りっぱなおとな②

「ふーん、そんなことが……」


 ソファに腰を下ろした沖田さんがおもむろに口を開いた。普段スピーカーやアンプなどの製品を評価するのに使われる試聴室が張り詰めた空気で満たされ、やけにはっきり聞こえてくるエアコンの音がそれを更に引き立たせている。防音のおかげで室外の雑音が聞こえてこない中で実月はぎゅっと頬を固くしていると、沖田さんが実月の方へ顔を向ける。


「でも、三枝さんが注文を直してくれたんだろ?」

「はい。そう言ってました」

「じゃあ解決ってことでいいんじゃね? 白川には今度から送信前にちゃんとチェックしろって・・・・・・」

「それはさっき話しました」


 実月がそう答えると、沖田さんは一息吐きながらソファの背もたれに背中を預けた。


「野中が指導してくれたんだったらもう大丈夫だろ。まあ、メールを送る前に俺か野中が必ずチェックするとかってルールを決めておく必要はあるだろうな」

「はい……」


 ……再発防止のことにまで頭が回るなんて流石だな。冷静にそこまで考えを巡らせることができるなんて、自分より長く社会人を経験しているだけのことはある。さっきの自分はそこまで考えが回らないばかりか、頭に血が上っちゃったからなあ……。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、視界がどんどん下へと向かっていく。すると、その様子を見た沖田さんが首を傾げながら口を開いた。


「どうした?」

「いえ、なんでもないです」


 目を逸らしながらそう答えてみたものの、マイナスな感情が表情に出てしまっていたのだろう。沖田さんがソファの背もたれから背中を離し、実月の顔を覗き込むように見つめてくる。


「だったらなんでそんな浮かない顔してるんだよ。さっきのトラブル以外に何かあったのか?」

「いや、そういう訳じゃ無いんですけど……」


 沖田さんの追求してくる目線に圧されて、ついつい口ごもってしまう。その指導……というか注意するときについ頭が血が上ってしまったなんて言ったら、さすがに沖田さんもいい顔しないよな……。

 でも自分はこれから後輩を引っ張っていく立場になるのに、いちいちカッとなっていたら誰も付いてこなくなるのは頭でわかっている。だから何とかしなくちゃいいけないよな。そう思い、実月は口を開いて息を吸う。


「実は白川くんに注意した時、言い方……というか口調が強くなってしまいまして」

「うん、それで?」

「その、白川くんの態度にちょっと『ん?』って思うところがありまして、それでつい強めに注意してしまったんです。だけど、終わってから今のは良くなかったよなって思ってしまいまして……」


 さっきのことを辿々しく説明すると、沖田さんはお腹の前で腕を組みながら背もたれに背中を預けた。


「白川の態度が気になったって、ふて腐れてたってこと?」

「い、いえ。多分俺の考えすぎだと思うんですけど、今回のミスって下手したら大量に在庫を抱えて大変なことになるかも知れないものなのに、それをわかっているのか読めない態度だったと言いますか……」


 うん、と頷く沖田さんの目線に耐えかねて、自分の目線がどんどんと下がっていく。


「なんというか、仕事に対して責任をもって取り組んでいるのかどうかが怪しかった気がして、それでつい頭に血が上ってしまったんですよね。後になって、今の言い方は良くなかったなって思ってしまいまして……」


 なるほどな、と沖田さんが呟く。絶対に何かしらの注意を受けるのは確実だろう。強張った頬に一筋の汗が流れる中、実月は沖田さんの顔へおそるおそる目線を向けて次の言葉を待つ。


「まあ、あんまり褒められたものではないけどな。でも、自分でそれがわかってるなら次からそうならないように気をつければだけだし、あんまり気にすんなよ」

「……え?」


 てっきりキツく注意されるだろうと思っていただけに、沖田さんから出てきた言葉に拍子抜けしてしまった。この時、自分の顔はきっと間抜けな感じになっていたのだろう。沖田さんが苦笑しながら、


