わからない①
月曜日の朝は新しい一週間の始まり。故に、これから五日間のお勤めが憂鬱だという人が大多数を占めると思う。実際、今朝乗り込んだ電車の乗客のほとんどが気怠げな表情を浮かべていた。
加えて、満員電車に揺られるストレスや眠気もあるのだろう。様々な理由で生み出された鬱屈に押しつぶされそうな車内の雰囲気はいつまで経っても慣れることはないと思う。
いつもなら実月もその一派のひとりだ。でも、今日の気怠さは普段の月曜日以上のように思える。とにかく瞼が重い。普段は飲まないブラックコーヒーを口に運んでみるが、その効果みたいなものは全く感じられない。
この過度な気怠さの原因ははっきりわかっている。土曜日の朝に生まれた疑問。その答えを土日二日間かけて延々と考えていたからだ。でも答えは一向に出てこず、そのまま月曜日を迎えてしまった。
今こうして自分の仕事机に向かい合っても、なお「どうして?」が頭の中で渦を巻いている。そろそろ仕事モードに頭を切り替えなくてはいけないことはわかっているのに……。
「野中さーん」
自分を呼ぶ声がした方をはっと振り返ると、そこにはふたつの大きな胸……じゃなくて、首を傾げた阪根さんが立っていた。
「あ、ごめん。どうしたの?」
「ベル・オーディオの新作の説明資料が見当たらないのですが、どこに保存されてるかご存じですか?」
ベル・オーディオは実月が勤める会社が販売代理店を担う、中国の新興オーディオメーカーだ。三万円以下の価格帯で評価が高いイヤホンを続々と展開している気鋭のブランドで、そこが今月発表した新作イヤホンの商品詳細の翻訳を阪根さんにお願いしていた。
「えっと、あれって確か共有の中に入ってるって聞いたけど……」
まだ始業の時間では無いが、いつまでも気怠さにかまけてぼんやりしているわけにはいかない。気持ちを切り替えなくては。そう言い聞かせてパソコンに向き直る。が、パスワードを入力したはずのパソコンの画面には「パスワードが違います」の文章が表示されていた。
「あれ? ちょっと待ってて」
慌ててキーボードに両手を伸ばしパスワードを入力する。いつもと同じ感覚でポチポチとキーを打ちエンター。だが、またしても「パスワードが違います」と出てきてしまった。
「あれ?」
「野中さん、大丈夫ですか? なんだかすごくぼんやりしてますけど……」
振り返ると、阪根さんが心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「えっと、心配しなくていいから。もうちょっと待ってて」
今度こそとキーボードをしっかり眺めながら、もう一度パスワードを入力しエンター。すると今度は読み込みマークがクルクルと回っている。ちゃんと入力できたようだ。ほっと胸を撫で下ろす。すると、
「野中さん、元気を出してくださいね」
「へ?」
阪根さんが何やら真剣そうな顔で話しかけてきたので、つい間の抜けた声が出てしまった。
「あの、一体何の話?」
「合コン、うまくいかなかったんですよね? でも仕方が無いことだと思いますよ。私は行ったことが無いですけど、こういうのは慣れだと思いますし、その反省を次に活かせばきっとうまく……」
「だからちょっと待って!」
止めどなく話し続ける阪根さんを手で制する。どうやら彼女には、合コンで失敗したから落ち込んでいると思われているようだ。
「あの、俺は別に合コンが上手くいかなかったから落ち込んでるって訳じゃ無いからね」
「そうなんですか?」
きょとんとする阪根さん。すると、
「おはよー。朝っぱらからふたりして何で揉めてんの?」
振り返ると、大きなあくびをしながらやってくる人物がいた。沖田さんだ。いつもの赤い缶コーヒーに口を付けながら、実月の隣の席に腰を下ろす。
「「あっ、おはようございます」」
「なんかトラブったことでもあるのか?」
「いえ、私は野中さんが落ち込んでたので慰めてたんです」
別に落ち込んでるわけじゃないですけど……。実月がそう口にしようとする前に、沖田さんが「あー」と何かを察したようにしゃべり始めた。
「合コンのことか。俺もあいつのことを全力で止めるべきだったな。すまんかった」
「いや、そんな……」
「まあ、あれは不可抗力みたいなもんだから気にすんな」
沖田さんが実月の肩をポンと叩いた。いや、気にしているわけでは……。そう言いかけたのだが、
「何かトラブルでもあったんですか?」
今度は阪根さんに先を越されてしまった。
「いっしょに行った営業の奴が酒に酔った勢いでこいつに絡みまくってな、滅茶苦茶飲ませてくるもんだから合コンどころじゃ無くなったわけなんだよ」
「うわあ、大変でしたね」
