仕事に携わる中で身に染みるほどに学んだことだ。そのためには自分たちに何が出来るかを考えることが大事だと、入社が浅いふたりにも伝わって欲しいと思う。
「それより、とっくに十二時過ぎてるから昼飯食べに行きな。休憩時間が減っちゃうぞ」
沖田さんに促されて、ふたりはわかりましたと立ち上がる。そして、阪根さんは自前の弁当箱を、白川くんはコッペパン一個を手に持ってそれぞれの机から離れていった。それを見届けると、実月もそれに続いて立ち上がろうとした。
「じゃあ、俺もお昼に……」
「あ、野中。今日のお昼なんだけど、俺と一緒に行かないか?」
そう沖田さんに呼び止められたので、実月は振り返りながら、
「いいですよ」
「そうか。いや、野中にちょっと話があってな」
*
「俺、来年の四月から営業へ戻ることになったんだ」
職場近くの居酒屋でランチメニューを頼んだ直後、沖田さんはそう切り出した。それに思わず「そうなんですか?」と目を見開かせていると、沖田さんは顔をしかめた。
「おいおい、何を驚いてるんだよ。俺がECチームにいるのはEC事業が軌道に乗るまでの間だって話だっただろ?」
そういえばEC事業を立ち上げる時にそんな話をしてたな。元々ウェブページ作りのチームだったところに営業の人間を加える事で、直販サイトでの商品の売り方のノウハウを構築するのが目的だったはず。あれから三年くらい経過して、その目的が達成できたと判断されたのだろう。
「なんか、思ったよりも早いですね」
「まあ、新規事業の立ち上げから三年でここまで来たなら妥当じゃね? それに、野中も売る商品の企画とか自分でできるようになってきたし、白川や阪根ちゃんにも指導できるようになったわけだし。正直、ここまで成長してくれて嬉しい限りだな」
ニッと歯を見せて笑いかける沖田さん。思えば、立ち上げ当初は自分に自社の商品を売り込む事なんてできるか不安だった。だけどこうして沖田さんから直接評価の言葉を貰ったことで、商品の企画や売り込み方とかに四苦八苦した日々が報われた様な気がしてなんだか胸の中が熱くなった気がした。
「あ、ありがとうございます」
「だからもう俺がいなくてもやっていけるはずだぞ。俺も最初は勝手が違って大変だったけど、いい勉強になったと思うよ」
沖田さんがそうしみじみと呟いたタイミングで店員さんがやってきた。実月と沖田さんが座るテーブルにランチセットのサラダをふたつ置いていくと、失礼しますと一礼してから歩き去って行く。それを目で見送っていると、実月の頭にひとつの疑問が浮かんだ。
「あの、沖田さんが営業に戻ったら、代わりに誰かがうちらのリーダーとしてやってくることになるんですか?」
運ばれてきたサラダに手を伸ばしながらそう尋ねてみると、沖田さんは実月の顔をを見据えてから、
「いや、ECのリーダーは野中にやってもらおうかなって思ってる」
「……え?」
思わずサラダを口へ運ぶ手の動きが止まってしまった。
「お、俺ですか?」
「おう。この三年で俺と一緒に売り方を考えてきたんだ。俺は適任だと思うぞ」
「ええ……」
さっきの胸が熱くなるような感覚から一転して、胃の辺りで何かが渦を巻くような感じが襲いかかってくる。自分でもわかりやすいほど顔の表面から熱がすうっと引いていくのを感じ取ることができた。
「……嫌なのか?」
不安にとりつかれたような実月の様子が目に入ったのだろう。沖田さんが箸を下ろしながらそう訊いてきた。
「い、いえ、そんなことはないです。ただその、今まで人の上に立つという経験が無かったもので、イメージが湧かないといいますか……」
「そんな気はしてた。でもまだ時間がたっぷりあるから、その間に今まで俺がやってた事を覚えていければ大丈夫だよ。それに、俺が営業に戻ってもECチームにはちょこちょこ顔を出すつもりだし、ちゃんとサポートしてやるぜ」
「は、はあ……」
こういうのは世間一般だと「出世」と呼ぶべきもので、普通なら喜んでいいはずなんだろう。実月としても、三年前は四苦八苦していた仕事も今では楽しいと感じられるし、これからも続けていきたいとは思う。そうなると、人員が少ない部署ということもあって、いずれ管理側に回ることになるんだろうなとはぼんやり思っていた。
でも、そのタイミングがいきなりやってきたこともあって、喜びよりも驚きと不安が大きかった。気持ちの整理がついていないというのもあるが、何よりも自分に管理職としての勤めが果たせるのかが頭を支配してしまっている。
右手に箸、左手にサラダの器を抱えたままでいると、沖田さんがおもむろに口を開いた。
「俺からしても、野中はここいらでキャリアアップとか考えた方がいいと思うな。だってこれから双葉ちゃんの事も考えなきゃいけないわけだし」
「……はっ!?」
沖田さんの口から双葉さんの名前が出てきたので、つい勢いよく顔を振り上げてしまった。同時に張り上げた声も思ったより大きく出てしまったのだろう。沖田さんが怪訝そうに目を細めた。
「バカ。そんな驚かなくてもいいだろ」
「す、すみません。でもっ、な、なんで双葉さんが出てくるんですか? 関係ないですよね!?」
「いやいや。むしろ転換期としてはタイミングが揃ってると思ったんだけどな。お前と双葉ちゃんが何処まで進んでるか知らないけど、本格的に付き合うってなったら結婚だって考えなくちゃいけないだろ」
経験者が言い聞かせるような口振りの沖田さんに、実月はつい呆然としてしまった。心なしかほんのりと自分の頬が熱くなっているように感じる。
「もし結婚するってなったら、双葉ちゃんは仕事を続けるのか、専業主婦になるのかはそっちで話し合う事だけど、どちらにしても今よりもお金が必要になってくる訳だから、今のうちにキャリアアップを考えるべきだと思うけどな。とにかく、お前ももうすぐ三十になるわけだし、次のステップへ踏み出すタイミングとしては今が丁度いいってことだな」
「は、はあ……」
次のステップ……。不思議なことに、こうして沖田さんから面と向かって言われるまではっきり意識したことが無かった。ただ、こうして働き続けていく上ではどうしても避けられないもので、そのタイミングが今なのかも知れない、ということなんだろうな。
正直なところ、沖田さんの話を聞いても不安は拭えていないし、これから先もこれが付きまとってくるのは間違いないはず。でも、EC事業立ち上げの頃を思い返すと、商品の企画とか試聴会でのお客様とのやり取りで四苦八苦していたけれど、今では難なくこなすことができている訳だし、沖田さんも評価してくれた。だったら……。
実月は一息吐くと、向かいの席の沖田さんにしっかり向き直って、
「……わかりました。とりあえず頑張ってみます」
この返事を聞いた沖田さんが実月へ目を向けると、
「おう。厳しくいくから覚悟しろよ」
そう実月へと笑いかけるのだった。
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