「何、叱られると思った?」

「は、はい」

「いやいや、自分で何が悪かったかに気がついてる奴へガミガミ言うなんてしねぇよ。それに、俺も営業三年目の時に同じことを三枝さんに散々注意されてきたから、あんまり人のこと言えねえっていうか……」


 どこかバツが悪そうに頭を掻く沖田さん。自分は沖田さんと本格的に関わり始めたのがEC事業立ち上げの頃からで、その時に受けた指導は、たまに厳しい言葉を使うことはあってもキツく叱られるなんてことは無かった。だからこそ、沖田さんの口から人のこと言えないと出てきたのがちょっと意外だった。そう思って目を見開いていると、沖田さんが実月の方へ向き直って、


「まーとにかく、正しい叱り方っていうのをこれから身につけていこうな」

「は、はい」


 背筋をピシッと伸ばして返事をする。沖田さんは実月にとって凄く面倒見がいい兄貴的存在で、この人に仕事のあれこれを教わったこともあり、上司として尊敬で切る存在なのは間違いない。だけど、自分は沖田さんにいつまでも甘えるわけにはいかないんだよな。もうこれで何度目の覚悟決めだろう? でも、これまでもなんとか上手くやれてきたんだから……。そう自分に言い聞かせていると、


「それにしても、野中が仕事のことで頭に血が上って熱くなるとはねえ……」


 沖田さんがニヤニヤしながら口を開いた。


「な、なんですか?」

「いやー、俺がEC立ち上げに加わった頃の野中って目が死んでる印象だったからさ、それが仕事に情熱を持って取り組んでくれるようになったんだぞ。嬉しい限りだよ」

「やめてください」

「いいだろ、部下の成長を喜んだって。これも守るものができたおかげかなあ?」

「そ、そんなんじゃないですからっ!」


 尚も面白そうに口角を上げる沖田さんの目線を避けるように立ち上がる。


「じゃ、じゃあ俺は阪根さんにページ作りを教えてる最中だったんで、これで失礼します」


 それだけ沖田さんに伝えて、実月は扉へ足早に向かい試聴室を出た。午後の少し気怠い空気が立ちこめるオフィスでは特別変わった様子も無く、誰もがいそいそと自分たちの仕事を進めている。このまま自分のデスクに戻っても良かったが、その前に休憩スペースへ向かうことにした。


 給水器から紙コップへ水を注ぎ入れ、カラカラになった自分の口へ流し込む。十分に冷えた水が喉元を過ぎると、熱を持った自分の身体の芯がシャキッと引き締まったように感じた。

 水を半分ほど残してコップを口から離す。そして、ついさっき沖田さんが言っていたことを思い返す。仕事に対する意識の変化を喜んでいたが、自分でもそれははっきりと感じていた。だけど、沖田さんは双葉さんの存在がいい影響を与えたと思っているらしいが、双葉さんと出会う前から意識が変わったなと感じていたのだ。


 それにしても、自分の目が死んでいたと言われるなんてな。まあ、あながち間違いでは無いけれど。あの頃はしっかり自立して、自分のことを立派な大人だと胸を張れる存在になることばかり考えていた。そして、その姿を見せることが唯一の親孝行だと考えていたわけだし。

 そう考えれば、あの頃よりも多少はマシな人間になれたのかも知れない。それでも、自分は「立派な大人」と言えるのかというと……。


 不意にさっきの白川くんの顔が頭に過る。自分がミスを注意したときに見せた表情。それが何となく過去の自分と重なる気がした。


 ……結局、俺も人のことが言えないじゃないか。


 残った水を一気に口へ流し込むと、紙コップをぐしゃっと握りつぶす。それをゴミ箱へ放り込むと、実月はオフィスへと戻っていった。

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魔法使いの一歩手前 かざはな淡雪 @lightsnow_kazahana

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