阪根さんが顔をしかめるその横で、実月は合コンでの災難を思い出してため息を吐いていた。あまり乗り気では無かったが、それでもご飯はおいしかったし楽しいと感じられる程には楽しめていた。それをぶち壊された悲しみは、土日を挟んだところで簡単に拭えるものでは無かった。
「それであの後そいつを家まで送って行ったんだけどな、なんか自分が狙ってた女の子が最初からずっと野中ばっかり相手にしてるのが気に食わなかったって宣いやがって。だからもうあいつをもう合コンに呼ばないことにした」
あれは確信犯だったのか。くだらない。その狙ってた女の子というのは、恐らく双葉さんのことだろう。いくら相手にされなかったからってやっていいことと悪いことくらい……。
「へ?」
思わず口から間抜けな声が漏れ出てしまった。確かに双葉さんにはかなり最初の段階から絡まれていたのだが、それって最初から自分のことを眼中に入れていたということなのだろうか? でもなんで……。
「でもよかったじゃないですか!」
再び思考の沼に沈みかけた実月を現実に戻したのは、なぜか目をキラキラと輝かせた阪根さんだった。
「な、何が?」
「野中さんに興味がある子がいたことですよ! 彼女を作るチャンスですよ! その子ってどんな子なんですか?」
ひとりで盛り上がる阪根さん。その勢いにタジタジになっていると、沖田さんがスマホを取り出して、
「写真あるけど、見る?」
「見たいですっ」
沖田さんがスマホを操作し出すと、それを阪根さんが興味津々に画面を見つめ始める。この人たちはどうして当事者を置いてけぼりにしてこんなに盛り上がれるんだろうか? そんなことを考えていると、阪根さんが更に輝きだした。
「えー、めちゃめちゃかわいいじゃないですか! こんなかわいいロリっ子、逃す手は無いですよ」
「そうそう。お前の好みとはちょっと違うと思うけど、せっかく興味持ってくれてるんだからアタックした方がいいぞ。なんなら、双葉ちゃんとの飲みの席でもセッティングしてやるぞ。この前のお詫びを兼ねてな」
面白い観察対象を眺めるようにニヤつく沖田さんと、純粋にこの話を楽しんでいるらしい阪根さん。他人の色恋の話は楽しい気持ちは理解できるけれども、余計なお世話だと言ってやりたい気分だ。
「お、面白がらないでくださいよ! 別に結構ですから!」
「なんでだよ。せっかくのチャンスをフイにするのか?」
「そこまでしてもらわなくて大丈夫です! だいたい、次に会う約束はちゃんと……、あ……」
勢いに任せて口走ろうとしたことを咄嗟に飲み込む。しかし、ふたりは既にきょとんとした顔で実月を見つめていた。
「何、次会う約束って?」
「な、なんでもないですっ」
「お前、あの後双葉ちゃんと何かあった?」
「だから、なんでもないですから!」
誤魔化すように自分の机に向き直る。でも、ふたりからの疑念を孕んだ目線に時既に遅しという実感が湧いてきて、顔中からどっと嫌な汗が噴き出し始めていた。
すると、
「そういえば私、金曜日の夜に野中さんを銀座駅で見かけたんですけど……」
「えっ!?」
「私の彼とデートの帰りだったんですけど、さっき沖田さんが見せてくれたような子と一緒にいたような気がするんですよねえ」
阪根さんからの突然のぶっ込みに、顔が更に熱くなっていくのを感じた。その時間の記憶は一切ないのだが、ふたりの面白がる様子や話の流れから、これ以上詮索されたくないという気持ちがどうしても湧き上がってしまっている。
「たっ、たまたまですよ? 双葉さんとは帰りの方向が一緒だったんで、たまたま一緒になっただけですって。俺は覚えてないですけど」
「……覚えていないのに一緒だったことは認めるんですね」
「あ……」
パソコンへ伸ばした指の動きが止まった。墓穴を掘るとは、まさに今の自分のことを言うのだろう。振り返ると、阪根さんが勝ち誇ったようにニヤニヤとこちらを見つめている。
「まさか本当に一緒に帰っていたなんて、やりますねぇ野中さん」
……もしかして、これはカマをかけられたというものだろうか? 固まったまま動けないでいると、沖田さんが実月の右肩にぽんと手を置いた。
「野中、今日一緒に海鮮丼でも食べに行くか?」
「っ――」
海鮮丼というパワーワードに頭がくらっとした。そういえば最近、お刺身どころか魚をあんまり食べていない。そのことを見透かしたような沖田さんの目線は少し腹立たしかったが、同時にこれはもう逃げ切れないことを悟ってしまった。
「……わかりました」
「沖田さん、私もご一緒していいですか?」
「いいよ。俺と野中で奢ってあげる」
盛り上がるふたりを前にして、もはやうつむくことしか出来ない。つくづく自分がこんなに分かりやすい人間であることを呪いたい気分だ。
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